ParasiteⅠ ― loop 0 ―
学生の本分は何かと問われたとする。
多くの大人は「勉強だ」と答えるだろう。
幾つかの大人はもしかすると「様々な経験を積み重ねることだ」と答えるかもしれない。
駄目な大人は「遊ぶことだ」と笑顔で言ってのけるだろう。
僕は三番目の大人の言うことを全面的に支持したい。
つまりは現在僕らを取り巻く環境は単純で、学生であるという身分で良かったと心の底から思える瞬間が目の前に広がっている訳だったりする。
校舎は鮮やかな装飾で彩られ、手作り感の拭えないPOPが焼きそばや焼き鳥といった様々な模擬店の商品をアピールしている。
ここぞとばかりに仮装した生徒たちはお互いの格好をあれやこれやと褒め称えながら、めったに出来ないこの特別な環境に酔いしれている。
第14回。笹丘高校学園祭。
毎年行われるそれは、過去に起こったあの悲劇を忘れさせてくれるには十分で、同時に日常へ戻ってきたのだと現実をごまかしで塗布し錯覚させてくれるに足るものだった。
*
「よし! 気を抜かないでいこう!」
校舎の一室。普段はあまり使われない小さな多目的教室は、現在学園祭実行委員の運営本部となっている。
会議室の様に机を真ん中に並べて大きなテーブルを作ったちょうど真ん中。
学園祭の実行委員長である三年生の
僕の役割は単純明快。
この学園祭を滞り無く運営するための実行委員の一員だ。
雑用係とも言い換えられる。
本来ならこの様な面倒くさい役割など引き受けず、クラスの催しを適当に手伝いながらめいっぱい学園祭を楽しむのだが、これには少々事情がある。
「けど……思ったより学園祭の実行委員って大変だなぁ。もう少し時間があるものだと思っていた。なんで僕はこんな場所にいるんだろうか」
「仕方ないよ、どこかの誰かさん一人だと寂しいって泣きついてきたんだから」
他の実行委員の生徒達がバラバラと自分の持ち場へ足早に出ていき、控えの生徒が何人か残った教室で僕は愚痴にもならないため息を吐く。
相槌を打ったのは妹の
「うう、ごめんね
「まぁ
反対側から情けない声で謝罪の言葉を述べてくるのは
ぷるぷると可愛らしく震えながら、涙目で小動物を思わせる視線を僕に投げかけてくる叶ちゃん。この状況を引き起こした根本原因でもある。
学園祭の実行委員は基本的にクラスから一名選出が義務付けられる。
叶ちゃんはそのともすれば危うささえ感じるその人の良さから、あれよあれよと言う間に実行委員の役を押し付けられてしまったのだ。まぁ、誰だって実行委員なんてやりたくない。
控えめで押しに弱く、煽てられると意外と木に登る彼女は人身御供としてはうってつけだったのだろう。結果、自分が非常に面倒な役を押し付けられたと知ったときは後の祭りだ。
そんなこんなで実行委員になったものの、馴染みの友人もおらず割り当てられた仕事も大変そう。なにより一人ぼっちで寂しい。
そんな子供みたいな理由から子供みたいな泣きつきを僕にしてきた訳で、ひそかに叶ちゃんに甘々であることにある定評のある僕が晴れて実行委員の仲間入りを果たしたという経緯だ。
しかしながら貴重な青春の一ページをこんな事で無駄に消費してしまうのは非常に心苦しい。去年の学園祭もそれはそれは楽しかった。
あの時は熊谷や高市と一緒に……。
ふいに締め付ける胸の痛みから目を反らし、楽しい思いだけで心を満たし誤魔化す。
ああ違う。今年の学園祭はなんだかんだで楽しみにしていたんだ。メイド喫茶とかもあるらしいし。
……メイド喫茶、行きたかったなぁ。
多分、行けないだろうな。残念。
もっとも、このいかんともし難い状況にかんして、叶ちゃんに対して思うところはない。
これは僕の決断だし、何より彼女の願いを全て叶えてあげたいという傲慢とも言える思いが、心の奥底、暗く淀んだ記憶の果てで必死に叫んでいるからだ。
――いまでも、
それがどれほど愚かしい考えであるかは十分に理解しているが、それでも目の前で元気に笑う彼女が偽物だなんて信じたくはなかった。
