ParasiteⅡ ― loop 1 ―





 視界に映る景色は、そこだけを切り取ったのなら青春の一ページと言って差し支えないものだ。

 初めての学園祭で浮かれる一年生、少しこなれて大きなことをしてやろうと企む二年生。最後の想い出にと精一杯楽しむことを誓う三年生。

 皆が皆、希望と夢に満ち溢れ、今から始まる一時に思いを馳せている。


 だが僕は、この状況に不気味な薄ら寒さを感じていた。


「学園祭は、確かに今日なんですね?」


 口を開いて出た言葉は、確認のそれだった。

 目の前には訝しげにこちらの様子を窺う毒芹どくぜり沙織さおり先輩。

 自分でも明らかに態度がおかしいことは理解している。彼女から見ればよほど奇異きいに見えることだろう。


「ああ、そうだぞ。どうしたんだ、様子がおかしいな。風邪か?」


 眉をひそめながら、窺うように僕の顔を覗きこんでくる。

 ついには無遠慮に僕の額に手を当て、「熱は無いな」なんてやり始める始末だ。

 背後から感じる夢衣と叶ちゃんの気配が少しばかり不機嫌なものになり始めたことを感じ取った僕は、慌てて心配する先輩の手をそっと押し返すと距離を取る。


「いえ、別に、少し驚くことがあったので……」

「ん? ……驚くこと? 何かおかしいことがあったら何でも言えよ。短い付き合いとは言え、アタシは兄無の偉大なる先輩様だからな。相談に乗ってやらないこともない」


 そうふんぞり返りながら自信ありげに答える先輩を見て、少しだけ安心したのかもしれない。

 もしかしたら、彼女なら僕が感じているこの異常を笑わずに聞き届けてくれるのではないかと思ってしまった。


「昨日も、学園祭をした様な気がするんですよ。毒芹どくぜり――沙織さおり先輩、確かに学園祭は今日なんですよね?」


 その言葉に何故か驚いた様子を見せる先輩。

 夢衣と叶ちゃんは相変わらず無言だ。


「……先輩?」

「っと、あ、ああ……そうだぞ、今日が学園祭の日だ。なんだ梔無くちなし。まさか、変なバケモノに夢でも見せられているだなんて言うつもりじゃないだろうなぁ?」

「……いえ、そういうつもりはありませんが」

「ならいいんだよ。それならいいんだ」


 ふと先輩がほんの少しだけ、苦しそうに腹を押さえていることに気がついた。

 先程まではそんな様子は無かったので、おそらく僕と話をしている間の出来事だろう。

 体調でも崩したのだろうか?


沙織さおりちゃん先輩。お腹痛いんですか?」

「ん? ああ、これな、癖なんだ……ははっ」


 誤魔化すように笑いながら、なんでもないと言った様子で話を切り上げられてしまう。

 彼女にしては珍しい、歯に物が挟まった言い草に興味をそそられたが、流石の僕もこれ以上追求するような失礼な愚は犯さない。

 女性特有の体調不良だったりした場合、親切が相手を不快にさせることがあるからだ。

 僕は配慮の出来る男なのだ。


「ふーん……」

「どうしたの、夢衣ちゃん?」

「なんでもないよ、叶さん」


 先程まで無言だった二人のやり取りが背後から流れてきた。

 普通なら積極的に会話に参加してくるであろう二人がずっと押し黙っていた事に気がついた僕は、その違和感に眉を顰める。

 だがこの混乱した状況ではその事実に何らかの答えを見出すことは出来ない。

 差し当たっては……この不可思議な状況に流されるまま過ごす位しか方法が見つからない。


「とりあえず、まずは委員会の部屋に行くぞ。委員長も待っている」

「そうですね、分かりました沙織さおりちゃん先輩」

「そっちの二人もいくぞー」

「……はい」

「はぁい! いこっ、夢衣ゆいちゃん」


 結局、僕は沙織先輩に促されるまま、昨日と同じように学園祭の実行委員会の教室へと足を運んだ。

 なんの変哲もない、昨日と寸分たがわぬ光景。

 見上げた校舎に誂えた装飾が、なぜが酷く不気味に見えた。


 *


「ああ、遅かったね三人とも。ありがとう、沙織さん」

「はぁ、まぁ……」

「じゃあ早速始めようか。っと、梔無くちなし君たちの分は俺がやっておいたから安心していいよ」

「ありがとうございます坂上さかがみ先輩」


 学園祭実行委員長の坂上先輩は特別変わった様子もなく、僕らの遅刻に対して寛容な態度を見せてくれた。

 彼や彼の友人たちもこの状況には気づいていないのだろうか?

