Art work Ⅱ ― Tragedy ―
「お兄ちゃん、私からあんまり離れないでね」
「あ、ああ……」
転がる様に自宅から出る。
すぐに
涙が溢れるのを必死に堪えていると、遅れて夢衣がやってくる。
妹を待つ時間すら惜しい。今は一刻もはやく叶ちゃんの所に行ってやりたかった。
「
「こっちだ――いや、違う。そっちじゃない」
「正解。ちゃんと私の影響力が出ているようでよかったよ」
くそ! くそくそくそくそ!!
なんで叶ちゃんの家の場所が歪んでるんだよ! なんで僕の知る場所が、まったく違う場所に書き換えられてるんだよ。
なんでそんなことをする必要があるんだよ!
何度も何度も、自分の中で勝手知ったるはずの叶ちゃんの家への道を思い浮かべながら、彼女が待つ家へと走る。
「スマホ操作しながらだとコケちゃうよ?」
妹の言葉に応える余裕は今の僕にはなかった。
普段することの無い全力を出しながら走り、繰り返しスマートフォンで叶ちゃんの番号へかけ直す。
もはやそれは狂気的なまでになっており、僕の涙と汗で画面は文字がボヤケるほど滲んでいた。何度も通話ボタンを押し、狂ったように耳につける。
呼び出し音は鳴り続けている。
「……手、握るね」
スマートフォンに集中している為、ふらふらと走る僕の手が温かいものに包まれる。
それがようやく気を利かせた
――繋がった!
「もしもし……」
「
慌てて意識を切り替え、うわずった声で彼女に喋りかける。
通話口から聞こえた声は確かに叶ちゃんのものだった。ずっと聞いていた、僕の幼馴染みの声。
それは、僕が心から望んでいた声で、
「ぐすっ、ごめんね。
僕が、心から望まぬものだった。
画面越しの叶ちゃんは涙を堪えるように嗚咽を繰り返しながら、僕に対する謝罪の言葉を繰り返している。
その声に思わず立ち止まり、ただ荒れる息だけを吐く。
彼女の背後からは何かが潰れる音や、爆ぜる音、ピチャピチャと液体が蠢く水音が連なって鳴り響いている。
それは、何処かで聞いた音で、どこまでも死を予感させるものだ。
「私、
衝撃で頭が揺さぶられた様な感覚に陥る。
身体の震えを抑えず彼女の言葉を何度も頭の中で繰り返す。
何か声をかけようとする気持ちだけが空回りし、結果彼女の言葉に一言も返すことなくただ呆然とその言葉を聞いていた。
「最後に
その言葉は、全ての終わりを予感させ、もう二度と彼女に会えないという事実だけを無情に伝えてこようとする。
そう、これで、終わり。
「――
何か言わなくちゃ!
もう最期なんだ!
嫌だ、最後なんて!
どうして僕が!
そんなことしている場合か!?
いいから伝えろ!
「
ブツリ。
「叶ちゃん? 叶ちゃん! ああ、うああああ!!」
心からの叫びは何処までも虚しく響く。
スマートフォンから流れるツーツーという音が、全ての終わりを物語っていた。
それは決定的な別れで、二度と彼女と出会えないであろうことを否応なしに突きつけている。
心にポッカリと大きな穴が空いた錯覚に陥った。
体中から血の気が失せ、代わりに絶望が空虚な身体を満たす。
「お兄ちゃん。急ごう……」
妹が告げたその言葉にどのような感情が込められていたのか、僕には判断できない。
ただ壊れた人形の様に、僕は彼女の言葉に頷くことしか出来なかった。
*
「鍵がかかってるみたい」
見知った叶ちゃんの自宅の玄関で、夢衣は扉に手をかけながらその一言を発した。
叶ちゃんの家は一般的な一軒家だ。
普通のサラリーマン家庭が購入する、何処にでもある住宅。
平凡な平和の象徴が、今は恐ろしい恐怖と不気味さを有し、何よりも不安に感じられる。
「くそっ! 何処かに鍵があるはずなんだけど……」
叶ちゃんと僕は小さい頃からの幼馴染みで、よくこの家にもお邪魔している。
とは言え流石に鍵の場所まで知っているほどではない。
今は少しでも早く叶ちゃんに会いたいのに、その僅かな時間がもどかしかった。
だが唐突に、バキリと金属がへしゃげる鈍い音が鳴り、覗き込んだ植木鉢の底から顔を上げてそちらへと視線を向ける。
「開いたよ。行こう」
ドアノブだろうか? 歪んだ棒きれを放り投げながら、夢衣は平然と扉に手をかける。
唖然とする僕を尻目に、彼女は割れたドアの鍵口から手を差し込むと、無造作に引っ張っている。
鍵が根本ごと無くなったドアは、今度ばかりはやけに素直に開いた。
「お邪魔します……誰かいませんか?」
ギィと開いた扉の先を覗く、明かりは暗く、人の気配は残念ながら感じない。
「あー……」
夢衣が何かを察したように声を漏らしたが、僕は敢えてそれを無視する。
恐ろしかったからだ。どうしたの? と聞いて、答えを聞くのが。
靴を脱ぎ、薄暗い廊下を進む。
