Art work Ⅵ ― Cosmic ―
僕の妹が死んでしまった。
その事実が信じられず、またあの日の様に起き上がるのではないかと根拠の無い感覚に襲われる。
ただ、彼女が死んだという事実だけが受け入れられなかった。
歩いてくる『
一瞬、上下に分かれたどちらが妹なのだろうか? などという滑稽な考えが浮かび、振り払うかのように上半身が倒れる教室への端に到達した。
「
抱き上げた彼女の身体は生気が全く存在せず、全ての血を失ったかのようにその肌は白い。
瞳は虚空を見つめるばかりで意志が感じられず、ずたずたに引き裂かれた胸から下は、まだ温もりがあるのか外気に晒された臓物が湯気を放っている。
「夢衣、夢衣……返事してくれ、僕を一人にしないでくれよ……」
彼女は応えない。
必死に揺さぶったら、もしかしたら彼女が起き上がるのではないか? と言った考えた頭をよぎる。彼女は自らをバケモノだと言ったんだ。
あの『芸術作品』が顔面を割っても平然としているのであれば、同じ悪夢である僕の妹が元気に起き上がらない道理はない。
その思いだけにかけていた。
そんな有様だから、きっと僕は自分が置かれた立場をすっかり忘れてしまっていたのだろう。
「――ぐあっ!!」
ぐいっと喉元に黒い何かが絡みつき、僕を強制的に夢衣から引き離す。
それが生き物のように蠢く髪の毛であると理解した時にはすでに何もかもが遅かった。
引きずられた目の前には『芸術作品』の顔が存在していた。
この世のありとあらゆる汚物と、人体に有害な化学薬品を混ぜ込んで発酵させたかのような臭気が鼻腔をつく。
目の前にある顔面は、もはやそれがかつて人体のものであったかどうかなど判断がつかないほど崩壊しており、絶えず生物の構成物であろうと思われる臓器や器官の破片を排出している。
ばくりと、まるで何処か良くない場所から這い出てくるかのように、『芸術作品』の顔が開き胸元を越えて腹まで裂ける。
赤を通り越してドス黒い肉肌を見せるそれから、唐突に無数の目が吐き出された。
幾百になる眼球が、絶えず床にこぼれ落ちながらギョロリと一斉に僕を見つめる。
「う、あああああ!」
死を覚悟する。
すでに体中に巻きついている髪の毛は、当然僕なんかの力ではびくともしない。
それどころかだんだんと拘束が強くなり、ギチギチと肉へと食い込んでくる。
不意に、上下に分断された妹の惨状が脳裏をよぎった。
「や、やめろ! くそ、この!」
それでも僕は抵抗をやめない。
狂ってしまいそうな状況の中、失うものがこれ以上何も無かったからだ。
こんな愚かな僕に出来ることがあるとすれば、それは目の前で不気味に揺らめく『芸術作品』に一矢報いようと暴れる位だ。
けれども、けれども僕の考えはどうやら甘かったらしい。
世の中には人の理解を超えた恐怖が存在しており、それは悠々と人の想像を超えてくる。より深い闇と絶望へと引きずりこもうと、大口を開けて愚か者を待ち受けているのだ。
ぐにゃりと部屋が変化した感覚が僕を襲う。
いや、実際に変化した。
先程まで見ていた教室の景色は少しだけ様変わりし、見慣れた掲示物や花瓶、そして逃げ出したはずの肉の壁が存在していた。
まるでワープでもしたかのような現象に目を瞬かせて驚くが、体中を襲う苦しみと今まで見た光景が、その様なことはさしたる問題では無いとばかりに僕を現実へと引き戻す。
「ぐっ! ……くそっ!」
このまま僕も夢衣のようにバラバラになるのではないだろうか?
