~ Interlude ~

夢丘 叶は人間です




 誰の気配もしない住宅、惨劇が行われたとは思えないほど綺麗な部屋。

 置かれたベッドの隅で、夢丘ゆめおか かなえは一人体育座りで悲しみに暮れていた。

 自分が何者か分からない。それが今もって彼女の不安を掻き立てる問題だった。


 あの日、夢丘ゆめおか かなえは死んだ。

 この自室で殺され、死人となった。


 そのことはよく覚えている。

 叶自身、自らに降りかかった不幸が自分の命を奪い、無念の内にその生涯を終えたことを理解している。

 その後が問題だった。


 死んだはずなのにある記憶。

 幼馴染みであり想い人である梔無くちなし 暁人あきとに助けを求めた記憶。

 暗闇と絶望の中、必死に叫んだ記憶。

 助けてきてくれたはずの人に無様に命乞いをする記憶。

 虚しくもう一度殺される記憶。


 そして、彼の目の前でまた同じ日常を過ごしている。


 自分の身に何が起こっているのだろうか?

 自分はどうなってしまったのだろうか?

 もしかして――自分はもう死んでしまっているのではないだろうか?


 全ては悪い夢で、今の自分もただの記憶をコピーしただけの木偶人形なのではないだろうか?


 考えだすと止まらない。

 不安が波の様に荒々しく襲いかかり、彼女の心を揺さぶっては引いていく。

 されどもいくら悩んだところで答えは出ず、人間だと主張する自分と、バケモノかもしれないと主張する自分がせめぎ合っている。


 今彼女が平静を保っているのは、ひとえに暁人あきとがいるからだ。

 彼への信頼と、彼と共に過ごしたいという願いだけが崩壊しそうになる彼女の心をすんでのところで保っている。

 それはとても危うい均衡きんこうで、まるで数多くの奇跡の果てに沸き起こった出来事の様に彼女の周りを渦巻いていた。

 叶は考える。

 自分は何か、自分は誰か、自分はどこにいてどこに行くのか。

 自分はバケモノなのか?


 答えは出ない。


「痛っ――」


 叶は自らの親指に感じた小さな痛みにハッとなると、知らずのうちに指先を噛んでいたことを恥じて眉を顰めた。

 小さい頃から親に直せと言われ続けてきた癖だったが、高校生になってもイライラした拍子にふと出てしまう。

 最近では滅多のことでは出ない癖だったので安堵していた叶だが、自らの境遇に思いを巡らせるうちにすっかりと過去へと逆行してしまったらしい。

 よほど噛んだのであろう、荒れ果てた指先には小さな赤い雫がにじみ出ていた。


「血だ……」


 血は赤い。

 それは蒼でもなく黒でもなく、緑でも紫でもなく、綺麗な赤色だ。


「良かった。やっぱり私は人間なんだ」


 叶は大きなため息を吐くと、同時に気が抜けたように身体の力を抜いた。

 もしかしたら身体に流れるその血潮も、人とは違ってまた別の液体なのではなかろうか。

 訳の分からない、けれども確実に人のソレとは違うナニカが流れているのではないだろうか?

 その様な漠然とした不安が解消されたことに安堵し、再度血がにじみ出る指先をまじまじと眺める。


「――ひっ!」


 血は、鈍い虹色のドロリとしたナニカだった。


「う、うそ……なにこれ!?」


 叶は驚きのあまり息を呑み、呼吸すら忘れてそれを眺める。

 その色は絶えず変わり、蛍光色の様な鮮やかな色になったかと思えば次には汚泥のようなくすんだ色に変化してる。

 同時に不気味な異臭が叶の鼻腔をくすぐり始めた。

 生臭く、薬品臭く、甘くて苦いその匂いは彼女が今まで経験したどの様な香りとも別であり、端的に表現するのであればこの世のものではないと言い切れるような悍ましさを有していた。

 慌てた叶は混乱気味にバタバタと部屋の窓までかけずり、勢い良くカーテンを開ける。

 自らの体内に流れるその恐ろしい液体をよく観察する為に。


「あれ?」


 再度見た血の色は、不思議なことに何故か鮮やかな朱だった。


「あれれ? いま確かに……」


 はてと首を傾げながら、指先の角度を何度も変えて陽の光にかざし確認する。

 しかしながら何度確認したところで先程見たものは影も形もない。


「うーん? うむむ」


 思い違いや幻覚だったのだろうか?

