Art work Ⅴ ― Laugh ―



       


 げらげらげらげらげらげれげらげらげらげら。


 わらっている。

 僕らの目の前で、背後で、左右で、下からも、上からも……。

 嘲笑ちょうしょうはまるで愚かな獲物をさげすむかのような喜悦を含んでおり、もはや耳障りな雑音の如く変性してしまった声は鼓膜を通じて脳を揺さぶってくる。


「なんだよ梔無くちなし! おかしすぎるぞ! なんだよそれ! おかしすぎるぞそれ! なんだよそれ!おかしすぎるぞ!」

梔無くちなしくん梔無くちなしくん梔無くちなしくん梔無くちなしくん梔無くちなしくん」


 熊谷くまがい高市たかいちが特別煩く僕へと語りかけてくる。

 もはや正常な機能を有していないのだろう。脈絡の無い言葉を繰り返しているだけだ。

 だが何も意味はないはずのその言葉が、ほんの数日前に言葉を交わした彼らを否応なしに思い出させ、僕の罪悪感を苛む。


「煩いなぁ。夢衣ゆいかなえさんを取り戻しに来たのに、どうして大人しくしてくれないの?」


 震える足を叱咤しながら、腰を抜かすまいとようやく姿勢を保っている僕とは対照的に、夢衣は至って冷静にこの現象を観察している。

 もっか彼女の目的は目の前に存在している狂気などではなく、かなちゃんを取り戻すことに終止していた。

 いや、それも違う。きっと夢衣は今でも叶ちゃんの死に何も感じていないのだ。

 ただ僕が叶ちゃんを助けたいと、その身体を取り戻したいと望んだから、それだけの理由でついてきてくれているのだ。


 僕は今この瞬間この場において、人間が自分だけであるという事実を思い出し、凍えてしまいそうな孤独感と恐怖感に襲われる。


「とりあえずあれは放っておいて、かなえさんを探してみる? お兄ちゃん」

「ちょ っと梔無くちナシく ん私の 話聞いてい るのかしら?」


 ヒタリ――。


芸術作品アートワーク』が出鱈目な発声で言葉を羅列しながら一歩を踏み出した。

 同時にまるで意志を持っているかの様にガタガタと椅子と机が僕らを取り囲み退路を塞ぐ。

 あれほど煩かった嘲笑はピタリと止んだ。


「おっと、これは好都合」


 手近にあった椅子をむんずと捕まえ、夢衣が野球選手にも似たフォームで投擲する。

 豪速で『芸術作品』に迫った誰かの椅子は、だがしかし今度は『芸術作品』に到達する前に漂う黒髪に絡み取られ、小さな残骸へとちり紙の様に丸め込まれてしまう。


 刹那の間を置いて部屋が間延びした。

 異様なことに部屋の広さが物理的に変容してしまったのだ。

 どの様な方法を用いたのかは不明だが、今はかつての教室の数倍にも達する大きさになっており、遠く果てに見える教室の入り口と出鱈目に隆起した剥き出しコンクリートの床が広がる空間へと変容している。


「なんだよこれ、部屋が……っ!!」

「あー、運動するにはちょうど良さそうだね」


 に知能があるのかどうかは分からない。

 今までの行動を考えると、この行為も意味を持って行われたものではないのかもしれない。

 だが結果的に僕らの逃亡を困難にしているという点では非常にマズイ代物でもあった。

 僕はまだかなちゃんに会ってすらいないのだ。


「私がこれの相手をしてみるよ、お兄ちゃんはかなえさんを助けて」

「でも、大丈夫なのか!?」

夢衣ゆいは大丈夫だよ。それに、そうすることが正しいと、そう思うから」


 夢衣の言葉に押し黙る。

 彼女は確かに自分も悪夢であると宣言した。今までに見せた剛力もそれを証明しているのだろう。

 だがそれでもこの場で彼女に任せていいものかと考えてしまう。

 妹なのだ。大切な。

 こんな所で失っていいはずがない。

 叶ちゃんを諦めてでも、僕らは逃げるべきではないのだろうか?


