Art work Ⅳ ― Past ―



       

 月明かりは学校を薄く照らしだし、不気味なまでに僕らを迎えている。

 門は堅く施錠され、これでもかと鉄鎖でがんじがらめだったが、妹の前では飴細工ほどの奮闘も見せることはなかった。


 学校への侵入は、僕の懸念とは裏腹になんの障害も発生しなかった。

 例の事件が起こったあとも警察が出入りし、厳重な警備がされているのかと思われた校舎も無人で、宿直の先生すらいる気配はない。

 皆恐れをなして近づかないのか。

 もしくはいなくなったのか……。


 廊下を歩く。

 見慣れたその場所は、人気がないことも相まってか昼間とはまったく違う顔を見せている。

 全てが死んだかのような不気味な気配だけが漂い、人ではない何かが彷徨さまよい自らの存在を主張してくるかのような、そんな気持ちにさえなってくる。


「本当に『芸術作品アートワーク』はここにいるのか?」

「うん、大丈夫。そんな気がする」


 暗い廊下に僕らの声はやけに大きく響いた。

 夢衣ゆいの言葉によって普段通う学校にやってきた僕らは、自らの教室を目指して慎重にその歩みを進めている。


かなちゃんを取り戻す方法は?」

「出会ってしまえば、なんとか分かると思う」


 夢衣の勘は当たる。

 正確にはそれが夢衣が持つ力だからだ。

『僕らに襲いかかるあらゆる脅威を感知し、排除する力』

 それが夢衣が悪夢として持つ特別な力らしい。

 だから彼女の勘はもはや感覚的なものではなく、絶対的な事実として存在する。

 この先の何処かにかなちゃんが、そして『芸術作品』がいるかと思うと、尽きることのない緊張が何度も僕に襲いかかる。

 ゆっくりと一歩一歩進む僕らだったが、突如鳴り響いた軽快な音楽に不審者の如くビクリと反応してしまう。

 ……僕のスマートフォンだ。

 誰かからの通話がかかってきたらしい。画面を見ると、熊谷くまがいと表示されていた。


「今は大丈夫だよ」


 ちらりと窺った夢衣は僕の視線だけで問いを察してくれたらしく、小さく頷き返事をしてくれた。

 これから大切な時だって言うのにタイミング悪く電話をかけてくる友人に辟易へきえきとしながらも、これ以上何度もかけられては困るため早々に断りを入れて切ってしまおうと考える。

 となればさっさと済ましてしまうに限る。

 通話ボタンをタップし、耳に当てた。


「ああ熊谷くまがい。ごめん、今ちょっと忙し――」


「あははははははははははははははは!!」


 それは笑い声だった。

 狂った、それ喉の痛みさえも考慮しないような、そんな壊れた笑い声。

 突然のそれに思わずスマートフォンを落としそうになるが、慌てて手に力を込め、なんとか言葉を絞り出す。


「な、何がそんなにおかしいんだよ? どうしたんだよお前……」


 ブツリ。

 通話が切れる。


 今のは、何だ?

 声は確かに熊谷くまがいのものだった。

 だがあの尋常じゃない笑い声はどの様な意味を持っているのか?

 もしかして、熊谷までもが、僕が知らないうちにこの異常な事態に巻き込まれてしまったのだろうか?

 叶ちゃんの様に……。


 プルルル!!