そう思った矢先、ドンと衝撃が全身を襲い固い教室の床が目の前いっぱいに広がった。
相手が何を思ったのかは分からない。だが僕は大量の髪の毛で拘束されたまま床に転がっている。
髪の毛の先の『芸術作品』は
変わりとばかりに地面にこぼれ落ちた腸らしき臓物が、まるでミミズのようにズルリと体中にまとわりつき、拘束をより深くする。
何が起きているのか分からない。
ただ、とても良くないことが起きる予感だけはハッキリと感じた。
再度ぐにゃりと視界が変化した。
先程まで教室の壁しか見えなかった場所に、置き去りにしたはずの叶ちゃんが映った瞬間――僕が抱いた予感は確信に変わる。
「は?
「
彼女の瞳は意志の光が少しだけ見受けられた。
だがまだハッキリとは見えていないのか、重病を患った病人のようにその場で大きな呼吸をするだけだ。
ちょうど僕が転がる場所、臓物の群れによって無理やり顎を持ち上げさせられ、顔の向きを強制されたその先に彼女は居る。
視線の先、その彼女に、僕の大切な幼馴染みに、
「えっ、何……? 誰?」
先程まで微動だにしなかった『芸術作品』が手を伸ばした。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫が鼓膜を揺さぶる。
もはや消えかけていたはずの彼女に、そんな力が残されていたことに驚愕してしまうほどの絶叫。
僕は目の前で繰り広げられる光景に涙しながら、ただ何も出来ず唖然と眺めていた。
「痛い痛い痛い痛い痛い! 助けて! 誰か助けて痛い! 痛いよぉ!!」
『芸術作品』はボロボロになった叶ちゃんの身体に腕を突き刺すと、まるで何か実験でもするかのようにぐりぐりと動かしている。
彼女の絶叫が僕の耳にこびりつき、なんとかしなければと思う反面、身体中にまとわりついた髪と臓物は僕に僅かな身じろぎすら許してはくれない。
「
僕に見せつけている。
はっきりとそう分かる光景だった。
どのような目的があるかは分からないが、いや、目的や行動の理由なんてどうでも良い。
『芸術作品』は僕に見せつけているのだ。
僕の大切な人がもがき、苦しみ、叫ぶ様を。
「げほっ! ゲホッ! 痛い! 助けて! 痛いよぅ! 助けて!
「
瞳からは止めどなく涙が溢れ、強く噛みすぎたのか切れた唇からは血がにじみ出てくる。
呼吸は乱れ、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔からは情けない
それでもこの苦しみは彼女の万分の一にも満たないだろう。
目の前で苦しみ、助けを求める彼女に比べれば。僕の大切な人が受ける痛みに比べれば……。
「やめろ! 止めてくれ……、もう、やめてくれ……」
怒りは嘆きに、嘆きは後悔に、そして後悔は乞いへと変わっていった。
たとえそれが夢衣が言ったとおりに残滓だとしても……。
かつて笑顔で笑っていた彼女が残した思い出の欠片だとしても。
目の前で苦しむ幼馴染みを助ける事が出来ない無力感と絶望感は、僕の心を闇の底へと引きずりこみ、元に戻らないほど粉々にするには十分過ぎるものだった。
「もう嫌だ。僕が何をしたっていうんだ……もう、やめてくれ」
なんでこんなことが出来るんだ?
何故こんなにも平然と、感情も無く人を傷つける事ができるんだ?
こんなことならば、こんな悪い夢ならば。
また戻って来て欲しいなんて願うんじゃなかった。
あの美しい日々を、大切な思い出を。
――願うんじゃなかった。
「お兄ちゃん」
時が止まる。
それは僕の真横から聞こえてきた。
ハッとして横を見ると、先程バラバラになったはずの妹が平然と佇んでいる。
喜ぶべきことだ。妹が無事だったんだ。
それがバケモノだとしても、夢衣が元気な姿を見せてくれることは僕が何よりも求めていたことで、この事態を打開する光となってくれるはずだ。
けど……。
じゃあなんで、なんでこんなにも恐ろしいだ?
