Art work Ⅲ ― Admit ―
気がつけば、自宅への帰り道をとぼとぼと歩いていた。
僕の服についた血糊は何故かその痕跡を完全に消しており、まるで
おそらく僕の妹が何かをしてくれたのは分かったが、もうどうでも良かった。
それだけじゃない。
警察の連絡。叶ちゃんやおじさんおばさんの葬儀。他の友人達の安否確認。
やるべきことは沢山あったが、それら全ての興味が失せ、世界は急激に色を失っていった。
ただ、何もする気が起きないから、家へ帰ろうとしているだけだ。
「
あっけらかんとした様子の
いや、事実何も感じていないのだろう。
夢衣がたとえ悪夢と呼ばれるバケモノだったとしても、少しは叶ちゃんの死に悲しみを感じてくれると思っていた。
そう願っていた。
だがそれは我儘な僕の勝手な思い込みで、僕の願いとは裏腹に、夢衣はあれほど仲良くしていたはずの叶ちゃんの死に動じること無く平凡とした日常の一コマを演じている。
振り返り、妹の様子を伺う。
「どうするお兄ちゃん? 今から友達の家に行く? 夢衣はお兄ちゃんに何処までもついていくよ! なんでも言ってね」
両手を後ろで組みながら首を傾げる夢衣はようやく僕の意識が自分に向けられたことが嬉しかったのか、ニコリと笑うと側へと駆け寄ってくる。
愛らしい笑顔で笑ったんだ。
とても嬉しそうな顔で、笑ったんだ。
「夢衣……お前は」
「なぁに? 何か聞きたいことがあるの?」
「お前は何も感じてないのか? 叶ちゃんが死んだんだぞ……」
「そうだね。死んだね。それが?」
一気に血が上ったのが自分でもわかった。
冷えきった心に怒りという名の燃料を焚べられたかのようだ。
気分がカッとなり、自分でも何がなんだかわからなくなり叫び上げる。
「お前だってあんなに仲が良かっただろ!? 何も感じないのか!?」
「悲しいってこと? うん、悲しいよ。叶さんが死んで、夢衣もすごく悲しい」
夢衣は無表情でそれだけを言った。
まるで話題が自分ではなく叶ちゃんについてだったのが不満だとでも言うように。
彼女は自分を悪夢だと言った。
けど同時に僕の妹だとも言ってくれた。
たとえ偽物でも、それが嬉しかったんだ。
僕の妹が戻ってきたって、それが真実ではなかったとしても、そう信じたかった。
少しだけ違うところはあるけど、それでも僕の妹だと思いたかった。
けど、やっぱり違ったんだ。
「ならなんでそんな平然としているんだよ!」
僕は勘違いしていたのかもしれない。
少しだけ人間離れしたところがあれど、彼女だけは人と同じ感性を持つのだと信じていた。
だが今の彼女がどれほどのものなのか?
親しい人の死にすら感情を揺らすことがないのであれば、理解できない目的で人を殺し続ける『
そう思ってしまった。
「…………」
夢衣は無言だ。
声を荒げたことも、僕が半ば言いがかりに近く当たり散らしたことも、彼女の心には響いていない。
ただ少しだけ、悲しげでいて、とても空虚な表情を見せた。
「悪夢は……感情が存在しないんだ」
その言葉は僕にとって驚きよりも理解の方が大きかった。
そうでなければ、彼女の今までの反応は納得できないから。
だからその言葉は僕の心にストンと落ちて入っていった。
次の言葉を聞くまでは。
「いや、感情だけじゃない。心が存在しないんだよ」
心が存在しない? その意味が良くわからない。
感情が存在せずに他人の死に関して感情が揺れないのは理解できる。
だが心が存在しないとはどのような意味を持っているのだろうか?