叶ちゃんのご両親とは顔なじみで、小さい頃は叶ちゃんのお婿さんは僕で決まりだ! なんて冗談めかして言ってくれた位には良く知っている人たちだ。
だからこの場でばったりと出会っても事情を説明すれば不審がられることはないだろう。
それよりも彼ら含めて誰の気配もしない事が恐ろしい。
途中電灯のスイッチをつけようとしたが、何故か反応しなかった。
あれ? と思いつつも、僕はその理由を考えることを放棄する。
ギィと床板が軋む。
木が歪んで音を鳴らしただけなのに、それはまるで化け物が囁く声のように聞こえてしまう。
「――うっ!」
目線の先、一階の奥。キッチンがあるだろう場所の入り口。
ガラス扉の前。
大量の赤い液体が、ぶち撒けられていた。
「血……か?」
「人の血だね」
なんのことはないと言った様子で、夢衣が答える。
強く目を瞑り、気がつけば叫び逃げ出しそうになる己の弱い心に鞭を打つ。
むわっとした生臭い匂いが途端にここまで流れてきた。
吐きそうになる気持ちを無理やり抑えながら、閉じた目を開く。
「行こう、お兄ちゃん」
「……ああ」
ギィ、ギィ、と悲鳴の様に軋む床を踏み進み、ガラス戸の前で立ち止まる。
冷たい液体の感触が靴下を通して足先を包み込んだが、僕はそれを考えないことにした。
扉を開く。
「――うっ!」
歪なオブジェクトだった。
むせ返るような血の匂い。生臭く、臓腑と排泄物が掻き混ざった醜悪な臭気を放っている。
肉団子という表現が正しいだろう。
一瞬、海水浴場でよく見るビーチボールを思い出した。
大きさがそれ位だったのだ。大きさだけは。
ご丁寧にキッチンテーブルの上に載せられたそれは、どこから発しているのか絶えず僅かな血液を漏らしながら、時折びくり、びくりと脈動している。
箸や茶碗、包丁、その他の雑多な調理用器具さえも取り込んで作られた肉塊は、おおよそこの世のものとは思えない異形さを持っており、近づくことは愚か見ることすら憚れるような、そんな禁忌の雰囲気が感じ取られた。
「な、なんだよこれ! こんな、ありえないだろう!」
思わず直視してしまった顔を背けて入り口の壁に手をつく、同時にこみ上げてくる吐き気を無理やり押さえつける。
夢衣はこのショッキングな光景にさほど心を動かした様子もなく、冷静に肉塊に近寄っていく。僕に止める余裕など何処にもない。
「いわゆるこれが死体を使った作品って奴なのかな? 確かにこんなの見せられたら警察も及び腰になっちゃうよね」
なるべく肉塊を直視しないように夢衣を追う。妹はじぃっと、まるで研究対象を観察するかのように周囲をグルっと回って肉団子を眺めている。
やがて妹は唐突に、本当に唐突にその塊へと手を突っ込んだ。
びちゃびちゃとハンバーグを捏ねる時に似た、それよりももっと瑞々しい音がキッチンを満たし、自然と胃液がこみ上げてくる。
混乱と彼女の意図が掴めず、僕はその光景を何か別世界の物の様にただ眺めていた。
何が起こるのか? という疑問が僅かながらにもあったのかもしれない。
やがて夢衣によってズルリと不気味な音をたてながら抜き出されたそれは、成人男性の腕と思わしき物体だった。
「おじさんとおばさんだけかな? 血の量が一人分じゃないし、分量的にも大人二人分」
腕の切断面を眺めながら、なんでもないというふうに言ってのける夢衣。
何を考えてか、僕にもよく見えるように腕を差し出してきた。
先程から決して直視しようとはしなかったそれを思わず見た瞬間、優しかった叶ちゃんのおじさんを思い出し、慌てて顔を背け喉元までせり上がった吐き気を抑える。
「おっとごめん。デリカシーが無かった?」
目を逸らした視界の端で、夢衣がまるでちり紙をゴミ箱に放り投げるかのように腕を投げ捨てたのが見えた。
肘から切断された腕がフローリングの床にぶつかり、びちゃりと音が鳴る。
にわかには信じがたい光景だった。非現実的で、非人間的過ぎた。
夢衣だって叶ちゃんの両親とは交流があったはずだ、彼女が妹を模した悪夢だとしてもその記憶は存在している。
以前、彼女は確かに言ったはずだ。
自分は妹ではないが、同時に僕の妹でもある――と。
だがこれではあんまりじゃないか、こんなのあんまり過ぎる。
僕は彼女が人間の倫理観と大きくかけ離れていることを再度認識させられた。
だがそのことに関して何か具体的な行動を起こす余裕は無い。
その前に確かめないといけない。
大切なことを。ここに来た目的を。
「か、
「二階にある
「やめろ! 叶ちゃんは大丈夫だ。きっと、そんなはずがあるもんか。僕の助けをきっと待っているはずだ。だから、行かないと……」
「そう。分かった。お兄ちゃんがそういうのなら夢衣は何も言わないよ」
僕の言葉は果たして誰に向けたものだったのだろうか?
