26

雨の中、タクシーに乗って明治通りを走っていると、ワイパーが忙しくフロントガラスを動き、辛うじて視野を確保していた。


眉間に皺を寄せた春馬の横顔を赤いブレーキランプが照らして、まるでドラマのワンシーンの様だったから、かっこいいなって思いながらも同時にアイドルという職業であることを思い出す。


きっと、大学で出会わなければ、本来違う世界の人。そう考えていると悲しくなって、私は窓の外を眺めた。


恋愛経験の少ない私にアイドルの彼女という代名詞は、とても難しくて誰にも打ち明けられない悩みが尽きない日々を与えた。それは、付き合っていることを秘密にしなければいけない事よりも、いつもみんなの憧れの存在で居なければいけない春馬を独り占め出来ない寂しさが大きい。


でも頑張って仕事をしている姿を見ているからこそ応援したいから、複雑な気持ちは心の中に秘めてユラユラと揺れた。


最近は、そんな昔の気持ちが復活し、押し寄せては返す波のようにキリがなく、私は飲まれない様に、赤いバッグのショルダーをギュッと握る。


「やっぱ、混んでんな」


予定通りに物事を進めたい性格の春馬は、少し苛立ちながら溜息をついたから

私はいつも通り心の中で大丈夫だよって思いながら笑いかける。


「そうだね。でも、金曜日の夜で雨だから仕方ないよね」

「まぁ、そうだよな。美雪、大丈夫?」

「ん?何が?」

「さっきからずっと黙ってるからさ、どうかしたのかなって」

「どうもしないよ、ただどこに行くのかなって思っていただけ」

「不安?」


春馬が、私の右手を手繰り寄せて指を絡めるとギュッと握って微笑んでくれるから、本当は下らないことを思い出していただけなのに、なんだかホッとしたけど


「ううん。今夜は一緒に居るのが春馬だから不安じゃない」

「今夜は?」


無自覚の中で一ノ瀬さんと過ごした夜がフラッシュバックして言葉にしてしまった綻びをうまく誤魔化せないから、春馬の肩に身体を摺り寄せた。


「春馬と一緒にいると安心できるって意味だよ」

「そんなに安心されても困るんだけどな。俺、そんなに美雪をドキドキさせてない?」


触れた肩から声の振動が伝わって、隣に座っていた春馬が少し遠慮がちに体重をかけて寄り添う。


「ドキドキしているよ。……触ってみる?」

「えっ?いいの?」

「……ここでじゃダメ。お家に帰ったら、ね?」

「やっぱ、俺の方が確実にドキドキしてるな。美雪に」


春馬は、私の頭を撫でて後頭部を抑えると、顔を覗き込むように首を掲げてキスをする。


いつもみたいに、深いキスを期待して繋いでいた手を握るけど、すぐに唇が離れたから名残惜しくて見上げると、


「やばっ、ここタクシーの中だった」

「あっ……そうだね」

「だから、そんなに誘惑するような目で見んなって。お家に帰ったら……なんだろ?」


照れる私たちをのせたタクシーは暫くして、目的地に到着すると、春馬は料金を払ってビニール傘を広げた。


その透明の向こう側にはあの夜と変わらない光景が雨に濡れている。


「久しぶりだろ?」


私は、ただ笑顔で返して、地下に続く階段を降りて、OPENのプレートを見ながら春馬に続いてウッド調のドアから中に入ると、今夜もおしゃれなUKロックが流れる薄暗い店内の所々配置された、橙色とクリーム色の照明があの夜を思い出させた。


「いらっしゃい春馬……と美雪ちゃん?懐かしい組み合わせだな」


グラスを磨くマスターが私たちを見て、一瞬戸惑いながらも笑顔で迎えてくれたけど……私は、すぐにそのカウンターの1番奥にいる人を見つけて、息をのむ。


「だろ?ま、色々あってね。あれ……イチ?」


一ノ瀬さんを見た瞬間、鼓動が速くなって治まらない。


「どーも、こんばんは。お2人さん、って春馬とはさっき現場であったばっかだけど」

「なんだ、イチも来てたんだ。もしかして、今メシ?」

「そ、オレだけ取材一本入ってて遅かったから。最近、メシのローテンションは弁当か出前かココなわけ。相変わらずあんまり客もいないしね、便利なもんよ。……で、そっちは?」


春馬と話しているのに、一ノ瀬さんは私を見つめている。


「俺らは食ってきたよ。美雪が作ってくれたからね、……美雪?」


春馬が、私と一ノ瀬さんの視界に入って、やっと相槌を求めていることがなんとか、「うん」とだけ掠れた声で言った。


「へぇ、いいね。美雪ちゃん、オレにも作ってよ」


その言葉に何も言えないままでいると、一ノ瀬さんはそんな私を弄ぶかのような会話を繰り返しながら核心に近づこうとする。


「いやいや、まだやめてよ。これは特権なんだから」

「ふーん。……特権ね」


春馬がそう言って、私の為にカウンターの椅子を引いて座らせてくれると、マスターにビールを2つ頼んでいる最中も、ずっと薄茶色の瞳に私を捕えたままで、どんどん大きくなる鼓動だけが響いた。


一ノ瀬さんが自分の唇を指でトントンと指すと、


「……グロス」


春馬が親指で拭う仕草を横目で見て


「ククッ……桜色みたい。可愛い色だね、美雪ちゃん」


左腕で顔の表情を半分隠しながら肩を揺らして笑っていた。

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