「"哲学的ゾンビ"って知ってる?」
ポカンとした僕の表情は彼女に正しく疑問を問いかけたようだ。
逆に質問をされる形となったが、彼女がその真意を告げるため言葉を重ねる。
だが、"哲学的ゾンビ"とはあいにく初めて聞く言葉だった。
「"哲学的ゾンビ"って言うのはね。精神哲学の分野における概念なんだ。人は自分の意識は認識できるけど、他人のそれは認識できないって事実から生み出された考え。
もし仮に哲学的ゾンビが完全に人間としての生物学上の差異がなく、更には人としての受け答えができるのなら、たとえその中身に魂が無く機械の様に反射で応答していても分からないって話なんだよ」
「それが、それがどうしたんだよ。まさか――」
突然話された内容に心が追いつかず混乱する。
いや、僕は分かってるはずだ。
この場で夢衣がこの話をしたことが。
それが、何を意味するのかも……。
「そう、悪夢には心も魂も存在しない。ただ反射で受け答えして、それが生きているように見えるだけだよ。"哲学的ゾンビ"――ううん、それにすらなれない、人を完全に真似することすら出来ない
言葉が浮かばなかった。
彼女にかける言葉が、何も。
「お兄ちゃんが話している夢衣も、ただのものなんだよ。お兄ちゃんが持ってるスマホに入ってる、音声でサポートしてくれる秘書アプリと一緒」
哲学的ゾンビ、その出来損ない。
夢衣は感情の存在しない化物で、だから人の心も分からない。
違う。そもそも魂が存在しないんだ。模倣するだけで、そこにはなにも無いんだ。
じゃあ何か、僕は今まで死んだ妹の様に受け答えする人形と話をしていたってことになるのか?
人形に向って喜んで、一緒に笑って、一緒に過ごしてたっていうのか?
「だからごめんなさい。
時間が止まる。
自分がまるで極寒の地に一人放り出されたような、そんな強烈な寒さと恐怖を覚える。
目の前が閉ざされ、全てが終わってしまったような気持ちだ。
夢衣が中身の無い空虚な存在であるというよりも、僕がまた一人ぼっちになってしまったという事実にもはや思考が追いつかない。
夢衣が死んだ日、あれから僕は確かに孤独だった。
だがそこには
叶ちゃんがいてくれて、心配しながら時々様子を見たり声をかけてくれたりしたからこそ、なんとか毎日を過ごす事ができた。
けどそれが失われた。
目の前の妹も、中身の存在しない虚無だと言ってくる。
僕にはもう何もない。
「私にも悲しいって感情があったのなら。ここで
その答えは僕が聞きたい。
夢衣に感情があればどんな反応をしたのだろうか? 叶ちゃんの為に、泣いてくれただろうか?
「叶さんが優しい人ってことは分かるんだ。お世話になったことも。どういう表情をすれば良いかもなんとなく分かる。けど実感だけがないんだよ」
夢衣はガラスの瞳でまっすぐ僕を見つめている。
吸い込まれそうに深いその瞳の先には、虚無だけが広がっているように見えた。
「そんなの、あんまりじゃないか。なんで、なんでこんなことばかり……」
「ねぇお兄ちゃん。言ったよね? 夢衣はバケモノなんだ」
「………」
ビクリと身体が反応した。
彼女が人ではないと言う事実を、改めて思い知らされたからだ。
夢衣は続ける。
それはバケモノの言葉だ。
感情も何も、中身すら無い空っぽの言葉。
けど、
「私は悪夢で、どうしようもないバケモノで、感情なんてものが存在しなくて、人の死にも悲しみを覚えない。そんな、人間の皮を被っただけの出来損ないなんだよ」
「夢衣……」
「私は……私は、ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」
謝罪の言葉が繰り返される。
何度も、何度も。
決して妹が、夢衣が悪いわけではないのに、それでも彼女は繰り返す。
彼女は同じ言葉を、壊れたレコードプレイヤーの様に繰り返した。
「それだけしか言えないんだ。ごめんなさい、お兄ちゃん」
僕は何をしているのだろうか?