 叶は何度も首を傾げてあらゆる可能性を考慮したが、それでも謎は解けない。

 だが勘違いだったと断言することだけはできない。

 それほどまでに先の光景は彼女の心を蝕んでおり、何より鮮明に記憶に残っていた。


 ……夢丘 叶は心配症だ。

 何か不安に思ったら確認せずにはいられない質だ。

 家を出た後に玄関の鍵を閉めたか? ガスの元栓は大丈夫か?

 その様な心配ごとを不意に沸き立たせては居てもいられず帰宅して、その日の予定をふいにしてしまうような少女だった。


「よ、よし! 確かめてみよう!」


 当然今回の疑問も放っておくことはできない。

 勉強机にあるペン立てからカッターを取り出し、少々危ない真似をしでかそうとしているのも、彼女の性格を考えるのならば至極当たり前の行動だ。


「ちょ、ちょっとだけだから。ちょっと確認するだけだから……」


 震える手でカッターの刃を取り出しながら、人差し指の腹に当てる。

 その状態で数十秒ほど目を瞑りながらぷるぷると震えていた叶だったが、ようやく決心がついたのか力を込める。


「うっ! アイタタ!」


 ぷくりと朱い玉が浮かび上がり、カッターの刃先を鮮やかに染めた。


「うーん? ……うんっ!」


 彼女の血潮は朱だった。

 何度確認しても、

 何十回確認しても、

 数えきれない程に確認しても、

 彼女の血潮は朱色だった。


 間違いのない人間の証しに叶もようやく肩の荷をおろした気持ちになる。

 ほへーとだらしなく顔の筋肉を緩め、慌てて机をひっくり返して絆創膏を探しだす。

 可愛らしいくまのプリントがされた絆創膏を張り、ようやく彼女が満足した頃だった。

 さてテレビでも見ようかと気持ちを切り替えた叶の目にとまったのは、テレビのリモコンに手を伸ばす己の腕だった。

 時期は春先、室内であることと陽気な気温も相まって現在の彼女は薄着で二の腕から先が顕わになっている。

 細く傷一つない、年頃の少女特有の艶やかさと繊細さを持つその腕を、

 まるでマネキンの腕のようだと叶は思った。


「……も、もう少しだけ、確認するだけだからね」



 ――夢丘ゆめおか かなえは心配症だ。



 *


 ごり、ごり、ごり。

 固い何かを無理やり押し折る音が響く。

 ぶちぶちと、何かを引きちぎる音が鳴った。

 ごとりとソレが欠落したのを確認した叶は、額に浮かんだ汗を拭うと大きくため息をついた。


「はぁ、はぁ、疲れたよぅ」


 鮮血が彼女を彩っている。

 拭った手は血にまみれ、やり通した微笑みをたたえる彼女の全身は赤に染まっていた。

 叶は血に濡れた出刃包丁を持ったまま、二の腕のちょうど真ん中辺りで切り落とされた自らの左腕を眺める。

 あまり切れ味が良くないのか、それとも脂で切れ味が落ちたのか……。

 肉と骨、そして神経が荒々しくむき出しになった切断面からは、彼女の鼓動に合わせるかのようにピュッピュと血液が噴き出している。

 色は朱色。

 鮮やかな色が先程から室内に溢れだし、彼女の服を、彼女の身体を、彼女の部屋を染め上げている。


「やっぱり人間だ。だって血の色も赤いし、多分これが普通だよね?」


 血は止めどなく溢れてくる。

 その様子をじぃっと眺め、何度も切断面を陽の光にかざしながら、彼女はしっかりの己の目に焼き付けるかのように血が噴き出す様子を眺めている。

 ややして、彼女は満足気に頷く。

 悩みが晴れたかのような表情だ。

 自らの疑念が解消してしまえば、血で染まり上がった自分と室内が綺麗好きな彼女の心を刺激してきた。


「服、汚れちゃったなぁ……」


 ふと自分の姿を見つめてみる。叶の全身は当然紅く染まっている。