何故かそれが妹ではないかもしれない。そんな漠然とした不安が僕の全身を襲っていた。
「ゆ……い?」
返答の代わりに
優しい温かさを持った懐かしい妹の手だ。
それが僕の身体に触れるか触れないかの瞬間。バラリと、僕の身体にまとわりつく髪の毛が解けた。
加えて、ゾゾゾっと不気味な音を立てながらあれほど強く僕を抑えつけていた臓物が円を描くように退散し、一種の空白地帯が生まれる。
それは僕の妹を中心にして発生していた。
ゆらりと『芸術作品』が夢衣へと向く。
巻き戻しの様に顔面から漏れ出ていた臓器が逆流し、まるで何かに怯えるように上下左右
夢衣はその光景を無言で眺め、ゆっくりと立ち上がった。
「夢衣は悪夢だから空っぽだって言ったよね? 夢衣に感情は無いってさっき断言したよね? 勘違いしていたよ。夢衣にも感情があったんだね」
その言葉は確かに僕の妹だった。
だがそれ以上に表現しようのない不気味な意志を含んでいる。
カタカタと体中が震えだす。それは本能的な恐怖から来るものだ。
肉体と精神がその存在に怯えきっており、可能であれば今すぐにこの場から逃走しろと先程から煩いほどに指令を投げつけてくる。
だが何も縛るものが無いはずの僕は、まるでヘビに睨まれたカエルの様にその場に釘付けになっている。
違う、そんな生易しいものじゃない。
怖いんだ。どうしようも無く、心の底から。
それは初めて分かるほどに感情をむき出しにした彼女に対する怯え。
そして妹が真っ二つにされても呆気無く復活するバケモノだという事実によるものかと、そう思った。
「ねぇお兄ちゃん。夢衣、叶さんを殺されて、あんなことをされて――」
けど、けど、違うんだ。そうじゃないんだ。
僕が本当に恐ろしいのは……。
「「――怒ってるみたい」」
彼女の声に、得体のしれない存在が重なっていたからだ。
「「■■■■■■――」」
妹が口を開く。
その言葉を聞いた瞬間。確かに世界が悲鳴を上げた。
『芸術作品』ではない。世界が悲鳴を上げたのだ。
今までに聞いたことのないような、壊れた楽器と機械、そしてあらゆる生物の叫びをごちゃまぜにしてかき鳴らしたような悲鳴。
「……っ!? げほっ! げほっ! うげぇ」
口元に違和感を覚え、慌てて拘束から離れた手でおさえる。
手にはべっとりと赤黒い血が吐き出されており、僕は気が付かず吐血していたことを理解する。
何が起こった? との疑問の前に、『これはとても良くない言葉だ』という意識が勝った。
根拠はない、本能から来る警告でもない。
ただ
「「■■■■■――」」
夢衣が、また何かを口走った。
今度は慌てて耳を塞ぎ、その良くない言葉を聞くまいと備えるが、代わりに襲ってきたのは全身を襲う喪失感と、筆舌に尽くしがたい程の、心臓の痛みだった。
「ぐっ、げほっ! ゲホ!!」
失血死してしまうんじゃないかと思う程の血塊が口から吐き出される。
同時に視界が赤くにじむ。血の涙だ。
おそらく体中にある繊細な血管が傷つき、血を噴出させているのだろう。
「キェェェェェェェェ――――」
今度の絶叫は先程のそれではなかった。
聞き覚えのないが、何処かで聞いたことのある。かつてクラスメイトだと誤認させられた人物の物だ。
漏れ出て流れた声を聞いただけで僕はこれほどのダメージを負ったのだ。
それがもし『芸術作品』だけに向けられたものだとしたら、その存在はどの様なことになってしまうのだろうか?