「行って……。多分、叶さんもお兄ちゃんを待っている」


 迷路に入り込んでしまった僕の覚悟を後押ししたのはほかならぬ夢衣の言葉だった。

 半ば命令するような強い口調で告げられたそれは、優柔不断な僕の迷いを一気に断ち切る。

 視線だけで妹に感謝の意を告げ、少し離れた場所に移動してしまった肉壁へと駈け寄る。


 叶ちゃんが囚われているであろう場所までは、さほど距離を必要とせずに到着する事ができる。だがその後どうすればよいか分からない。

 うごめく肉の塊を目の前にして、僕が出来ることは少なかった。


「叶ちゃん、叶ちゃん!」


 背後では何かがぶつかり合うと不気味な叫び声が聞こえてくる。

 僕は許された時間がほんの僅かしか無いことを感じ取ると、勇気を振り絞り肉塊へと両手を突っ込み、袋状になっていた固まりを開き裂く。


 そして、ようやくズルリと、……かなちゃんだったものが顔を現わした。


 僕の大切な幼馴染みはかろうじて人と分かる状態だった。

 ドロドロにとけており、ピンク色の筋肉が露出し時折痙攣している物体。

 もう殆ど原形をとどめていない、それでも彼女の面影を確かに残したそれは、瞳らしきものをうっすらと開けると、ずっと聞きたかった声で僕の名前を呼んだ。


「あー……くん?」

かなちゃん!? よかった、よかった……」


 その瞳に光は宿していない。

 声音も酷く弱々しいもので、集中してようやく聞くことが出来るものだ。

 だが間違いなく僕を理解し、僕に応えてくれていた。


「ああ、暁人あーくんの声が聴こえる……。どうし……よう、ごめんね、もう目が見えないの」

「助けにきたんだ! 叶ちゃん」


 必死で叫ぶ、もう二度と彼女を失わないように。もう二度と過ちを繰り返さないように。

 頬だと思われる場所に優しく触れ、何度も何度も繰り返す。

 僕の言葉が彼女に届くように。


「……寒いよ、暁人あー、くん、そこにいるの?」

「ああ、ああ! ここにいる。 だから一緒に帰ろう! 今助けるから!」

「うれしいな、暁人あーくん。やっぱり助けて……くれるんだ。私、信じてたんだよ」


 絞り出された声に何度も頷きながら、肉の塊と成り果てた彼女を必死で掻き出そうと力を込める。

 ゴプリと肉の壁に腕を突っ込み、絡みつく肉の不快感も気にせず必死に彼女を引っ張る。


「……凄く、寒いの、それに凄く怖い。だから、もう離さないで、お願い」

「もちろんだ! もう離すものか!」


 ゆっくりと叶ちゃんの腕らしきものがこちらに差し出される。

 もはやどこまでが手で、どこまでが腕か分からなくなったそれを掴み、彼女の願い通り二度と離すまいと握りしめる。

 彼女は何度も何度もうわ言のように僕の名前を繰り返す。

 意識は朦朧もうろうとしているようで、虚ろな瞳からもそれははっきりと分かる。

 だがそんな中でも、そんな中で……必死に僕の名前を呼んでいる。

 叶ちゃんが僕の名前を呼んでいるんだ。

 彼女の言葉に応えなければ。ただそれだけを考えていた。


 ズルリ、ズルリ、彼女の身体が少しずつ出てくる。

 それを引きずり出すとどうなるのか分からない。

 もしかしたら彼女の意識がこのまま消え去り、二度目の別れが訪れるのかもしれない。

 そう考えたら、あの時伝えられなかった言葉を今伝えなければという強い焦燥感が僕に襲いかかった。


「そ、そうだ! 叶ちゃん。ずっと言いたかったんだ。あの時の言葉――」


 虚ろな瞳が僕を捉える。

 もしかしたらそこに意志の光が見えたのかもしれない。

 ――僕も君のことが好きだ。

 だから、僕はその言葉を伝えようと、彼女に伝えられなかった想いを届けようと。

 そう思った。


 だが。


 ガァン!!

