29

流されてはいけない。


そう囁く私が脳内に居るのは確かだ。


そんな私を一ノ瀬さんは見つめている。


茶色の瞳はとても美しくて、男の人なのにきめ細かい肌も綺麗で、思わずその頬に触れたい衝動に駆られるのを意識して留まった。


「美雪がここにいるだけで嬉しい」


アヒル口の様な上唇の薄い唇がそう言い放つ。


……なんて応えればいいの?


私は分からなくて、下唇を噛むと

一ノ瀬さんは口角をあげて


「言葉を選ばなくてもいいし、今は声にしなくてもいい。分かってるつもりだから、アナタの立場とか今の状況。でもね、イヤなのよ、何もしないで終わる関係が。手を伸ばして掴みたいのに、それさえ許されないなんてさ」


あの夜みたいに

私の手を触って指を繋ぐと、身体ごと引き寄せられて、気づくと一ノ瀬さんの温もりに包まれていた。


「だから、オレは……動くよ。アナタを手に入れるために」


声の振動が、確かに伝って届いてくる。


「自分の未来なんだから、どっちがいいかなって、選べばいいじゃん?」

「……一ノ瀬さん……」

「ん?なに?」

「私は春馬と付き合っています」

「だから?」

「選ぶなんて……出来ません」

「どーして?」

「どうしてって、浮気になるじゃないですか」

「そう?それってさ、オレとは浮ついた気持ちにしかならないってこと?」

「一ノ瀬さんがどうとか、そういう意味じゃなくて」


「その気持ちは本気にならない?」


一ノ瀬さんは、言葉巧みに私の心の中に入ってじんわりと占めていく。

頭の中では、赤い警報ランプみたいなのが点滅して鼓動が速くなる。この腕を振り解こうとすれば出来ると思うのに、動けない。


だけど、静寂の中

私のバックの中では、携帯電話が震え始めて音にならない電子音が響く。


「……出たら?きっと、心配でしかないんじゃない?」


でも、言葉とは裏腹に、私の身体を抱きしめている一ノ瀬さんの腕は弱まるどころか一層強くなる。だから……


「……はい。だから、出ないと、電話に」


出れない。


春馬からの着信に。


「違うよ?オレがね、出てほしくないから、捕まえてんの。美雪を」


そんな私を一ノ瀬さんは分かっていて、私もそんな一ノ瀬さんを分かっていた。


「……どうしてですか?」

「ん?」


やっと、携帯電話のバイブレーションが止んで、また静寂が訪れる。


「だって、共犯者なんでしょ?私たちは。それなら、一ノ瀬さんに抱きしめてもらっている私は、捕まえられているんじゃなくて、逃げないでいる、の間違えじゃない?」

「認めてくれるの?」

「だって、仕方ないじゃない?現に、こうやって一ノ瀬さんから離れられないでいるんだから」

「素直じゃないね、アナタも。言っちゃえばいいじゃん?ちゃんと。だってさ、怖くないでしょ?気持ちは一方通行じゃないんだから」

「それは……まだ、言葉にできません」

「そ?なら、待つよ。苦手じゃないからね、ワタシも待つのは。経験と実績があるわけだから、でもさ……」


少し、抱きしめている腕が緩むと、その隙間から一ノ瀬さんの指先が伸びて、唇に触れるとぐっと顔が近付いて鼻先がゆっくりと合う。


「もう、キスしていい?」

「……ダメです」

「なんでよ、理由は?」

「……分かっているくせに」

「聞くよ。だってこの先に進みたいからね、じゃなきゃいつまでたっても据え膳状態なんでしょーよ」

「ごめんなさい。でも……」

「じゃあさ、オレのせいにしてよ。今だけは」


私の返事を聞く前に、一ノ瀬さんはキスをした。


自然と目を閉じると、重なり合う唇は角度を変えて、柔らかさを確かめるように、キスを繰り返し、少しずつ深くなるから、乱れ始め息が保たなくなる度に、この時が終わらない為に、唇と唇の微かな隙間から得た空気で続けた。



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