 この教室に来るまでこっそりと行き交う生徒たちの様子を窺ってみたが、気になるところはなかった。

 生徒たちは昨日と同じく、今日も学園祭の準備に勤しんでいる。

 ――かつて僕らに訪れた悲劇。

"芸術作品"の時も、僕らだけが現実が塗り替わっていることに気が付けた。

 今回もそうなのだろうか?

 だとすれば、それはどれほど孤独なのだろうか。

 そしてまたあの悲劇が……。


「よしっ! 気を抜かないで行こう!」


 思考の海に埋没しているうちに、坂上先輩による貴重な訓示が終わってしまった。

 もっとも、僕らが彼の話を聞くのは二回目なので、一切聞かなかったとしてもなんら問題はない。

 耳に流れてきた話はまったく同じだったと……そう思う。

 はっきりと覚えていないために断言はできないが、ここまでの流れを見ると昨日の焼きまわしを寸分違わず繰り返しているであろうことが分かる。


 打ち合わせも終わったことから、他の実行委員がゾロゾロと教室から出ていく。

 先頭を切るのは坂上先輩、後に続くのは何人かの女生徒だ。彼はたいそう人気者なので友人ともファンとも表現できない、いわゆる取り巻き的な女性が常に周りを囲っている。

 別にそのことを悪く言うつもりはないが、少々男性としてのプライドをくすぐられた気分になりあまりよろしくない感情がわき起こる。

 もてる男はもてない男性の敵。世界共通の認識だと僕は自負している。


「あ、沙織ちゃん先輩。少しお話があるので待ってくれますか?」


 僕が余計なことに脳の容量を割いている時にその声は上がった。

 凛と教室に響く声は夢衣のものだ。

 室内を見回せば不思議なことに僕と夢衣、叶ちゃん。そして沙織先輩しかいない。

 はて? 昨日は他にも生徒がいたような?


 疑問と同時に、世界が一段階暗くなった気がした。


「ん? 話って、そんな時間ないからすぐに持ち場に行くぞ。途中で聞いてやるからさ」

「いえ、今がいいんです。今が」

「あれ? 扉が……」


 部屋から出ようと扉に手をかけ、慌てた様にガチャガチャと扉を開け閉めする沙織先輩。

 先ほどまで普通に利用されていたはずのそれがなぜか鍵でもかかったかのように強固な姿勢を見せている。


「今がいいんです」


 夢衣は静かに、ただそれだけを告げて沙織先輩に近づいていく。


「先輩、先輩。さっきの話ですけど、どうしてバケモノがいるだなんて思ったんですか?」

「いや、お前らの態度がおかしかったから……さ」


 振り返る沙織先輩には大粒の汗が浮かんでいた。

 顔色も悪く、緊張によるものかしきりにお腹を押さえている。

 僕は何かを言わねばと、漠然とそう思った。

 だがふいに豹変した夢衣の態度に、いつかの日、妹の姿をした何かが呟いた思い出すことすら本能が拒絶するあの忌まわしい言葉が浮かんでき、金縛りにあったようにその場に立ち尽くしてしまう。


