――Epilogue――
夢を見ている。
楽しかった頃の夢だ。
みんな笑っていて、輝いている。平凡で、幸せで、
もう戻らない日々だ。
気がつけば、世界から色が消えていた。
全てが白黒で、まるで古い映画フィルムのように精彩を欠いている。
手にはべっとりと血糊がついていた。
目の前には色彩を失った大切な幼馴染み――叶ちゃんが横たわっている。
彼女の胸から流れる赤い血だけがやけにハッキリと白黒の世界で色を持ち、お前が殺したと無言で僕を
すぅっと、全てが遠ざかり始めた。
世界が広がりを見せ、同時に叶ちゃんの身体が遠く見える光へと吸い込まれていく。
僕は必死で彼女を掴もうとするが、まるで見えない鎖に縛られたように身体は動かない。
駄目だ、行かないでくれ。
僕を置いてかないでくれ!
叶ちゃん……、叶ちゃん……!
「叶ちゃんっ!!」
ちゅんちゅんと、窓の外から可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえ、見慣れたベッドと布団が視界に入る。
いつの間にか寝ていたのか?
ハッキリとしない頭を振ると、昨日の事が段々と思い出されてきた。
叶ちゃんに訪れた悲劇、そして幼馴染みが苦しんでいるのに何も出来なかった無様な僕の事。
それらがつい数秒前に起きた出来事のように頭の中を駆け巡り、現実感が極寒の吹雪となって僕を覆い尽くす。
「そうか、叶ちゃんはもう……」
叶ちゃんは死んでしまった。永遠に失われてしまった。
もう二度と会えない。それが、避けようのない事実。
「あ、あの……
「――え?」
だから、目の前の光景はきっと何かの間違いなんだ。
「その、おはよう……
僕は今日ほどマヌケな顔を晒したことは無いだろう。
声の方を振り返ると、僕の大切な、失ったはずの幼馴染みが在りし日の姿で立っていた。
困ったように眉尻を下げ、何かを
僕が唖然としていると、彼女はもう一度「おはよう」と告げて、少しばかりはにかんだ。
「叶ちゃん!」
「きゃっ!」
気がつけばベッドから飛び降り、彼女を力強く抱きしめていた。
叶ちゃんは驚いたようでしばらくワタワタとしていたが、やがて僕の背中にゆっくりと手を回して抱き返してくれる。
柔らかな身体と、温もりに、僕の感情は爆発してしまう。
「良かった! 本当に良かった、また会えて、良かった!」
「うん……うんっ! 私もまた一緒になれてよかった。本当に良かったよぅ!」
叶ちゃんも感極まったように喜びの声を上げ、瞳に涙を溜めながら応えてくれた。
その言葉は叫びにも似たもので、お互いの再開と奇跡をこれでもかと表している。
「ごめんな! ずっと謝ろうって、どうやって許してもらおうって……何も出来なくてごめん、情けなくて、ごめん……本当に、ごめん!」
「ううん、いいの。それに私も、ごめ、ごべんなざい……う、うう、わあぁぁ!」
二人とも瞳からぼろぼろと涙をこぼし、グシャグシャの顔で、笑顔で、謝罪の言葉を繰り返す。
もう二度と会えないと思っていた彼女に出会えたことに、僕はただ喜びだけの感情でつ包まれ、他のありとあらゆることが考えられなくなっていた。
「あの、
「ああ、もう離さない。ずっと一緒だ、これからずっと一緒にいよう」
二人の言葉は誓いに近く。ただ強い想いだけがそこにある。
僕は身体中を駆け巡るこの感激と奇跡を、存分に噛みしめた。
もう二度と! 二度と離すものか! 絶対にだ!
