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「ふーん。ま、いいけどね」


一ノ瀬さんは、そういうとやっと視線を外して左手でお箸を持ちご飯を食べ始めた。


春馬は、それを確認すると少し顔を近付けて、「俺かと思ったよ」ってちょっと笑ったから私も合わせて、「そうだね」と相槌を打つ。


マスターがグラスに注いだビールをカウンターに置いてくれて、私たちはグラスを軽く合わせるとそのまま一口ビールを飲むと、なんだかより一層苦みが口の中で広がる。


「そーいえば、千夏。来るよ?今からこの店に」

「えっ?」


一ノ瀬さんはそういうと何事もなかったかのようにお箸でハンバーグを切りながら口に運ぶ。


「いや、あいつ出張中だろ?」

「よく知ってんね。その出張ってやつで、毎日のように新幹線であちこち行っては夕飯食いにここに来んのよ。多分そろそろ来んじゃないかな?最終の新幹線中でビールだけ飲んで、いつも若干出来上がった状態でインする」


このBARに来たことも、一ノ瀬さんに会うことも……私にとっても意外だったのに、まさか千夏先輩に、春馬とヨリを戻したことを伝える日が今夜になるなんて……


気持ちは固まっていても、急展開にどうしていいのか分からなくて、ただ俯いた。


「ごめん、私……化粧室に」

「あっ、うん行っておいで」


背の高い椅子から滑るように降りると、振り返ることなく店内の奥にある洗面所とトイレが1つになっている広めの化粧室へと真っ直ぐに向かって、パタンと扉を閉めると深呼吸をした。


一ノ瀬さんは私と春馬の関係に気付いている。


勘が鋭そうなうえに、2人でここに来たというだけでもそう考えるのは自然だし……だからこそ、私の反応を見て楽しんで遊んでいるのが手に取る様に分かる。

きっとマスターにもなんとなくそう思っている。

ぐるぐると考えが頭の中を巡る。千夏先輩の気持ちを知っているからこそ悩みは消化されないけど、ずっとここには居れないから、仕方なく意を決して出ると


「久しぶり。美雪」


開いた扉の目の前に一ノ瀬さんが壁にもたれながら立っていて……咄嗟に化粧室へ逃げようするけど、腕を掴まれて引き寄せられる。


「ちょっと、なんで逃げんのよ」

「あのっ、離してください」

「ヤダよ、だって離したらまた行っちゃうんでしょ?春馬のとこ」

「……はい」

「オレとキスしたのに?」

「あれはっ……」

「そう、そうだよ。不可抗力。事故みたいなもんだって処理したんでしょ?美雪がそういう事にしたいなら、してもいいよ。オレにとっては違ったけどね」

「そういう風に処理したいのは一ノ瀬さんの方なんじゃないですか?」

「なんでよ。じゃあいいのね?あのキスは気持ちが伝わり合って交わしたキスで」

「そういう意味じゃないです」

「あ、そうだよね。美雪とキスするときはちゃんと了解を得てしなきゃいけないんだっけ。じゃあ、春馬は役所みたいにその手順を踏んだわけね。なるほどね、優等生同志で何より」

「……馬鹿にしないでください」

「してないよ。むしろ羨ましく思っている。それで……歩幅を合わせようと、柄にもなく美雪のご希望通り正攻法で臨もうとしたオレは、一体なんだったのかなってね」


一ノ瀬さんが、弱々しい溜息をつく。


私は、なぜかそんな一ノ瀬さんから目が離せなくて少しでも表情を見たくて近付くと、前髪の隙間から薄茶色の瞳と共に心が揺さぶられる。


「知りたかった、連絡先」


振り払わないままでいた腕を、一ノ瀬さんは更に引き寄せて


「会いたかった、美雪に」


そのまま肩を抱くと


「あの時、無理にでも繋がりを求めていたら、何か変わってた?」


顔を斜めにして、私に唇を触って、腕を伝って指を絡めるとキュッと繋ぐ。


私は、触れそうで触れない一ノ瀬さんの唇を見つめて、泣きたい位に切なくてたまらなくなっていた。


重量に逆らう感覚

春馬への背徳

そして、千夏先輩に対する罪悪感


重なる罪の意識は、現実の輪郭をはっきりと縁取り私自身の弱さを露呈した。


「……美雪。行こう」

「どこに……?」


私には行く場所なんてないじゃない……

春馬の元に戻るしかないのに


「千夏、来てるから。行くよ」


一ノ瀬さんは私の手を引いて裏口から出ると、着ていたコートを脱いで私に頭から被せると、雨に濡れない様に抱きながら小走りで近くのパーキングに停めてあった車高の高い黒い車の助手席に私を乗せてくれた。


「すげぇ降ってんね、大丈夫?寒くない」

「……はい」


パーキングの自販機で料金を払い終えた一ノ瀬さんが、運転席に戻ってきてエンジンをかけると濡れた指先で、車内の温度調整ボタンを押す。


それを、辿ると雨にびっしょりと濡れた一ノ瀬さんがハンドルに身を預けてた。


「一ノ瀬さん、たくさん濡れちゃて……ごめんなさい。私にコートかけてくれたから」


わたしは急いでバックからハンドタオルを取り出して、濡れてしまった一ノ瀬さんの腕や肩や髪を拭くと、


「今日はハンドタオルなんだ?」

「えっ?今日は?」


顔を上げた瞬間……ふと、薄茶色の瞳と視線がぶつかる。


「キスしていい?」

「……ダメです」

「クフッ、相変わらずだね、あなたも」


車は、私の不安を乗せて降り続ける雨の中を走ってく。



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