相手が心も魂もない、人を殺すだけのバケモノだというのに、その存在を待ち受けているであろう地獄に、僕は身体を震わせた。
「貴方が何か知らない。興味もない。……何をしたかったかなんて、一番どうでもいいこと。けど……」
夢衣は
それは独白に近く、心の無い相手に向けたものと言うよりは自分自身の行動に納得を得るための行為にも思えた。
やがて彼女は小さく息を飲むと、ハッキリと聞こえる声で断じる。
「「けど、少し目障りだ」」
その言葉は、まるで何処か深い深い闇の奥から響くような圧力があった。
ちっぽけな人間では……いや、地球に存在するありとあらゆるものですら太刀打ち出来ないような、そんな悍ましい圧力だ。
それは『芸術作品』ですら例外では無かったらしく、あれほど非現実じみた存在力を持っていたはずのバケモノは呆気無く砂のように崩れ始める。
「アアアアアアアアアア――
終わりには静寂と虚無だけが広がっている。
最後に一言だけ、かつての
悪夢『芸術作品』は跡形も無く消え去った。
残されたのはは無言で佇む夢衣と、ただその光景を呆然と眺める僕。
そして叶ちゃんたちが囚われた『芸術作品』の落とし物だけだった。
――僕の妹はバケモノだ。
本物のバケモノだ。
その存在が何であるかなんて考える事すら拒否したい。
ただ純粋に、僕の彼女が途方も無く恐ろしい存在であるということだけをまざまざと見せつけられた。
力量という言葉など一笑に付す程のバケモノ、それが僕の妹なのだ。
くるりと、夢衣がこちらへと振り向く。
佇む彼女は近くにいながら何処か遠くに存在しているようで、声をかけることすら
だがその顔には僕に対する心配が浮かんでいた。
すぅっと、何かが通りすぎた感覚を覚えた。
ようやくこちらから視線を外した。何故かそんなふうに感じてしまう。
先程まで見ることすら本能が怯えていた妹。彼女がゆっくりと現実味を帯びてき、狂った現実が終わりを告げた感覚を覚える。
「ごほっ! ごほっ……夢衣、大丈夫か?」
自然と、咳と一緒に妹に対する心配の言葉が出てきた。
きっと僕は何処までも彼女の兄なのだろう。そう思わせる程、それは意識外の行動だった。
「――うん」
小さく答えた彼女は、間違いなく僕の妹だ。
「無事なら、いいんだ」
「…………ありがとう」
奇妙な沈黙が二人の間に流れる。
理由は分かっている。先ほどの光景はそれほど衝撃的なものだったから……。
「えっと……」
夢衣は言葉を選んでいる様子だった。
その瞳は揺れ、どうすればよいかと逡巡しているようにも見える。
困ったことや相談しにくいことがあった時、妹は決まってこんな表情を見せる事があった。
僕に先ほどの出来事を聞く勇気はない。
彼女が悪夢であるということは理解している。その先にある扉を開く勇気と意味は、残念ながら今の僕に存在していなかった。
だから、ありきたりな、きっと彼女も望んでいるであろう質問を簡潔に述べる。
「今度はどうなんだ? 倒したのか?」
「うん。結構傷めつけたから、元に戻るのは時間がかかると思うよ。さっきみたいなことになる危険性は無い」
「そっか……」
夢衣は困惑した表情と、少しホッとした表情と、その二つを一緒にした奇妙な表情を見せていた。
もしかしたら、彼女自身あの時起こった出来事に関してよく分かっていないのかもしれない。
悪夢という存在について夢衣はあまり詳しくないと言っていた。
何か不可思議な謎がそこに含まれていたとして、彼女が全部理解しているとは限らないのだ。
「そうだ。
ようやく時間が得られた。
それは大切な幼馴染みとの別れの時間だ。
再開では無く別れ。終わった時にけじめをつけるだけの時間。
納得出来ないものの、覚悟はできているつもりだった。
「お兄ちゃん。後始末をしよう」
夢衣の告げた言葉に僕は頷いて応える。
けど、後始末という言葉が持つ本当の意味を、この時の僕はまだ理解してはいなかった。
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