「ぐぎっ!」


「――っ!?」


 叶ちゃんへの言葉は、強烈な破裂音と叫びによって強制的に中断される。

 突如轟音ごうおんを立てて、僕の横に何かが転がり込んで来た。

 辺りにあった椅子や机を弾き飛ばしながらやってきたそれは、体中に切り傷をつけた僕の妹だった。


夢衣ゆい!」

「ま、まずった。お兄ちゃん……逃げて」


 時間を稼いでくれた彼女はボロボロで、よく見ると裂傷どころか腕もおかしな方向へ曲がり、骨折している様子だった。

 恐怖を虚勢で克服し、一瞬だけ『芸術作品アートワーク』へと目を向ける。

 悠々とこちらへ歩いてくるその悪夢は健在で、それだけで夢衣と『芸術作品』の圧倒的な力の差を思い知らされた。


「お兄ちゃん。早く、私は放っておいていいから」


 弱々しい声で夢衣が迫る。

 震える身体で健気に立とうと、こんな状態になってなお『芸術作品』に立ち向かってくれようとする。

 叶ちゃんはまだ肉壁に埋もれたままだ、引き抜くには時間がかかる。今からでは間に合わない。

 逡巡は一瞬。叶ちゃんをゆっくりと離し、直ぐ様倒れる夢衣を抱き寄せて勢い良く立ち上がる。

 どうしようもない後悔が襲いかかるが、僕に出来ることは一旦逃げて体勢を立て直すくらいだ。決断を遅らせ、致命的な過ちを犯すことはできない。


「夢衣を置いて逃げられるかよ! くそっ! 叶ちゃんごめん、すぐ戻――」

梔無くチなしく ん――聞 いテほ しいの」


 ヒタリと、なんの脈略もなく、『芸術作品』がすぐ隣から話しかけてきた。


「うああああっ!!」


 ドカリと鈍い音と共に慌てて放った僕の蹴りが『芸術作品』の腹に決まった。

 生ぬるく、吐き気を催す体液を撒き散らせながら『芸術作品』は床に転がり倒れる。

 瞬間的に足が動いたのは奇跡と言っていいだろう。

 この時ばかりは普段考えたこともない神と反射神経に感謝する。


 身体と心をズタズタに引き裂かれるような気持ちになりながら、叶ちゃんをその場に置き去りにして遠く離れた教室の入り口へと向かう。

 幸いなことに扉を開けた向こうは見慣れた校舎で、勝手知ったる学び舎とばかりに頭の中に最適な逃走経路が浮かんでくる。


「お兄ちゃん……ちからもちだね」

「火事場の馬鹿力だ!」


 夢衣をお姫様抱っこのような形で抱きかかえながら、だが僕は今までに出したことのない様な速度で廊下を駆け抜ける。

 人は極限状態になると脳のリミッターが外れて普段からは考えられない力を出すことが出来ると言われている。

 いまの状況がまさにそれなのだろう。


 だが限界はいつか訪れる。人は人の枠組みを超えることは決して出来ないのだ。

 一旦そう考えると現金なもので、途端に足が重くなり、息が切れてくる。

 だがここで止まるわけにはいかない。少なくとも今後の相談が出来る時間を確保する程度には距離を離さないといけない。


「叶さんは?」

「はっ! はっ! いた、けど! 助けられなかった!」


 胸に抱く夢衣は簡潔にそれだけを尋ね、僕も簡潔にそれだけを答えた。

 けれども、叶ちゃんのことを考えていると、先ほどのやりとりが思い出される。

 また彼女と話ができたという奇跡に、無理な運動で悲鳴を上げる肺の痛みも気にせず叫び上げる。


「けどかなちゃんと――話ができたんだ! っ、はっ、はっ! また、叶ちゃんと会えたんだ! 今度は、今度はちゃんと!!」

「お兄ちゃん。息が切れているよ、そこで少し休もう」


 気がつけば僕らは一階の廊下まで走ってきていた。

 辺りは薄暗く、相変わらず人の気配なんてまるでしないが、夢衣の指差す先の教室は施錠忘れか扉が開いている。


 1―Bと書かれた教室に、背後を何度も確認しながら滑りこむように入り施錠する。