「――っ!?」


 呼び出し音が鳴る。

 表示された通知欄には、高市たかいちと表示されている。

 先ほどの笑い声が何故か頭の中で何度も木霊して聞こえてくる。

 震える手で通話ボタンを押そうと指を伸ばし、


「お兄ちゃん」


 不意に声がかけられ、ハッと顔をあげた。

 夢衣だ。いつの間にか僕のスマートフォンを手に持っている。

 何故彼女が僕のスマートフォンを奪い取ったのか分からず唖然としていると、バキリと鈍い音と共に、慣れ親しんだ愛用のスマートフォンは粉々に握りつぶされた。


 ――プルルル。プルルル。


 呼び出し音は鳴り続けている。

 壊れたスマートフォンから、粉々になっているにも関わらず。


 ――プルルル。プルルル。


 呼び出し音はどんどんとその音量を上げていく。

 前後、左右、上からも下からも。

 遠くからなっているようにも、耳の側でなっているようにも。

 まるで直接脳内で響いているようだった。


「煩い」


 音は鳴り止んだ。

 先程までかき鳴らされていた呼び出し音は消え、痛いほどの静寂がまた薄暗い廊下を包んだ。

 気がつけば、目の前に2―Aと記された扉が現れている。


「ここは……僕の教室か。いつの間に?」

「気をつけて。私達が来たんじゃない、連れてこられたんだ」


 妹の言葉にゴクリと息を呑み、扉の向こう側にいる存在への覚悟を決める。

 小さく夢衣が頷くのを確認してから、扉に手をかけ、ゆっくりと教室へと入る。

 見慣れた教室は、だが僕の知るどれとも違っていた。


「あら梔無くちなしくん、こんばんは。殺人鬼が出ているのに学校に来るなんて不用心にも程があるわ」

「く、繰崎くりさき……」


 ――繰崎くりさき 橙百合とうゆり

 教室の中央で静かに佇む彼女は、日常会話の焼きまわしの様に平然と挨拶をかけてきた。

 静かな湖畔を思わせる雰囲気の彼女は、伽藍堂がらんどうの瞳で僕を見つめている。


 その態度はまるで偶然出先で出会ったかの様だ。

 事実僕も普通に返事をしそうになった。彼女の背後を見るまで……。


 僕の視線はすでに彼女には向いていなかい。

 教室は一変していた。今まで見てきた現実は僕の知る世界の真実ではなく。

 ただ今目の前に存在している恐怖こそが世界の真の姿であることを指し示している。


 悪夢だ。

 そこには悪夢が鎮座していた。

 ごぷり――と、彼女の背後にあるが脈動した。



 ……それを一言で表すのなら醜悪な肉の壁。

 筋肉、血管、臓器、瞳、口、骨。そして幾つかの、決して少なくない数の顔面。

 様々な人間を構成するパーツが出鱈目に壁一面に貼り付けられている。

 おそらく、これは今まで犠牲になった人々なのだろう。

 何故か卒業式に生徒が思い思いにメッセージを黒板に描く行為を思い出した。

 ただここに塗り込められているのは将来への希望や学友との別れを惜しむ悲しみの気持ちなどではない。

 ただただドス黒い悪意だけが隙間なく満遍に塗りこまれている。


「――っ⁉」


 壁に塗りこまれた顔が一斉に向いた。


 そのどれもが喜悦の表情を浮かべながら、ニタニタと僕をめ尽くすように見つめている。

 視線だけで狂ってしまいそうになるなか、まるで初めからそんな物がないとでも言わんばかりに繰崎くりさきは軽く微笑み続けている。


「委員長とは呼ばないのね。ちゃんと覚えてくれたようで嬉しいわ。私だって女の子なんだから、それ相応の配慮をしてくれないと悲しいものね」


 軽く唇を尖らせながら拗ねて見せるその仕草は、思春期の男子に淡い期待をさせるに十分なものだろう。

 だがここじゃあない。この場でやっていいような態度じゃない。


「それは……それはなんだ?」