ただ、何度も何度も謝る彼女に酷い罪悪感が沸き起こり、同時に自分がとてつもなく愚かしい人間の様に思えてきた。
「いや、僕が悪かった。ごめん」
今度は僕が謝る番だった。いや、本当は最初から僕が謝るべきだったんだ。
夢衣は何も悪く無い。
「夢衣にあたっても仕方なかった」
「お兄ちゃん……」
夢衣が普通とは違うってのは知っていたのに。夢衣は何も悪く無いのに、辛く当たってしまった。叶ちゃんが死んだことによる悲しみを、憤りを、全て彼女にぶつけてしまった。
「夢衣が僕のことを考えてくれていたことはよく分かる。励まそうとしていてくれたことも……。妹に当たるなんて最低の兄だ」
夢衣はずっと僕を案じてくれていた。
僕にかける言葉だって慎重に選んでいてくれたし、僕が叶ちゃんの死に動揺している時も何も言わずにずっと一緒にいてくれた。
本当に謝らないといけないのは、僕の方だ。
「だから、ごめん。辛く当たって、ゴメンな」
感情が無くても夢衣は僕の妹だ。心が無くても、夢衣は僕の妹なんだ。
歪な関係性だとしても、何もない暗闇にただ語りかけるだけの行為だとしても。
僕は妹をひどく扱うことなんて出来ない。
彼女は大切な僕の妹だ。
彼女がなんであれ、それを認めてあげなくて何が兄だろうか?
もしかしたら、それは寂しさを紛らわす為の代償行為かもしれない。
それとも心が壊れて正常な判断ができなくなってしまっていたのかもしれない。
でもそんなことは関係なかった。
僕はあの日から、この覚めない夢に縛られ、とらわれてしまったのだから。
「ありがとう。私に心はないから空っぽな言葉だけど、
――それでもありがとう、お兄ちゃん」
儚く笑う彼女はまるで本当に心が存在しているかのようで、
僕は図らずも己の内に湧いた、微かな希望を捨て去ることを強いられた。
*
キィキィとブランコが揺れる音が公園に響き、遠くからカラスの泣き声が聞こえてくる。
何をするでもなく寄った公園はこの時間にしては不思議な事に無人で、けれどもそれが僕の弱った心と向き合う空間を作り上げていた。
ブランコに座りながら軽く前後に揺れ、叶ちゃんとの懐かしい日々を思いだす。
「
「知ってるよ」
優しい声音で、
僕と同じように隣のブランコに座っている彼女はぼんやりと空を見つめながら、ただしっかりと僕の言葉に耳を傾けてくれている。
「小さい頃はあんまり友達ができなかったからさ、叶ちゃんとばっかり遊んでいてさ。その頃から仲が良かったんだ」
「うん、私もよく遊んでもらった」
「どこに行くのも一緒でさ、お泊り会をやったり、お互いの夕食に呼ばれたり」
「懐かしいね」
「夢衣が小さい頃はよく面倒を見てくれて、なんども助けられて、いつだっけか夢衣が叶ちゃんの妹になりたい、なんて我儘を言って二人を困らせたりして」
「私も覚えてる」
「それで叶ちゃんとは将来一緒に結婚しようね、なんて冗談っぽく言ったりしてさ」
「それは初めて聞いたかな」
ちょっとだけ困った様に眉を潜め、軽く笑う夢衣。
誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。気がつけば、叶ちゃんとの思い出が決壊したダムのように溢れ出してきていた。
「ずっと一緒だったんだ。小さい頃から」
「大切だったんだ、好きだったかもしれない。最後のあの時、言えればよかった」
「また楽しくやれると思っていたのに……なのに、なのに……」
「なんで、なんでこんなことに……」
枯れ果てたはずの涙が再度こぼれ落ちる。
夢衣は僕の言葉をずっと聞いてくれていた。ずっと、ずっと。
……長い時間が経った気がする。
けれども夕日によって浮かんだ遊具の影を見る限り、それほど時間は経っていないみたいだ。
僕の心も落ち着いてきて、同時にこれからどうするべきかという考えが湧いてくる。
このまま帰って、そうして寝てしまおう。
明日も学校はない。あったとしても行く気も無い。
