第5話 夢じゃなかった

目が覚め、時計を見ると午前8時だった。

余り寝てないけど目覚めはいい。恐る恐る枕元に視線を移す・・・。

あれは夢だった、はず・・・と・・・。


 夢じゃなかった・・・。


 まさかの耳山田さんはいつの間にか僕のアイスノンの端っこに移動していた。アイスノンに覆いかぶさって、まるで岩山に登山途中みたいな恰好でうつ伏せになって眠っていた。

 僕が作ってあげた包帯薄がけはベットから落ちかけている。寝ながら暑くてアイスノンまで辿りついたようだった。

 くーぴーくーぴーと寝息を立てている。思わず笑ってしまった。警戒心が全くないのか、見ず知らずの人の家でこんなにもよく眠れるものなのだろうか・・・。

 起こす必要もないし耳山田さんをそのままにして僕は1階へ降りた。


「おはよう。」

台所で母さんがきゅうりを切っていた。

「あ、おはよう。起きた?」

「うん」

「あんた、今日は?」

「今日は何もない。夜バイト。」

「あ、そう。私これからパートだから後はよろしくね。」

「はーい。」

「後よろしく」の意味は台所の片づけと洗濯を干すことと、雑種のチロ(推定8歳)の世話の事だった。

 朝食はトーストとサラダだった。苺ジャムもある。僕は毎朝2枚食べる。食べてる横で母さんは出掛ける身支度を整えていた。

 僕はどちらかというとやせ形だけど母さんはどっしりと身体に肉を蓄えている。親の結婚式の写真を何年か前の正月に親戚の家で見た事があるけど、母さんが今とは別人みたいに痩せていて驚いたことがある。僕を産んでそれからの年月、一体、母さんに何があったのだろう・・・。今、横に座る母さんの膝には腹の肉が2段になってのしかかっている。鏡に向かって口を大きく開けてオレンジ色の口紅をくるっと一回転させて塗っていた。鏡を見て満足気に頷いた。

「さ、じゃあ、よろしくね。いってきます。」

「あーい、いってらっしゃい。」

玄関から「鍵閉めてね。」と声がかかり、「はいー」と返事した。


 食事を終え、台所の洗い物も済ませ、洗濯物も干し、庭のチロを見ると眠っていた。僕は2階の自室に戻った。耳山田さんは起きただろうか・・・。


 ベットを見ると、彼は仰向けになり万歳の体勢で寝ていた。アイスノンが溶けて冷たい場所が端っこにはなくなっているからか中央の方までどうやらゴロゴロ移動してきたらしい。僕の頭があったらしき窪みで身体が止まっている。顔を近づけてみたら、さっきと同じ寝息が聞こえた。

 完全にリラックスしてる・・・。無防備に初対面の人間のベットで寝られるものなのだろうか。僕にはできない・・・。

 夢じゃないことがはっきりしたけど、目の前で起きている事の理解はできなかった。

 さて、誰もいない時間帯は1階のリビングで勉強する。だってエアコンがあるから。

今日の午前中にやろうと思っていた英語の単語帳をとノートと辞書と筆記用具と携帯を持って下に降りた。耳山田さんは余りにも深い熟睡だったのでそのままにしておいた。


 1時間程リビングで過ごしていたけど、ふと耳山田さんの事が心配になった。そろそろ部屋の温度も上がって来て目を覚ましているかもしれない・・・。僕がいなくて困ってるかも・・・。

 ベットを覗きこむと驚いた事にまだ寝ていた。

「耳山田さん・・・。」

声を掛けてみる。反応はない。一応息はしている。

「耳山田さんっ。」

ちょっと強めに声を掛けたけどやっぱり反応がない。僕は人差し指で耳山田さんの肩付近をツンツンしてみた。すると・・・

「うーん、ん。」

と、むにゃむにゃ言いながら目を開けた。

「おはようございます。」

耳山田さんは僕を見るけどどうやら焦点は合ってない・・・。

「良く眠れました?」

「んーん。」

どうやら寝起きが悪いらしい・・・。意識がはっきりするまでにかなり時間がかかるようだ。もしかして、これから毎朝これなのか・・・。

しばらく瞬きを繰り返し、手と足を動かしゴロゴロしていたが、

「おい。」

と僕を見て言った。

「はい・・・。」

「腹減った。」

ああ、そうか・・・と僕は1階に麦茶を取りに行き、冷蔵庫を覗いた。耳山田さんの好物を知らない・・・。炊飯器を見るとご飯が残っていたので、器に親父のお猪口を使い、白飯を盛った。そしてシャケフレークを少し乗せてみた。