「何って? これがどうかしたの? 別に普通だと思うわよ?」


 何でもないと言った様子で背後を確認する繰崎。

 彼女が振り返り視線を向けると、壁に埋め込まれた顔の群れが一斉に悲鳴を上げた。

 まるでガラスを金属で引っ掻いたようなつんざく悲鳴に思わず耳を抑える。

 その異様な光景に言葉が出ず、ただ早くなる鼓動の音色だけを聞いていると、隣で様子を窺っていた夢衣が一歩前へ出た。


「はじめまして繰崎さん。夢衣たちの叶さんを返して欲しいんだけど」

「叶さん……ああ、C組の夢丘ゆめおかさん。そう、両手に花なのね、梔無くちなしくん。何かあったら貴方が守ってあげるのよ、ナイト様」

「なんだよそれ、なに言ってるんだよ⁉」


 それはまるでエラーの発生したロボットだった。

 何処かで致命的な処理の間違いが発生し、本来発するべき言葉が別の場所で出てしまったかのような、そんなちぐはぐな違和感を覚える。


「ナんだって失礼だな!」

「君ったらいつもソレだね」


 背後の顔面が二つ、覚えのある声で騒ぎ立てる。

 そう、ちょうどさっき電話越しで聞いた、覚えのある、気のおけない友人の声だ。


熊谷くまがい高市たかいち……」


 眼球をぐるぐると出鱈目に動かしながら、喜悦の表情を浮かべ壁に貼り付けられている顔面は確かに僕の友人だった。

 初めから、こうなるんだろうとは思っていた。

 先ほど通話がかかってきた時から、その予感はしていた。


「げらげらげら!」

「あはははは!」


 二人に懐かしい面影は一切ない。

 ただ狂ったように笑うだけで、喉と瞳から血の涙をこぼし終わることのない嘲笑を繰り返している。

 その様があまりに哀れで、彼らにすら何も出来なかった自分に強い無力感を覚えた。


「ちょっと待って梔無くちなしくん。いま私の家族に連絡するから。迎えに来てもらわなきゃ」

「ああ、ダメだこれ。話が通じない感じだね、お兄ちゃん」


 あいも変わらず繰崎くりさきは場違いなセリフを繰り返している。

 今は鞄を探っているつもりだろうか? 虚空で手を動かしながら器用に何かを操作するしぐさを見せていた。

 悪夢に感情は無く、スマホに入っている対話アプリと同じような存在。

 ここに来る前に夢衣ゆいから聞いた言葉が、再度頭の中で繰り返される。


「もしもし、母さん? 今学校にいるんだけど、うん、うん……分かった。よろしくおねがいね――」

「お兄ちゃん、ちょっとどいて」

「え?」


 その言葉と共に、突如僕の隣を強烈な風が吹いた。

 次いで、ガァンと固いものと柔らかいものを同時に強く叩いたような聞いたことのない破裂音が鳴り、繰崎が大きくのけぞる。

 辺りに鮮血が飛びちり、同時にガン、ガンと固いものが床に落ちる音がなった。


「ちょ、ゆ、夢衣⁉」


 この段階に至って、ようやく僕は妹が手近な机をバケモノじみた力で繰崎の顔面へと投げつけたことを理解する。

 机は繰崎に直撃した。その顔面に、だ。

 夢衣が今までに見せた怪力、叶ちゃんの家のドアや校門の鎖を悠々と破壊した事実を思い出し、繰崎を襲った力の大きさに震える。

 視界に映る制服姿の少女は、ビクンビクンと痙攣し、顔面には無残にも割れた机の足が突き刺さっている。

 まだ意識があるのか、それとも反射的なものなのか、ゴポゴポと絶えず顔面からは血泡が表れては弾け、むわっとした生臭い鉄の匂いが漂ってくる。


 やがて繰崎――『芸術作品アートワーク』はビクンと大きく跳ねた後、その動きを止めた。


「夢衣いつも思ってたんだけど、漫画とかでよくある敵が説明したり変身したするシーンってすごくチャンスじゃない?」


 あっけらかんと言い放つ妹からは罪悪感という物が一切感じられない。