「あっ、そういえばそうだね。なんでそんな事に気がついたんだろうね暁人あーくん?」

「確かに夢衣ゆいたちはぼーっとしていたし、お兄ちゃんの話も変な質問でしたよね。でもそれでもいきなり変なバケモノだなんてやけにじゃあないですか?」


 夢衣は一人謡うように言葉を重ね、後ずさりする先輩へと一歩、一歩を踏みしめる。

 それがまるで彼女を脅迫するかのような、袋小路に追い込まれた哀れな獲物が恐怖に慄く様子を観察し喜悦に嗤うかのような、そんな無機質な残酷さを感じさせる。


「な、なにか勘違いしているようだけど、偶然だよ。あたしは別にお前たちの言葉に何かを感じた訳じゃあない」


 夢衣の態度も明らかに常識を逸していたが、それよりも沙織先輩の態度が妙に腑に落ちなかった。

 確かに夢衣は悪夢だ。愛らしく、少し我が儘な僕の妹という仮面の底に、恐ろしい一面を有していることは他ならぬ僕自身が経験して知っている。

 だがそれは僕の話であって、沙織先輩にとっての話ではないのだ。

 先輩の言葉を借りるなら、憎らしいけど可愛い後輩である夢衣にこれほどまで恐怖を感じること自体が奇妙なのだ。

 その違和感が、僕の身体をその場に繋ぎとめ、夢衣が何を確認しようとしているのかを見届けなければという使命感ににも似た思いを掻き立てる。


「先輩。夢衣ゆい、最近いろいろと敏感になってるんですよ。あんまり面倒事に巻き込まれたくないっていうか、なんていうか。面倒事を持って来ないで欲しいっていうか」

「夢衣、そろそろいい加減に――」


 剣呑な空気を感じ取り、夢衣を止めるため思わず声をかけようとする。

 ぐいと、僕の腕が引っ張られた。

 何かを言うでもなく、かといって言葉以外で伝えるでもなく。

 ただ叶ちゃんは、僕の腕を掴んで笑っていた。


かなちゃん……」


 ニッコリと、いつも浮かべる笑みの様に眩しく思わず見とれてしまう様な笑みだ。

 この場でそんな笑みを浮かべる意味が分からず、僕は思わず戸惑い口を閉ざす。


「ただ、平和に暮らしたいだけなのに。やっとゆっくり出来ると思ったのに。また余計なことがやってきて、お兄ちゃんを苦しめる。夢衣も、あんまり気が長い方じゃないんですよ」


 夢衣と沙織先輩の距離はもうすぐゼロになる。

 あと数歩も進めば手を伸ばして届く距離だ。

 距離が詰まれば、どうなってしまうのだろうか? あの日の様に、恐ろしい出来事が起きるのではないだろうか?

 今度は、他ならぬ夢衣の手によって……。

 なぜかそれが、恐ろしさよりも哀しさを感じさせてしまう。


「まてまてまて、なんのことか知らんが、勘違いしているぞ! というかあんまり先輩を怖がらせるんじゃない! ど、どこから見ても無関係だろう!」


 腹を押さえながらそうまくし立てる毒芹先輩。

 必死な彼女の訴えを初めから聞いていないかのように、夢衣は変わらず無機質な声音で唄う。


「じゃあ先輩、珍しい時期に転校してきた沙織先輩。――悪夢を見たことはありますか?」

「…………な、なんのことだ? いきなり変なこと言って、あたしは、そんな知らない」

「いま、動揺したでしょ?」


 夢衣の言う通り、確かにその瞬間先輩の言葉は揺れた。

 悪夢については僕らしか知らないはずだ。もちろん誰かに言いふらしたりした記憶はないし、そもそもそんなことをしたところで信じてもらえるとは思えない。

 だとすれば彼女がその言葉を知っている意味は……。


「ねぇ、どうして動揺したんですか? それに私は悪夢を見たことはあるかって聞いたのに、そんなモノは知らないっていいましたよね。モノなんですね、悪夢って。悪い夢の事じゃあないんだ……」

「その、何なんだよ。冗談ならやめろよ、どこで聞いたから知らないけど、悪夢なんて言葉を使うんじゃない。それは――とても良くないものなんだぞ」


 震える声は、だがハッキリと彼女が悪夢について知っていることを告げていた。

 その言葉に僕は一瞬で頭が真っ白になる。

 どうして彼女が悪夢について知ってるんだ? 一体この現象とどう関係しているんだ?

 まさか……本当に彼女が?