叶ちゃんは死んだ。彼女は死んで、目の前の叶ちゃんは死んだ彼女を模したバケモノだ。
それがとても恐ろしかった。
彼女が人を襲う怪物で、命の危険がある――そういった類の話ではない。
僕は叶ちゃんのことを信じているし、よしんば僕が殺されたとしても、それが叶ちゃんの手によるものなら本望だ。
僕が恐ろしいと思うのは別のことだ。
叶ちゃんが笑うんだ。
とっても可愛らしい笑顔で「
僕に向かって、叶ちゃんが。
それがあまりも眩しくて、あまりにも彼女らしくて……。
いつか生きていた頃の叶ちゃんのことを忘れてしまい、全部目の前にいる叶ちゃんを模した悪夢との思い出で塗りつぶされてしまうのではないかと。
記憶の中で笑う彼女の笑顔が、目の前で寸分違わず笑う彼女の笑顔に置き換わってしまうのでないか。
そんな恐ろしい考えが頭を揺さぶり、吐き気にも似た不快感で僕を包み込み、絶望があの日に僕が犯した罪を糾弾してくる。
いや……やめよう。この件について考えることは良くない。
もう全て終わったんだ。僕に出来ることはこの日常を過ごすことだけだ。
「ど、どうしたの暁人くん? もしかして怒ってる?」
どうやらよくない考えに没頭していたらしい。
横から緊張した声音で心配される。
おどおどとどこか窺う態度は叶ちゃんの物だ。
きっと彼女も昔からこうで、今もこうで、これからもこうなんだ。
それに――いくら考えても、もう全部終わってしまっているんだ。
「いいや、怒ってないよ叶ちゃん。僕は
「え!? そ、そうなんだ……えへへ、私にだけ甘いのかぁ」
苦笑い気味に彼女の言葉に返事する。
少し心配させてしまったかもしれない。
だが叶ちゃんは僕の言葉に疑うこと無く屈託の無い笑みを浮かべ、そこまで喜ぶべき言葉だったのかと思うばかりに照れ始める。
……いやまて、なんだか曲解されてるぞ。
「ちょっと叶さん? お兄ちゃんは別に叶さんだけに甘いって訳じゃないよ。具体的には
ほらみたことか。
先程まで大人しくしていたワガママなお姫様がへそを曲げてしまった。
僕はやれやれとこの状況から逃げるように窓から見える景色に視線を移す。
外は明るく晴れ渡り、絶好の学園祭日和だ。
遠く体育館から生徒のバンド演奏の音が聞こえる。
なかなか様になっている。ああ、学園祭楽しみたかったなぁ……。
「ねぇ、さっきからぼーっとして、聞いてるお兄ちゃん? お兄ちゃんは
「うーん、そうだなぁ。確かに僕は結衣にも甘いかなぁ。結構厳しくしているつもりだけれども……」
「やた! ほらほら! 叶さん聞いた? お兄ちゃんは叶さんだけの特別じゃないよ! 夢衣だってお兄ちゃんの特別なんだから!」
「否定はしないけど、叶ちゃんはもう自分の世界に旅立ってるよ」
ぷりぷりと百面相しながら怒りをあらわにするお姫さまとは別に、もう一人のお姫様はすでに夢見心地だ。
何やら幸福な妄想に突入しているらしく、頬を軽く染めながらにへらとだらしない笑みを浮かべて――あっ、よだれ。
「叶さん、幸せそうな顔だなぁ……」
「叶ちゃんの中で、僕はどんなポジションなんだろうか……」
「さぁ?」と小首を傾げる夢衣を横目に、そろそろ未来へ旅立った叶ちゃんの意識をこちらに呼び戻そうと
斜め四十五度角、軽く振り下ろし壊れた電化製品を直すかの如く叶ちゃんを再起動させようとした時だった。
「おーい、二人共。こっち手伝ってくれー」
ふと僕らを呼ぶ声に会話が止まる。
ハスキーな女性の声は、僕らの背後から投げかけられた。
振り返ると、教室の入り口で両腕を組みながら呆れ顔、三年生で同じ実行委員である女の先輩が僕らをまっすぐに見つめていた。
「ああっ、先輩ですか……」
「ああって、お前ら呑気だなぁ~」
彼女は
変わった苗字と同様に性格も変わっており、今時めずらしい裏表のない性格で誰にでも率直に意見を言う豪胆な人だ。
あけすけで遠慮のないその性格がたたってか、友達はあんまりいないらしい。
それすらもカラカラと楽しそうに語るのだからその変人ぶりは折り紙付きだ。
