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 唇に残る熱が冷めない。


一ノ瀬さんにとってのキスは、それ程大した事じゃないかもしれない。

ドラマでもキスシーンはあるだろし……でも、私にとっては大事件。


やっぱり価値観が違いすぎると思った。


一ノ瀬さんが連れ来てくれたお店は、モダンで落ちついた雰囲気の素敵な小料理屋さんで、カウンターの中に居る短髪の板前さん風の人は、一ノ瀬さんを見ると小さい声で「いらっしゃい」と言ってからカウンター席を1度見たけど、背後にいる私を見て少し戸惑った様子を見せた。


「今日は1人じゃなくてね、個室空いてる?」

「空けてる」

「そ、流石だね」


だけど、その人はまた私を見て少し笑って「どうぞ」と言ったら、一ノ瀬さんは手を繋いだまま店内の奥へと進んでく。


通された個室の目の前に広がる大きな窓からは、手入れのされた庭園が一望出来る。


「ここ、特別よ?あの門番が首を縦に振ってくれないと、この部屋通してくんないのよ」

「そうなんですか、嬉しいです。ねぇ一ノ瀬さん、鯉いるのかな?

ねぇ、見て?あそこにユラユラ泳いでる様に見えない?」


その光景に思わずテンションの上がってしまった私は、ソファに座る一ノ瀬さんの横で、立ったまま前屈みになって中庭の池に指を指す。


「はい、はい、いー眺めだよね」

「はい、すごいですね。料亭じゃないのに、本格的な中庭。六本木にこういうお店あるんですね、知らなかったです!ありがとうございます、連れて来てくれて」

「いいえいいえ、お礼を言うのはこっちほうだからね、ひらひらスカート越しのレースのピンク」


レース……

……ピンク?


ボッと一瞬として顔が赤くなるのが分かる。



「えっ!ちょっと!」

「だからあるって言ってるじゃない下心。ま、ほら、こっち座って飲むよ?何がいい?ここ、小料理屋だけど、飲みものなんでもあるから。」


ちょっと膝より上の丈のスカート履いてだだけなのに!


私は焦る気持ちのまま急いでスカートの裾を両手で抑えて……


一ノ瀬さんの前に立って、腰を屈めて両手でスカートの裾を頼りなく引っ張って隠しながら大人しく座る事にした。


一ノ瀬さんは、白ワインのボトルと適当に軽めの料理をオーダーしてくれた。テーブルの上には色味の綺麗な一品料理が程良く並べられてた。


そして、スライドドアが静かに閉まると、私と一ノ瀬さんの空間となって、その空気に耐え難くなり白ワインを両手持って、そのまま口に運ぶ。



「あ、美味い」


その声に思わず顔を上げると、


「ね」


キャップを脱いで、少しだけ前髪に癖が付いた一ノ瀬さんがまるで少年みたいに笑っていた。


「……はい」



今迄みたいな強引な態度に反発する気でいたのに、不意をつかれた表情に何も言えなくなってしまう。


「あの……一ノ瀬さん」


「ん?何?」



何……と言われても困る。


だって、聞きたい事は山程あるのに、どう切り出して良いのか分からないから、


「……よく、行くんですか?あのBARに」


当たり障りなないところから聞いてみる。


「まぁね、よくってワケじゃないけど、昔から知ってる店だからね。それこそ、同じ理由じゃない?美雪と」

「私と一緒?」

「あの店を知ったきっかけ」


一ノ瀬さんは、そこまで言うと白ワインを飲み干してた。


そっか……春馬と……


そう考えていると、一ノ瀬ステンレスのワインクーラーに手を伸ばそうとする仕草が目に入って、私は条件反射的にワインボトルを取り出して、側にあったナプキンを添えると、ラベルを表面にして、一ノ瀬さんのグラスに近付けた。


「さすが完璧だね、タイミング」

「……はい」


こんな時まで咄嗟に反応してしまう自分がちょっと悲しい。


白ワインを注ぐと、一ノ瀬さんは1度グラスをジッと見てから飲み始めて、


「ん、美味しいわ」

「そう……ですか……」

「美雪が注いでくれたからかな」

「違うと思いますよ」

「なら、美雪と飲んでるからか、やっぱ」

「それも……違うと思います」

「なんで?」

「……何でって……」

「だってさ、料理もお酒もシチュエーション次第で味は変わるよ。演出家って職業も居る位だし。だから、噛み締めてんのよオレは、今のこのシチュエーションを、美雪と一瞬に居る空間の全てを」


そう言って、一ノ瀬さんは真剣な眼差しで私を見つめる。


「美雪。自分が見ている世界以外でも、色んな人が生きていて色んな想いを抱えてるもんよ?今日、こうやってオレと一緒にいる時間も偶然だと思う?必然だと思う?」

「……一ノ瀬さんの言ってること、よくわからないです……」


「今日のキスなかったことにしないでねってこと」

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