「沙織ちゃん先輩。私の目を見て答えてくれますか?」

「ひっ!! な、何して!」


 グチャリと、何か水気を含んだ物を潰す音がかすかに聞こえた。

 それが夢衣が手を伸ばした彼女の顔面から聞こえたものだと理解し、背を向けた彼女が何をしたのか疑問を湧かせる。

 ただそれが酷く人間離れした行いであることは、彼女と真正面から対峙しその行為を見せつけられた毒芹先輩の表情から理解できた。


「ほおら、元通り」

「嘘だろ――そんな、お前、お前が、悪夢なのか?」

「こういう時はなんて返答すればいいのかな? はじめまして? それともよくぞ見破った? どちらにしろ、先輩の考えている通りです」


 一層空気が張り詰める。

 夢衣の言葉以後、誰もが硬い沈黙を続け言葉を発しない。

 まるで静止した時間かの様な錯覚に陥り、このまま時が永遠に止まってしまうのかと感じてしまう。


 それはひどく危険なものを孕んでおり。迂闊な行動を取れば二度と取り返しのつかない、死ぬよりも恐ろしい出来事に遭遇しそうな。そんな漠然とした確信させ僕に抱かせた。


 時が動く。

 夢衣が一歩を踏み出す。


 何かが蠢く気配がする。

 先輩が激痛でも感じているかのように顔を歪め、腹を押さえた。


 叶ちゃんは相変わらず僕の腕を掴んだままで、軽く力を込めてみても一向に離してはくれない。

 夢衣と沙織先輩の距離はいよいよもってゼロになり、まるで見せつけるかのように緩慢かんまんな動作で腕を上げる。

 ぞわりと、全身があわ立つ感覚に陥った。

 このままではいけない。

 存在するかどうかも分からない第六感が、これでもかと警鐘を鳴らしている。


「こらっ!!」

「きゃっ!」


 思ったよりも大きな声が出たことに対しての驚きよりも、夢衣が少女じみた可愛らしい悲鳴をあげたことの方が驚いた。

 もっと僕の言葉なんか一切無視するかのような、そんな絶望的な距離を感じていたのだ。

 けどそれは僕の勘違いで、ここに至ってまだ自分の妹を信じ切れていなかった事実に恥ずかしい気持ちになる。


「夢衣、なに毒芹どくぜり先輩を怖がらせてるんだ」

「そ、そうだよ夢衣ちゃん! どうしちゃったの?」


 調子よく僕の言葉に合わせてくる叶ちゃんにも言いたいことが無くはないが、いま大切なのは目の前の妹を抑えることだ。

 彼女がどういう考えで動いているのかは分からないが、それでもこの場で止めることができる存在がいるとすればそれは僕だけだろう。


「えー? だって! きっと毒芹先輩が犯人だよ。少なくともこの状況には気づいている。 前みたいに面倒事になる前になんとかしちゃおうよ~」

「えっと、犯人って? この変な状況の? わ、私は沙織先輩は違うと思うな」

「じゃあ放置する? お兄ちゃんが危ない目にあうかもね」

「………………」


 叶ちゃんがすっと押し黙った。

 不気味なほど静かな沈黙が再度訪れ、僕は慌ててその空気をぬぐい飛ばす。


「万が一先輩がこの状況に気づいていたとしても、だからと言ってそれだけで危害を加えようなんて考えは反対だし、僕は夢衣をそんな子に育てた覚えはない。と言うか、別に僕たちが危険な目に遭う理由なんて無いだろう? 何をそんなに焦ってるんだ?」

「むぅ……。別に、夢衣はお兄ちゃんのためを思って……」

「そう思うんだったら、少なくとも兄の言うことを聞くよい子でいてくれ」

「お兄ちゃんがそう言うんだった仕方ないなぁ。毒芹先輩、怪しいと思うんだけどなぁ。名前も変だし」

「さ、沙織ちゃんって呼べ」

「何かいいましたか? 先輩?」

「だから先輩を怖がらせるんじゃない!」


 隙あれば沙織先輩に敵対心を見せる夢衣。

 僕も気が気ではない。

 確かに妹の言う通り、彼女の名字はいささか危険人物に思えるが、それでも今までの付き合いから彼女が面倒見のよいまっすぐな人間であることは分かっている。

 それとも何かあるのだろうか?