 相手は悪夢というバケモノだとしても、先程まで人の形をとり、曲がりなりにも僅かな会話が可能だったのだ。

 それをなんの躊躇もなく殺した。

 その事実は理性では分かっていても感情な部分で納得できず、困惑となって表れてしまう。


「なぁ、もしかして。殺人に、なるのかな?」

「どうなんだろう? でもそれよりも叶さんを見つけることが先決だと思う」

「――っ! そうだ、叶ちゃんは!?」


 未だに繰崎が『芸術作品』と呼ばれる恐ろしいバケモノだったとは信じがたいが、それでも目的を忘れることはできない。


 ここに来たのは何も正義感を出して人類を脅かすバケモノ退治に来たのではない。

 僕の目的は叶ちゃんを取り戻すことだ。

 何もしてやれなかった彼女に、せめてもの償いが出来ればとここにやってきたのだ。

 途端に視界の端に映る少女の死体へに対する一切の思いが消え、同時に叶ちゃんのことだけが頭の中を満たす。


「叶ちゃんは、どうなってるんだ?」


 できればその質問はしたくなかった。

 持ちだされた彼女の身体が、どのような目にあっているかを知りたくはなかった。

 だが何からも逃げ出したってそこには何も残らない。


「分からない。けど一緒だと思う」

「…………」

「そこで『芸術作品』のおもちゃになった人たちとね」


 夢衣の言葉に僕の顔が歪んだのが分かった。

 恐ろしくて、はっきりと視界に映すことを躊躇していた友人たちの成れ果てへと目を向ける。


「ぎゃはははは! 俺たちは友達だぜ! 友達だぜ梔無! ぎゃははは!」

「あはははは! 頑張れ! 頑張れ梔無くん! 頑張るんだ! 負けるな!」


 何処かで聞いた言葉を何度も何度も繰り返す友人。かつての彼らはもう何処にもいない。

 いつから二人がこんな有様になっていたのか、僕には確かめる術はない。

 よしんばそれが可能だったとしても。そこに意味はないだろう。


「もうずっと前に死んでたんだね。これは残滓ざんしだよ。生きてるように見えるけど、死んだ人の残り香」

「そんな、だって今だって喋ってるじゃないか……」


 僕は心の何処かで縋りたかったのだろう。

 いや、今でも縋りたいのだ。

 みんなが生きていると、まだなんとかなると、まだやり直せると。

 何処かで見た漫画のように、敵を倒せば全てが救われると、そう信じたかったのだ。

 けれども僕の目の間にあるのはただただ永遠に続く闇で、希望の光なんて何処にもない。

 夢衣の言葉は、鋭い刃となって僕にその事実を無情にも突きつけていた。


「ここに居る人は全部そう。もう死んだ人たち。残り香だけが、囚われてる」

「じゃあ叶ちゃんもそうなって?」

「そうだね。厳密に言えば本人じゃないかもしれないけど、そうなるね」


 被害者は全員身体のパーツがいくつか持ち去られているとの話だった。

 僕の眼前に広がる哀れな慣れの果てがかつての犠牲者だとするのならば、叶ちゃんもこうなってしまうのだろうか?

 血の涙を流し、狂ったように同じ言葉を繰り返す醜悪な塊に。

 それだけは認めることはできない。

 彼女のそんな姿を見るのは、僕には到底許せることじゃない。


「叶ちゃんはどこにいるか分かるか……?」

「うーん? あっ、見つけた。あそこに埋まっているのかな?」

「あ、ああ……」


 夢衣が指差す先には、壁に埋め込まれた不自然な肉の盛り上がりがあった。

 その部分だけまだ構築途中の様な、そんな違和感を覚える空白が存在している。

 奪い去った叶ちゃんの肉体を、あそこで作品にしているのか?

 ……あそこに叶ちゃんがいる。

 叶ちゃんが僕の助けを待っている。


 ――ふと。

 もしかしたら今ならまだ叶ちゃんと話をする事が出来るんじゃないか?