何もかも忘れて、叶ちゃんと夢衣との思い出だけを抱いて、ずっと眠るんだ。
すでに涙は枯れ、あとも残っていない。
帰ろう。その言葉を夢衣に向ける。
「お兄ちゃん。聞いて欲しいんだ」
だが彼女の表情は真剣みを帯びていた。
その様子だけで、僕はまだ全てが終わってないことを理解させられる。
「言おうかどうか迷ったんだけど……」
「隠し事は無しだ。大丈夫、別にそれで夢衣を責めたりは絶対にしないよ」
明らかにホッとした表情の彼女に、僕がどれだけ妹を苦しめていたかを理解する。
あれほど仲が良かったのに、今では彼女を悲しませてばかりだ。
これでは兄失格だと己を叱咤し、彼女の話に耳を傾ける。
「本当はあの時言うべきだったんだけど、叶さんのパーツが足りなかったんだ」
「パーツが足りなかった?」
「内臓や骨、筋肉。けれども叶さんの上半身。特に頭部に関するパーツが無かったんだ」
思い出したくない記憶がよみがえる。
血で染まった部屋。散らばる肉片、むせ返る臓物の匂い。
けれどもあそこで見た光景が叶ちゃんの全てじゃなかったとしたら……。
「えっと、それはどういう意味なんだ?」
僕はすでに気がついていたのかもしれない。
だが夢衣から説明して欲しかった。
そうでもしないと、どうにかなってしまいそうだったから。
「『
スッと心が冷える気がした。憎悪が全身を支配してゆく。
大切な人を冒涜されて、世界を呪うほどの怒りが沸き起こる。
「なんでそんなことをするんだ? 叶ちゃんである意味は?」
「分からない。けどお兄ちゃんには説明したかな? 悪夢はそれぞれ特徴的な能力を持ってるんだ。『芸術作品』の能力が芸術品を作ることだとしたら、そこに何か関係があるのかも?」
夢衣も『芸術作品』の全てを知っている訳ではない。
そもそもが別種の存在だ。だからなんの為にと聞くことは愚かしい質問だったかもしれない。
もっと重要なことがある。
僕は叶ちゃんをこのままにしておくことが出来ない。
無念の内に果てた彼女に、生きている僕がしてやれることなんて、それ位しかない。
「夢衣……」
「うん、分かってるよお兄ちゃん。取り戻そう。叶さんは死んだけど、叶さんは取り戻さなくちゃいけない。私には分からないけど、叶さんの為にそうしよう」
「ああ、そうだな。叶ちゃんの為に、そうしよう」
僕の胸中を荒々しい炎が渦巻く。
それは怒りだ。僕の人生を壊し、大切な人を奪い、それでいてなおその尊厳を侮辱しようとしている『芸術作品』に対する。
だが心の奥底にある冷静な部分がその怒りを堰き止めている。
すなわち一時の怒りに任せて致命的な危険を冒すことを危惧する心だ。
もっとも、この場で『芸術作品』に立ち向かう決意をしている時点ですでに僕は自分の命など度外視していることに間違いはなかったが。
「けど夢衣、一つ約束してくれ。危なくなったらすぐに逃げよう。僕らじゃ奴に太刀打ち出来ない」
それだけを約束する。叶ちゃんの尊厳を守りたいが、けど僕らは生きている。
無様に亡骸を晒すつもりは毛頭ない。それでは、叶ちゃん合わせる顔がない。
「ふふふ、ありがとうお兄ちゃん。でも肝心なことを忘れているよ?」
夢衣がピョンとブランコから飛び降り、僕の目の前へとやってくる。
クスクスと嗤いながら、ゾッとするような瞳で僕を見つめ、手を差し伸べてきた。
「――夢衣だって、バケモノなんだよ?」
自らをバケモノと認めた妹の言葉は重く、だがこの場に置いて何よりも頼もしい。
僕はもう戻れないところまで来ている。
きっとこの先には地獄しか存在しないだろう。
でも僕は進まなければならない。そうしなければ、奪い去られた過去の清算をしなければ、僕は僕で無くなってしまうから。
妹の手は、彼女がバケモノであることを忘れてしまう位に優しく、何より温かかった。
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