「お兄ちゃん――」
「…………
――希望を持つからダメなんだ。
どこかで、誰かがそう言った気がした……。
「覚えてるかな? あの話、私公園で言ったよね? そういうものだって。違うんだって」
いつの間にか部屋の机の近くで佇んでいた夢衣が、酷く不気味な言葉を告げた。
妹は極力言葉を選んでいるようで、それが僕の心に不安の雨を降らせる。
気づいているはずなのに、僕は必死に気づかないふりをする。
世界が僕に優しくないことなど、とっくの昔に理解していたのに……。
言葉が震える、身体もカタカタと震える気がした。
先程までの温かい気持ちが、一瞬にしてどこか遠いところへ消え去っていく。
「な、何を言ってるんだ? 変なこと……言うなよ夢衣」
「そ、そうだよ夢衣ちゃん! 勘違いだよ! 暁人くん聞いて! わ、私は! 私はちゃんと――」
「哲学的ゾンビ」
「――あっ」
その一言で、興奮していた気持ちが完全に霧散した。
哲学的ゾンビ――中身の無い、反射だけで人を演じる哲学上の概念。
悪夢の正体。
人間の様に見えるが、AIプログラムのように心も感情も存在しない人のまがい物。
腕の中で涙を浮かべ、僕との再開をあれほど喜んでいた叶ちゃんが、そうであると、夢衣は無情にも断じていた。
ふと抱きしめた叶ちゃんを見つめる。
顔をくしゃりと悲しみに歪めてこちらを見つめる彼女は、その瞳に何も映していないように見えた。
「死んだ人は生き返らないんだよ……お兄ちゃん」
目の前にいる彼女が……中身の無い、唯の人形。
叶ちゃんはもう死んでいて。僕が必死に謝って、その奇跡を喜んだのも、全て偽物……。
ただ反射で返答するだけの……空っぽのバケモノ。
それが、僕に許されたたった一つの現実だった。
「う、ううっ、おぇぇっ!!」
「あ、
気がつけば床に膝と手をつき、こみ上げる吐き気のまま嘔吐していた。
げぇげぇと、空っぽの胃を絞るかのように吐き出される胃液で床が汚れ、叶ちゃんが驚きの声を上げる。
途端に頭がぐわんと揺れ始め、もう何も考えられずただユラリと霞む視界に任せ、そのまま力を失った人形の様に身体の力を抜く。
「
叶ちゃんが、中身の無い叶ちゃんが、まるで本物の様に僕の身を案じて僕を支えながら心配の声をかけてくれる。確かに生きていた頃の彼女を見ているみたいで、その優しさの裏に隠された虚無に心が悲鳴を上げる。
同時に僕が彼女を手にかけたあの日のことを、彼女の家で見たあの光景を、彼女が死んだという事実が頭の中で繰り返され、頭が割れてしまいそうな程の激痛に襲われる。
ぼんやりと霞む視界に、呆然と立ち尽くす夢衣が映った。
彼女の瞳は
誰に言うでもなく、ただ、何かに語りかけるように、夢衣は静かに口を開く。
「
視界の霞みはいよいよもって強くなり、意識が遠のいてくる。
次に起きた時は、きっとまたこの絶望が僕を待ち受けているんだろう。
「夢衣は――」
その先の言葉は、あいにく覚えていない。
残念ながら僕の意識はそこで途絶えたから。
けどそれは、世界に向けた願いと、悲しみと、そして呪いの言葉だったのかもしれない。
何故かそんな気がした。
……現実は変えられない。
死んだ人は戻ってこない。
だから、この話はこれで終わり。
こうして僕は大切な人を全部失い、代わりに現れたバケモノに囲まれて一人ぼっちになってしまった。ただそれだけ。
哀れな男の、哀れな話。悲劇的で、喜劇的な物語だ。
けれども――。
けれども僕はこのまま過ごすのだろう。
僕は弱い人間だ。
何より卑怯で愚かな人間だ。
このまま、先程現れた彼女が叶ちゃんであると認めてやれば、あの事件を悪い夢だったと捨て去ることさえできれば。
またあの美しい日々が返って来るのだろうと思ってしまったから。
彼女たちを模したバケモノ……空っぽの彼女たちと幸せに毎日を過ごすことができるだろうと思ってしまったから。
だから、僕はどこまで弱く、誰よりも卑怯で、どうしようもない人間だ。
――悪夢はまだ終わらない。
― Episode『In Nightmare』―
~ Fin ~
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