 耳山田さんはマクラの上で胡坐をかいて腕を組んでいた。瞑想でもするように・・・。

「耳山田さん・・・。朝ご飯ですけど。こういうの食べます?」

腕を組んだまま目を開けチラとこちらを見た。

「ふむ・・・。」

勉強机に場所を移し、お猪口のご飯と耳山田さんは向き合った。

 そこで僕は気が付いた。箸がない。どうしよう・・・。

と、思ったら両手でお猪口を抱えるようにしてシャケご飯に頭をうずめるようにして食べ始めていた。

 ワ、ワイルド・・・。

「ふんふん」と言いながら米をほおばる。どうやらお気に召したようだ。僕はほっとする。

「あのぅ、麦茶もどうぞ。」

昨晩と同じくペットボトルのキャップに麦茶を注いで置いた。

 耳山田さんは「ふむ」と言って、これまた麦茶をぐびぐび飲んだ。

 ものの数分で完食した。老人なのに殆どかまずに飲み込むような食べ方だ。ちゃんと消化されるだろうかと心配になる。

 ふうーと息をついて足を投げ出し両手も身体の後ろについて満足げな耳山田さんだが腹だけがぽっこりと出ていた。ふんどし一丁でその姿、小さいけど迫力がある・・・。

「あの、日中誰も家にいない時は1階のエアコンのある部屋で僕は勉強をするんですが、耳山田さんはどうされます?」

「どうとは?」

「あ、僕と一緒に1階に行きますか?それともここにいますか?」

「どっちでもいい、わしは横になりたいんじゃが・・・。」

 さっきまで寝てたくせにもう眠いって?

「はぁー。一緒に下に行きますか?涼しいですよ。それにこの部屋はもうすぐとっても暑くなります。今も暑いけど・・・。」

「ふうむ。」

 という訳で耳山田さんも連れて1階に降りたボクは快適なリビングで勉強を開始した。耳山田さんは僕の横にタオルを敷いてガーゼのハンカチを掛け布団代わりに横になった。


 英単語の暗記を始め、僕はしばらく集中していた。何故かすいすいと覚えられている気がする。暗記が苦手だからこういうのは珍しい。年にホント数回しかない。耳山田さん効果かもしれない・・・。僕の勉強がはかどるために神様が遣わした有難い訪問者かもしれない・・・。なーんて。

 自分用に淹れた麦茶を少し飲んだ。エアコンの設定温度は25度。冷たい風が時折あたって気持ちいい。僕は勉強を続けた。


 それからまた1時間程経った頃だろうか、耳山田さんが突然

「ううっ。ううっ。」

と唸りだした。僕の横で畳の上にタオルとガーゼの布団に丸まり僕に背を向けて唸っている。

「どうしました?耳山田さん・・・。」

 耳山田さんは答えない。心配になった。何が起きたのだろう・・・。まさか、食べ過ぎ?腹痛か?僕は人差し指と親指でガーゼの掛け布団をチラと持ち上げた。こちらに背をむけた耳山田さんの背中は骨ばっていて弱弱しい。

「耳山田さん?」

身体に触れると驚くほど冷たかった。

「まさか、死んじゃった?」

僕は人肌とは程遠い冷たさにビビッた。

耳山田さんを手のひらに乗せるとやっぱり全体が冷たい。丸まった身体は固まったかのように動かない・・・。

「どういう状態?これ・・・。」

病院に連れていく訳にいかない。こういう時はどうすればいいのだろう・・・。

 取りあえず、エアコンを止めた。そして昔何かの映画で観たシーンを思い出し、左手の手のひらに耳山田さんを乗せ自分のTシャツをたくし上げて自分の胸の辺りに持ってきた。冷たい耳山田さんが僕の胸でヒヤッとする。その冷たさに肩が上がった。時々左手動かすけど耳山田さんは何も言わない。なかなか体温は戻らない。僕はバイト先の劉さんを思い出していた。   

 僕が女で劉さんみたいに胸が大きかったら間違いなくその谷間に耳山田さんを挟んだのに・・・。そしたらすぐに耳山田さんは体温を取り戻しただろう・・・。僕の骨ばった薄っぺらい身体では体温をおすそ分けするのも一苦労だ。

Tシャツの襟ぐりを右手で引っ張って上から覗きこむと息はしているようだった。

 どの位そうしていただろうか、少しずつ身体が温かくなってきた。考えてみればこの小さな身体にエアコンの冷気は身体に悪いはずだった。申し訳ない事をしてしまった。もう少しで耳山田さんを凍死させるトコだったかもしれない・・・。

 胸に当てた身体が僕の体温と変わらなくなってきて、僕は左手に乗せた耳山田さんを元の場所にもどした。タオルを追加して彼に掛けるとしばらくして寝息が深くなったいった。僕はホッとした。

 耳山田さんはその後もずっと眠り続けた。エアコンの設定温度を28度に上げ、時折台所の扉を開けてリビングをキンキンに冷やさないようにしていた。

 このまま耳山田さんと暮らしていくのなら色々と考えなくちゃいけないな・・・とぼんやり考えた。

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