 吹き出した血液の一部が凝固し始め、やや赤黒く変色している以外は特に変わったところはない――はずだった。


「……あれ?」


 素っ頓狂な声が叶の口より漏れだした。

 汚れた衣服を脱ごうと、片腕で器用に上着をめくり上げたその時だった。

 彼女の視界に入ったのは自らの腹。

 白くスラリとしたソレは血に彩られてぬらぬらと光を反射している。

 そんな自らの腹を見て、叶は眉を顰めたのだ。


「そ、その……ちょっと確認するだけだから」


 行動は突然だった。

 自然な、流れるような動きで出刃包丁を掴んだ叶は、おもむろに立ち上がる。

 そうして……、



 自らの腹に包丁を突き刺した。



 突如狂った行為に走った彼女は、だが痛みを感じていないかのように一言も漏らさない。

 それどころか突き刺した包丁に全身の力を込めて、その刃を下腹部の方へ向かって引き下ろし始めた。

 腹に感じる異物感と肉が切り裂かれる不快感に顔を顰めながら、彼女は力を更に込める。

 ぶち、ぶち、ぶち、と、鈍い音が鳴った。


「ぐっ! ふぐぅぅ! ぐっ! っは! はぁ、はぁ!」


 包丁を引いたり押したり、更には何度か休憩を挟んで、彼女は自らの腹を縦方向に切り裂く。

 ボタボタと大量の血液が裂け目から漏れだし、まるで全身の隙間を埋めるかのように彼女を赤で塗りたくる。

 やがてぽっかりと大きな穴が彼女の腹に生まれた。

 その腹に、開いた裂け目に、叶は何ともないと言った様子で手を突き入れる。


「よ、よいしょ――っと、うへぇ……なんか気持ち悪い」


 ぐちゃぐちゃと、何かを掻き回す粘性の水音が聞こえ、しばらくしてズルリと臓物が腹から引きずりだされる。

 勢い良く出されたそれは外気に触れて湯気を出しながら床へと溢れ落ちた。

 自らの臓物に引っ張られるように、たたらを踏みながら床に座り込んだ叶は、それらを掬い上げるように掴み上げると眉間に皺を寄せながら真剣な表情で観察する。

 てらてらとぬめりを帯びた臓物の塊は、外気の刺激を受け時折痙攣している……。

 その様子を、叶はじぃっと眺めていた。


「…………」


 時計の音だけが時が止まっていないことを示すなか、叶は死んでしまったかの様に動きを止め、虚空の様な瞳で自らの臓物を見つめている。


「……なぁーんだ! やっぱり大丈夫だ!」


 やがて彼女の悩みは再度解消した。

 いくら観察しても図鑑や話に聞いた通りで、おかしいところなど一つもなかったからだ。


「私ってば心配しすぎだなぁ! こんなんじゃ暁人くんや夢衣ちゃんに笑われちゃうよ!」


 びちゃりとはらわたを投げながら、唯一残った方の手でぽりぽりとバツが悪そうに頭を掻く。

 先程までの鬱屈とした気持ちが途端に失せ、安堵と興奮がまるでパレードをしながらやってきたかのような気分だった。


「えへへ、何があったかよく分からないけど、ハッピーエンドだったってことだよね?」


 先程まで陰りを帯びていた顔に花が咲いた。

 不安は失せ、自分が人間であるという証明が出来たことで彼女の心もようやく落ち着く。

 そうであれば後は輝かしい未来に向けて突き進むだけだ。

 決意を新たにすると、途端にあれやこれやと楽しい話題が浮かんでくる。


「そ、それよりも大切なのは今後だよ! これから毎日暁人あーくんを朝起こしに行くんだ!」


 叶は例の悲惨な事件の後、暁人あきとより気軽に家に来て良いと言われている。

 これは暁人が夢丘 叶を模した夢丘 叶と、彼女と過ごしたその日々を捨てきれなかったことによる酷く後ろめたいものではあったが、とうの本人にしてみれば願ったり叶ったりの出来事だ。