最近転校してきたのだが、何を考えたのか学園祭実行委員等という夢も希望もない役職に自ら立候補したことが僕らとの交流の始まりだ。
いわく「クラスメイトは全滅したので、それ以外で友達を作りたい」とのことだ。
なんだかいろいろと面倒くさそうな人なので積極的に友達になりたいとは思わないが、僕はこの先輩のことが嫌いではなかった。
「どうしたんですか
「その実行委員の仕事をいつまでたってもやろうとしない不良学生を叱りに来たんだよ! 両手に花でいいご身分だな
名前で呼ぶのが面倒らしいのでこの呼び方らしいが、これを理解できるのが
しかしながら彼女の言い分は至極もっともだ。両手に花かどうかは分かりかねるが、それでも僕らが仕事を放り出して会話に花を咲かせていたのは間違いない。
そのことに思い至ると、さしては反省していないものの謝罪の言葉を述べる。
これ以上先輩の気を損ねてお説教を喰らいたくはない。重ねて述べるが、先輩はこう、なんていうか、面倒くさい人なのだ。
「ごめんなさい、
「だからさぁ! その毒芹ってのやめろって言ってるだろ! 私の名前は
苗字に毒という文字が入っているのが気に入らないらしく、しきりに下の名前で呼ばせようとする。
もっともその強烈すぎる苗字があるため名前を覚えてもらえる確率は非常に少ないらしいのだが……。
「分かりました
「はい、
「えっと、えっと、あの……
「くぅ! 梔無兄妹は嫌いだ! 夢丘は本当にいい後輩だよなぁ!」
叶ちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でながら、どこか芝居がかった態度で大げさに悲しんで見せる先輩。
この後、いかに僕が先輩に優しくないかとか、男としてダメな部類かとか、先輩の趣味とか先輩の好きな食べ物とか先輩の理想の恋人像とかを聞いてもいないのに語られながら、僕らは辟易としつつ無事学園祭実行委員としての仕事をこなしていった。
*
結局、学園祭を楽しむことは殆どできなかった。
実行委員の仕事は僕が思っている以上に大変で、当初はすぐに終わって自由時間を楽しめると思ったそれも次から次へと舞い込むトラブルにてんてこ舞いだ。
ヘトヘトになった身体に鞭打ってようやく全て終えたと思ったらもう終了の時間、それでも幾つかの模擬店を回ることができたし、得難い経験も出来た。
毒芹――沙織先輩とも仲良くなることが出来たし、これはこれで良かったのだろう。
夕日が落ちかけ、模擬店の撤去が始まりかけた校舎。
学園祭が終わろうとしている。
「うーっし、これで全部だなっと。なんだか悪かったな、あんまり楽しめなかったんじゃないか? まぁ自分で選んだことだから仕方ないよな! 内申点と先生の覚えは良くなるだろうからそれで我慢しろよ!」
「別に構いませんよ。こういうのも学園祭の楽しみじゃないですか」
「夢衣はお兄ちゃんと一緒に居られればそれでいいですよ」
「私も暁人くんと一緒だったし、なんだかんだで楽しめました」
「なんだつまらん。もっと悔しがれよ。少し心配したあたしが馬鹿みたいじゃないか」
「先輩ってガサツで厭味ったらしくてワガママ放題に見えて、そういうところ細かく親切ですよね」
「あたしはツンデレだからな!」
「沙織ちゃん先輩、そういうのはちょっと年齢的にきついのでやめた方が……」
「お兄ちゃんの言うとおりです。キャラを無理に作ろうとするといろいろ崩壊しますよ、夢衣からの忠告です沙織ちゃん先輩」
「ほんとお前ら、血も涙もないな! やっぱり嫌いだ!」
わぁ! っと百面相しながら形ばかりに怒ってみせる先輩。
時々、この人は何歳なんだろうかと疑問に思ってしまう程に子供らしい態度だ。
「まっ、とにかくだ。少しでも楽しめたようで良かったよ。あたしと違ってお前たちは来年もあるんだ。その時に今日の分まで楽しめばいいさ!」
何がそんなに楽しいのか、カラカラと笑う彼女はひどくご機嫌で、それだけでなんだか僕らまで楽しい気分にさせてくれる。