 目の前の先輩も、ただどこかの誰かを模した中身の無い人形だとでも……。


「とにかくだ。僕は反対しておくぞ夢衣。先輩にはお世話になっただろう? いくら不思議な状況だからといって、ほとんど関係なさそうな先輩を疑うのはやっちゃダメだ」


 悪い考えは、ずっと意識し続けるといつか本物になる。

 どこで聞いた話だったか? ふと昔誰かに言われた言葉を思い出した僕は、悪い考えを振りほどくかのように夢衣へと最後通告を放つ。


「…………分かったよ、お兄ちゃん」


 長い沈黙の後、夢衣は諦めたかのように大きなため息を一つ吐いた。

 同時に僕も安堵のため息を吐く。どうやらまだ兄としての威厳は有効だったらしい。

 すっと、暗く淀んだ空気がどこかに遠ざかっていった気がする。


「いや、なんというか。助かったよ……」

「いえ、こちらこそすいませんでした。僕の妹がご迷惑をおかけして……」

「夢衣は謝りません!」

「謝りなさい! おやつ抜きにするぞ!」

「むぅ……ごめんなさい、沙織ちゃん先輩」

「ああ、そ、そか……あ、まぁ、その、いいんだよ。別に」


 歯切れ悪く言葉を返す先輩。

 彼女が夢衣に何を見せられたのかは正直考えたくも無いが、きっと今まで通りの関係に戻るのは酷く難しいことだろう。

 それがとても悲しく。あれほど渇望していた日常がこうもあっさりと崩れてしまった事に言いようのない悲しみを覚える。


「あの、梔無くちなし……あ、兄の方だ。その、お、お前の妹は……」

「夢衣は僕の妹です。それ以上でもそれ以下でもありません」

「そ、そっか……。わかったよ」


 瞳を揺らしながら沙織先輩が言葉を詰まらせ答える。

 そこには怯えと言うよりも、憐みの色が浮かんでいた。


 ………

 ……

 …


 気まずい空気は変わらず流れている。

 夢衣はちゃんと謝ったし、僕も兄として謝罪をした。

 それでも一度生まれた溝は埋まることは無いだろう。


 だが同時に、毒芹先輩が悪夢について何らかの情報を持っている事も判明した。

 お互いぎこちない雰囲気があるのだが、それでも彼女の知っていることを少しでも教えてもらおうと会話を始める隙を探す。

 叶ちゃん辺りが助け舟を出してこの鬱屈とした空気を打開してくれないかとも思ったが、視線で合図をしてもニコニコ笑顔で微笑み返してくれるだけで一向に想いは通じない。


 やはりここは僕がなんとかしてこの嫌な空気をどうにかしなければ。

「今日はとっても良い天気ですねー」なんてベタベタで酷く滑稽な切り出しをしようと思ったその時だった。

 不意に教室の外が騒がしくなる。

 それは学園祭に浮かれる生徒たちの騒ぎ声というよりも、何かトラブルがあったかの様な悲鳴にも見た声だ。


「ん? 何か外が騒がしいな。どうしたんだろう?」

「ほえ? 何があったんあろう? 暁人あーくん、私ちょっと見てくるね~」

「あ、あたしもちょっと様子見にいこうかな~……なんて冗談を言ってみたり!!」


 ギロリと突き刺す夢衣の視線。蛇に対峙したカエルのように竦む先輩。

 まだ話が終わっていないとは言え、あんまりだ。

 僕は申し訳なく思いながら、形ばかりの謝罪を述べる。


「ほんとすいません、うちの妹が」

「もう少し兄としての威厳を持ってくれるとあたしはいちいち肝を冷やす必要はないんだけどな」


 その言葉に「ワガママ盛りなので」とだけ答える。


「夢衣は悪くないよ」


 実にワガママ盛りで本当に困ったものだ。

 これは帰ったらお説教かな? なんて気楽な考えをしていると、一人でてくてくと教室から出て情報収集に向かっていた叶ちゃんが血相を変えて飛び込んできた。


「た、大変だよ! クラスの黒板に変なメッセージが出てるんだって!」


 変なメッセージ?

 いたずらか何かだろうか? 叶ちゃんは興奮冷めやらぬ様子であれやこれやと説明してくれるが、話がとっちらかっていてどうにも要領を得ない。

 だがよくよく話を整理して見ると、全てのクラスの黒板に不思議なメッセージがいつの間にか書き込まれており、皆が不気味がっているとのことらしい。


「黒板ねぇ。どこかの誰かが悪ふざけで書いたんじゃないの?」


 パタパタと手を大きく振って必死に伝えてくる叶ちゃんにそう答える。

 まったく大げさなことだ。

 別にこんなイタズラいくらでもあるだろう。

 昨日の同じ学園祭だって、それはもう大小様々なトラブルがひっきりなしに……。


 いや、昨日はこんな話を聞かなかった。


 慌てて黒板へと振り返る。

 この教室は僕ら以外誰もおらず、何の気配も、音すらしなかった。

 だから誰もこの教室の黒板へ書き込みを出来る者はいない。

 実行委員長の坂上先輩がご丁寧に何度も黒板消しを往復させた綺麗な黒板があるだけだ。

 いやそうでないとおかしい。

 だが何も描かれていないはずの黒板には、白のチョークで大きく……。



 『私の名前は"幸福論" 女の子同士の喧嘩は男の子が頑張らないといけませんよ』



 歪で精彩を欠く、ともすればミミズの走ったような不気味な文字。

 僕らの思考を混乱で満たすに十分な言葉が、描かれていた。


「なんだよ、これ……」


 それは果たして僕の言葉だったのか、それとも沙織先輩のものだったのか。

 お節介とも言える内容は、何を思って書かれたのか不思議なことに感情がいまいち読み取れない。

 僕らはただ呆然とその言葉を眺めている事しか出来なかった。

 何が起こっているのか、おそらくこの場にいる誰もが答えを持ち合わせていないだろう。

 たが一つ言えることがある。


 はずっと僕らのことを見ていたということだ……。

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