「このチャンスを逃しちゃダメだよ私! も、もしかしたらこのまま凄く二人の関係が進むかもしれないからねっ!」


 彼女の頭を幸せな未来が支配する。

 もろもろのイベントを飛ばして、最終ゴールインまで一直線だ。

 純白のウェディングドレスに身を包んだ自分が皆の祝福を受けながら教会で挙式を上げる姿が頭のなかに浮かぶ。

 目の前には優しい微笑みを浮かべた暁人。

 恥ずかしがる彼女のヴェールをそっと上げると慈しむように頬に手を添える。

 やがて彼の顔が視界いっぱいに広がって――。


「わぁ! わぁ! はやい! はやい! まだだよ! さすがに高校生で結婚は早いよ!!」


 パタパタと両腕を振りながら羞恥に顔を染める。

 だらしない顔をしていやしないだろうかと慌てるが、この家には自分一人だけだと思い出した叶は、残った腕でほっと胸を撫で下ろして安堵する。


「ちょ、ちょっと夢が暴走しすぎたよぅ。

でもでも、そうでなくても暁人くんはモテるから、私もうかうかしてられないよね!

……だったら早速作戦立てなきゃ! そ、その……梔無くちなし かなえ大計画だよ!」


 彼女は幸せだった。

 事実その顔はだらしなく緩み、自らが望む未来への想いで満たされている。

 彼女の疑問は晴れ、憂いを残すものは何もない。


梔無くちなし かなえ……えへへ、暁人あーくんのお嫁さん……えへへへへ」


 夢丘 叶の人生は、今まさにここで始まったも同然だ。



「…………あれ?」



 ふと――姿見の鏡が彼女の視界に入った。

 それは年頃の少女にとっておおよそ必需品の家具で、叶も出かける間は自分のファッションがおかしくないかどうか確認する為に使用しているものだ。

 映る姿は腹から臓物を吐き出す血みどろの姿。

 片腕はなく、辺りは一面血の海と表して間違いない有様だ。

 だがそんなことよりも、叶は自らが抱く違和感に先程まで高揚していた気分を一気に沈下させる。


 ……瞳だ。


 叶の視線は真っ直ぐと、鏡の世界に居る自分の瞳へと注がれていた。

 黒く澄んでおり、どこまでも深い闇を思わせる。

 その瞳がどこか不自然で、まるでガラス細工で出来た空虚な偽物の様に感じてしまった。


「ちょ、ちょっと確認するだけだから。片方だけだったら大丈夫だよね?」


 夢丘 叶は心配性だ。そして一度気になったら確認しなくてはならない質でもある。

 視線を鏡に固定したまま右手を忙しなく動かし、放置された包丁を探る。

 カタリ――と小さな感触とともに、彼女の手に包丁が握られた。

 消え去ったはずの疑問が押し寄せ、叶の身体が小さく震える。

 鋭い切っ先が眼球のすぐ近くまで寄せられ、刃先にこびり付いた血がポタポタと静かに落ちる。

痛みは無い。嫌悪感や恐怖すらない。

ただ人間でないことだけが、彼女が感じる唯一の不安であった。



「大丈夫だ。私はちゃんと人間だもの。大丈夫、何も問題ないよ……」



 カーテンの隙間から陽の光がうっすらと差し込む薄暗い室内。

 ――ぷちゅりと、何かが爆ぜる音だけが小さく鳴いた。

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