多くの人は彼女をあまりよく思っていないようだが、僕はこの先輩をとても好ましく思っていた。
それは、きっと彼女がなんの変哲もないただの変わり者の先輩で、それが僕にとって強く日常を感じさせてくれるから。
………
……
…
すでに日が落ちかけた校舎のグラウンドでは、いそいそと片付けをする生徒で溢れており、いささか乱暴に取り払われた装飾や模擬店の看板がどこかノスタルジックな雰囲気にさせてくる。
僕の隣には夢衣。そして叶ちゃん。
そして沙織先輩や、クラスメイト、委員会で仲良くなった友人知人。
きっとこれが僕が望んでいたものだ。
何気ない日常、ありふれた日々。陳腐でありきたりで、平凡で、何よりもかけがえのない日常。
こんな日がずっと続けばいいと思った。
あんな恐ろしい目にあったのだから、この
ゴーン、ゴーン……。
どこかで鐘の鳴る音が聞こえる。
まるで僕らの未来を祝福してくれているようだ。
なんだか初めて聞いたその音に少しばかり妙な感覚を覚えながら、僕らの平凡な学園祭は終わった。
*
――翌日。
朝日が眩しく僕らに差し込む。日が過ぎるのはあっという間だ。
バス停から降り、夢衣や叶ちゃんと昨日の話をしながら学校への道を歩く。
「楽しかったね」なんてありきたりな会話を交わしながら思い出に花を咲かせる。
あれほど楽しかった学園祭ももうすでに昨日の事になっていると考えると、これから行う授業の数々に気が滅入りそうになってくる。
ゴーン、ゴーン……。
どこか遠くで、鐘の音が鳴った。
最近よく聞く音色だ。どこか荘厳で、どこかもの悲しく。
そして――どこか悍ましい。
……まて。
「あれ……?」
ふいに立ち止まり、声が漏れる。
わざとそうした訳ではないが、なぜかその疑問に至った瞬間に驚きが口をついて出たのだ。
当然先を行く形になってしまった二人が振り返り、不思議そうに僕を見つめる。
「ほえ? どうしたの、
「いや、さっきなんか鐘の音が聞こえなかった? この近くに教会なんてあったかなって思ってさ」
「ん……そういえばそうだね。鐘の音色、聞こえたね。
「結婚式でもどこかでやっているのかな~?」
「もしかしたらそうかもしれないね叶ちゃん。僕らが知らないだけで近くに教会があるのかも」
「へぇ~。興味あるかも!」
瞳を輝かせる叶ちゃんに微笑み返し、先ほどの音色について考えを巡らす。
僕の記憶ではこの近くに教会はなかったはずだ。それにもしそんなものがあるのなら今までに鐘の音色は何度も聞こえていたはず。
けどその音を聞いたのはここ数日だ。
その事実に少々薄気味悪いものを感じたが、気のせいだと振り払う。
目の前でまた妄想モードに入ってしまった叶ちゃんの様子が僕の心を温かく包み込んでくれたからかもしれない。
やっぱり女の子は結婚式とか興味あるんだな……。とは言えだ。
「まっ、結婚なんて僕らにはまだ早い訳で、まずは目の前に広がる学業の山をどうにかしないといけないと思うんだ」
「そうだね~。まだまだ早いかもね、夢衣もそう思うよ。特に叶さんは結婚できるかどうかもわからないし」
「え!? なんで! 結婚できるよ!」
「相手はいるの?」
「はぁ!? いるし! 滅茶苦茶いるし! ねっ、暁人くん!?」
「いや、僕に迫られてもなんかこう、リアクションに困るよ……」
「がーん……だよ」
「仕方ないよ、お兄ちゃんは私と結婚することが決まってるんだから。ねっ、お兄ちゃん?」
「だから僕に迫られてもリアクションに困る」
なぜ二人とも僕に期待の視線を向ける。
やめてくれ、僕はここでかっこよく切り返せるほど人生経験を積み重ねていないんだ。
それになんで夢衣までぐいぐい来るんだ。妹と結婚できる訳ないだろう。
いや、叶ちゃんだったら法律的にOKだけど、だからと言って叶ちゃんと結婚するかと問われると、うん、その、まぁ……。
ヘタレな僕はこの問題に関して視線をこれみよがしに逸らせることで答えとした。
つまり逃げたわけだ。最高にかっこ悪い。