 そんな、絶望的で度し難い希望が湧いた。


「多分、お兄ちゃんが考えてる通り、叶さんとお話できるよ」

「……っ!!」


 叶ちゃんと話ができる。

 その言葉は僕の心に火を灯す。

 言えなかった言葉を告げる機会がもう一度訪れる。

 もしかしたら、彼女を助ける手立てがあるかもしれない。

 今は何も考えがつかないけど、彼女ともう一度会えば、彼女と話が出来さえすれば……。


「けど忘れないでお兄ちゃん。それは本物じゃないんだ――」


 ……わかってるんだ。そんなことは僕が一番。

 もう無理だって。これは唯のけじめなんだって。

 ただ僕の我儘で、どうしようも出来ないことを納得するためにやっている無意味なことなんだって。わかってるんだ。どういうことかなんて。

 だから、だからそれ以上は言わないでくれ。

 お願いだから。




「悲しいけど、もう全部終わっちゃったんだよ」




 僕に現実を突きつけないでくれ。

 何度目の絶望は、飽きること無く僕の心を闇へと誘う。

 でも、夢衣が僕にその言葉を繰り返す理由は分かっている。

 これ以上僕の心を傷つけないためだ。

 下手な希望を持ってより深い絶望に落ちるより、初めから自分の置かれた状況を正しく認識する方が良いだろうという判断だ。

 彼女は何も間違っていない。

 だたその言葉を受け止めて、前に進めるほど僕の心は強くなかった。


 ああ、どうして、どうして僕は物語の主人公じゃないのだろう。

 こんな時にヒーローならば涙をかてに強く未来を見据えていけるのに。

 叶ちゃんの死を胸に、思い出の中で笑う彼女の為に歩き続けていけるのに。

 いや、それよりも物語の主人公ならばこんな有様には――。



 ――ガタリ。



 何かが、ぶつかる音が鳴った。

 否。僕はその原因を知っている。先程まで倒れていた『芸術作品』が起き上がる音だ。

 絶望は終わらない。それは僕に休む暇すら与えずに、這いよってくる。


「あー、しばらくは時間を稼げるかもって思ったけど、ダメだったか。予想以上に強力だ。おかしいな?」


 夢衣が振り返り、不思議そうにそれが起き上がろうとしている様を眺めている。

 その様子は出来事に驚きを感じているというよりも、何か実験対象が予想意外の行動を出て興味が湧いたといった無機質さだけが存在している。


「でもさっきのでダメージを受けてるんじゃ……」


 確認するように夢衣へと問いかける。そうであって欲しいとの願いもあったからかもしれない。だか目をつむり首を左右に振る夢衣によってその願いも打ち砕かれる。

 振り向いた先、悪夢が倒れていた場所から不気味な音が鳴った。

 それは机の影に隠れていてどのような存在かは判別できない。

 近くの机に手をかけて、今にも起き上がろうとしている。


 ぼた、ぼた、と何か水気を含んだ物がこぼれ落ちた。

 びちゃびちゃと液体が飛び散る音も聴こえる。

 何か得体の知れない物が蠢くような、聞こえてはいけない音が連鎖し、うるさくかき鳴らされる。


 悪夢が、起き上がろうとしている。

 僕はただ静かにそれを見据えることしかできない。


「お兄ちゃん。言ったでしょ? 〝悪夢ナイトメア〟はバケモノなんだよ。気をつけてね、正気を保って」


 夢衣がその言葉を告げ終わったと同時だった。

芸術作品アートワーク』がついに僕らの目の前にその本性を表した。


「な、な……」


 言葉が出ない。

 それは一人の少女だった。

 ――繰崎くりさき 橙百合とうゆり

 かつてそう呼ばれた少女そのものであった。

 だが顔面は大きく縦に割れ、そこからありえない物が噴出している。


 腸と思わしき臓物、虹色に輝く粘着性の液体。

 幾つもの眼球、ビクビクと痙攣する脳、鮮やかな黄色に光る脂肪片。

 人の指、歯、蛆、羽虫、骨片、果ては文房具や硬貨と言った小物まで。

 ぼたぼたと顔面から溢れだし、無尽蔵に、決して止まることなく床に溢れている。

 しゅるりと、彼女の髪を後ろで束ねていた紐が解けた。

 縛るものの無くなった髪は、まるで生き物のようにうねりをあげ、獲物を探すかのように漂っている。


 僕らの背後に位置する肉壁から得も知れぬ音が聞こえてきた。

 ゴポゴポと沸騰した鍋のような音に振り返ると、この世のあらゆる単語で表現できぬほどの怨嗟と絶望に満ちた顔で穴という穴から血泡を吐き出す顔面の群れがあった。


「ねぇ、梔無くちなしくん。質問があるの……」


 声音は至って普通だった。

 顔面が崩壊し、狂気が尽きることなく溢れ出る有様でどのようにしてあの凛とした声を出せるのかわからないが、その状況を考えなければ至って普通の声だ。

 逆にそれが何よりも不気味に聞こえてしまう。


「どうして『芸術作品』は人を殺すのかしら? 貴方の意見を聞きたいわ」

「あっ、あああ……」

「ふーん、これが悪夢『芸術作品アートワーク』かぁ……」


 それを視界に収めた瞬間。ハンマーで頭を殴られたような衝撃に襲われる。

 そう、僕はこれを見たことがある。

 この得体のしれない存在を、確かにそこで見たことがある。

 遠くかすれた記憶の彼方。細部は違えど確かに目の前に存在するその恐怖を思い出し、混乱にも似た恐慌をきたす。




 黄昏たそがれ 麟童りんどう:作

 ――『何処の誰でもない少女』




 記憶に残るあの日、僕と夢衣が確かに見た絵画の少女。

 何故それがここに? 何故それが僕らを?

 はるか宇宙の彼方から、恐怖が滲み出て来たかのような感覚がした。

 人間としての、否、生命として本能が目の前の存在を拒絶している。


「全くもって意味が分からないね、お兄ちゃん」


 あっけらかんとした妹の物言いとは別に、僕の心はただただ恐怖と混沌に支配されていた。

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