 カチャリと小さいはずの音がやけに大きく聞こえ、『芸術作品』が音を聞きつけて来やしないかとヒヤヒヤ肝を冷やす。


 辺りはシンと静まり返っている。

 まるで先ほどの出来事が嘘だったかのようだ。

 いや、この考えは良くない。とても良くない。

 あれは現実で、間違いなく真実だった。そして僕の目的はまだ終わってない。

 とは言え頼みの綱だった夢衣がこの有様だ。

 やはり僕はここに来るのは無謀だったのだろうか?


 抱えた妹をそっと降ろし、その表情を覗きこむように様子を窺う。

 先程まで苦しそうにしていた彼女は、その怪我がまるで無かったかのように比較的元気な様子を見せてくれた。僕も胸をなでおろす。


「ありがとう、もう大丈夫だよ」

「良かった、怪我は大丈夫なの――」


『緊急放送、緊急放送』


 安堵し、声をかけた瞬間の出来事だった。


「え?」


 スピーカーから間延びした不気味な声が聞こえ。

 まるで僕らの逃走が初めから無意味だとでも言うかのように……、


「梔、無クん――」


 目の前に『芸術作品アートワーク』が現れた。


「――うぇっ! がっ!」

「お兄ちゃん!? ……このっ! ――きゃっ!!」


 僕らが反応するよりも一瞬早く、視界が闇に覆われた。

 それが『芸術作品』の髪の毛によって僕が弾き飛ばされたことによるものだと理解したのは、全身を襲う激痛とぐるぐると回転する視界に気がついてからだ。


 ゴロゴロとボールの様に転がった僕は、ようやく教室の隅にぶつかり止まる。

 慌てて顔をあげようとするが、痛みに支配された身体は僕の願いとは裏腹に思う様に動かない。

 腕を軽く動かすだけでも痛みが走り、脂汗が出てくる。

 思わずうずくまって、このまま痛みの波が収まるのを待とう、などという愚かしい考えを振り払おうとしていた時だった。


 パン――と、何かが爆ぜるような奇妙な音が鳴った。


「……え?」


 びしゃりと、顔に生暖かい物がかかった。

 ふと見回すと、今までには無かった赤い液体が僕と教室を染め上げている。

 それが血だと理解する前に、僕の目には妹が映った。


「ゆ、夢衣?」


 慌てて声をかけるが、反応がない。

 ……当然だった。

 その姿に一瞬我を忘れ、呆けたようにただ呆然と眺め尽くす。

 妹はもはや物だった。

 さっきまで笑顔で夢衣の瞳に光は無い。

『芸術作品』の髪が全身に絡みついた彼女は、強力な力でねじ切られたかの様に腹から真っ二つに裂け、人形の様にダラリと吊り下げられている。


 あの一瞬、僕が『芸術作品』に弾き飛ばされた時、夢衣が襲われた。

 刹那の時は、だが妹が殺されるには十分な時間だった。

 妹が、死んだ。

 僕は……また大切な妹を失ってしまった。

 カタカタと身体が震え、ひっひっ、と声にならない声が漏れる。


 目の前の相手は何を思っているのだろうか? それともやはり何も思っていないのだろうか? やがて『芸術作品』は、まるで僕に見せつけるかのように夢衣の身体をこちらへと向けると、そのまま勢いよく左右へと投げ捨てた。

 まるで赤い華が開花したかのように、臓物を撒き散らしながら――、

 妹が、妹だったものが捨てられた。

 僕はその光景をただ見ることしかできない。


 身体の痛みはいつの間にか治まっている。

 けれども全身が鋭い無数の針で刺されたかの様に痛い。目に見えない恐怖が想像もできないような恐怖となって襲い掛かってくる。


 変わらず顔面からボタボタと狂気を溢れさせながら、

 目の前のバケモノはヒタリ、ヒタリとこちらに歩いてきた。

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