「この話は無しだ。僕らはまず学業に励むべきだと思う。うん、そう、そう思う。きっとそうだ!」
「はぁ、なんだか朝からテンションが下がりました。私はショックだよ」
「ここまでお膳立てにしたのに
「ぐっ、知らない! もう行くぞ! ほら、遅刻するだろ!」
二人を引き離しながらずんずんと歩みを進める。
後ろから何やらぶーぶーと文句を垂れる声が聞こえるが、今の僕には知ったことではない。
もうあの角を曲がれば勝手知ったる我らが学び舎、退屈で難解な授業を押し付けてくる苦行と義務の象徴が僕らの前に現われる。
僕の大嫌いな勉強漬けの毎日だ。
はぁ、と小さなため息を吐きながら、昨日が永遠に続けばなんて子供じみた妄想を夢見てしまう。
だが現実は非常だ、それにほら、この角を曲がるともう見えてきた。
今日の授業はなんだっけかな――。
「なんだ……これ?」
目の前に現れた光景は、おおよそ信じがたいものだった。
「叶ちゃん。学園祭って何日だっけ?」
「9月25日だよ暁人くん……」
「学園祭は昨日で、日曜日だったはずだよな?」
「うん、間違いなく」
「今日って何日……?」
「26日の月曜日で間違いないと思うけど」
「あっと、叶ちゃん、ちょっとスマホで日にち確認してみてくれる?」
「……9月、25日」
「…………」
「なんで、時間が戻ってるんだ?」
僕らの目の前に現れたのは、装飾に彩られた校舎。ワイワイと楽しそうに準備をする生徒。
そして『第14回笹丘高校学園祭』と記載された大型の入場アーチだった。
僕らの学園祭は9月25日の日曜日に一日しか開催されない。
複数日開催を勘違いしていたなんてことは万が一にもない。
それに昨日片付けをしたじゃないか……。
それだけじゃない。
確かに26日だと思っていたスマートフォンの時計は学園祭が開催される25日を指しており、まるで僕ら以外の時間が巻き戻ってしまったかのような錯覚を引き起こしてくる。
「どうする? お兄ちゃん……」
「えっと、暁人くん……」
夢衣が伺うように、叶ちゃんが縋るように、僕の言葉を待っている。
僕は何も言えない。それどころか体から体温が急速に抜けるような錯覚に陥り、震えが全身を支配する。
それは恐ろしい予想をしてしまったためだ。
この状況が勘違いではなく、かつ僕らの頭が狂っていないとして……。
この状況を引き起こすことができる事象を僕は知っているから。
「おーい! ちょっと! 梔無兄妹に夢丘! なにしてるんだ!」
恐怖を打ち破ったのは、聞き覚えのある声だった。
駆け足で僕らのもとにやってきたのは、昨日――確かに昨日一緒に学園祭の仕事をこなし、軽口と共に別れた毒芹先輩だ。
「あっ、毒芹先輩。おはようございます……」
「沙織ちゃんって呼べって言っただろ!? ってか! 委員会! 委員会! 何ぼーっとしてるんだ! 仕事は待ってくれないぞ! お前の様なハーレム主人公の手でも借りたいほど今は忙しいんだよ! 乳繰り合ってる場合じゃないぞ!」
腰に手を当てながら怒り心頭と言った様子で、考え付く限りの文句を言ってくる沙織先輩。
だがいつものように彼女の言葉に切り返す気も起きず、なんとか絞り出した声で弱弱しく彼女に尋ねる。
「沙織先輩。変なことを聞きますが、昨日も学園祭をしてなかったですか?」
「………………」
沈黙が世界を包んだ。
学園祭の狂騒にあって、この場だけ無が支配してる。
夢衣も叶ちゃんも、毒芹先輩すらなにも語らない。
やがて毒芹先輩は、これでもかと眉を顰め、まるで不気味なものでも見つけたかのような視線を僕に向け――。
「はぁ? 何言ってるんだ? 学園祭は今日だろう?」
僕の様子に違和感を覚えたのか、途端に心配の声をかけてくれる先輩をよそに、僕はただ震えることしかできない。
得体の知れない存在がすぐ背後までやってきているという事実だけが、そこにはあった。
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