本当は夢衣に向けたものじゃなく、僕がそう思い込みたかっただけじゃないのだろうか?
叶ちゃんが無事だと、まだ僕の助けを待っていると、そう信じたかっただけじゃないのか?
だが現実は残酷だ。
世界には、奇跡や希望なんてどこにもありはしない。
ただ深い闇と絶望だけが、哀れな獲物を飲み込もうと大きく口を開けているだけだ。
*
この結末は、きっと心の何処かで覚悟していたものだと思う。
その光景を見た瞬間、スッと何か納得めいた物を感じてしまった。
あの時すでに叶ちゃんは絶望的な状況で、最後の力を振り絞って僕に電話をかけてきてくれたんだ。
だからそれで終わり。
僕と叶ちゃんは二度と会ううことはなく、そのまま永遠の別れを告げるだけ。
その光景を見た瞬間、漠然とそう納得してしまった。
初めからこうなる予感がしていたんだ。
でも、信じたくなかったんだ。
大切な幼馴染み、あれほど長い時を一緒に過ごした彼女が、
叶ちゃんがこんな目に遭うだなんて。
「ああ、ああああ!!」
その時見た光景を、僕は一生忘れないだろう。
赤、赤、赤、赤。
まるで子供がおもちゃを思う存分に散らかした様なその惨状は、凄惨などという言葉で表現するには生易しいほどのものだった。
白の壁紙は赤く塗りつぶされている。掃除のいき届いた部屋は天上まで血が飛び散り、ポタポタとまるで雨漏りの様に滴り落ちてきていた。
可愛らしい人形や小物のアクセサリーで溢れていたはずの室内には、臓物による装飾が施され、丁寧に細かく寸断された肉片はもはやそれが身体のどの部分だったかも分からないほど。
「ああ、どうして、どうしてこんな! なんで!」
おぼつかない足取りで室内に入り、膝をつく。
びちゃりと溜まった血が飛び散り、視界いっぱいに床に散りばめられた肉片が映り込む。
記憶の中で笑う彼女が、こんな物に成り果ててしまったなんて、理解していも感情が追いつかない。
「お兄ちゃん、血で服が汚れちゃうよ?」
返事をする気も起きなかった。
一気に体中の力が抜け、上手く姿勢を保つことすらできなくなる。
前のめりになる身体をとっさに両手で支え、震えながら赤のみで構成されたその光景を視界に収める。
これが、これが全部
あの穏やかでどこか気が抜けていて、それでいて人一倍優しくて、
その叶ちゃんがこんなふうになってしまったんだ。
気がつけば、床を濡らす血と肉を集めるようにかき寄せていた。
今でも彼女が笑ってくれている気がしたんだ。
これが叶ちゃんの成れの果てだなんて、到底信じられることではなかった。
「嘘だ、嘘だこんなの。だってさっきも話したじゃんか。それで、これからも……。やっと幸せな毎日が戻ってくると思ったのに。また三人で仲良く過ごせると思ったのに!」
僕が何をしたのだろうか?
ここまで不幸な目に遭う必要があるのだろうか?
ふと僕の背後にいる、困惑気味の夢衣について思い出した。
「そ、そうだ。夢衣! お前、
振り返り、なりふり構わず妹に縋る。
彼女の白い服が僕を通じて血に染まり、赤となった。
悪夢はバケモノだ。人智を超える存在だ。
現実に干渉できる彼女なら、叶を生き返らせてくれることも可能じゃないのか?
周りの現実を書き換えたように、この忌まわしい光景も書き換えてくれるんじゃないか?
「大丈夫だよ、任せてお兄ちゃん」と微笑んでくれるのではないか?
そんな可能性にかけた。
「お兄ちゃん。本当にごめんなさい……」
ああ、やめてくれ。
そんなこと言わないでくれ。
お願いだから、大丈夫と、叶ちゃんは生き返ると、そう言ってくれ……。
「死んだ人は、どうやっても生き返らないんだ。
――
死という言葉が持つ重み、二度と彼女と会うことが出来ないという事実が僕の心をナイフで切り裂き、精神をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
我慢してきた胃液が再度喉元までこみ上げ、吐き出そうという自分と、叶ちゃんを汚すわけにはいかないという自分との間でせめぎあう。
「気持ち悪かったら吐いちゃえば?」
「気持ち悪くなんか……ない」
そう、気持ち悪くなんかないんだ。
これっぽっちも、気持ち悪くなんて無い。
これは
血と臓物と肉片になったとしても、もう彼女の面影すら感じられないほどにバラバラになったとしても、それで僕の幼馴染みで、大切な人だ。
「ねぇお兄ちゃん。気がついたんだけど」
涙が止めどなく溢れ、声にならない弱々しい悲鳴が漏れる。
叶ちゃんと過ごした日々が繰り返し思い出され、何気ない日常の会話でさえかけがえのない尊いものだったと理解する。
それら全てがあっけなく失われてしまった事実を認め、言い表しようのない後悔に苛まれた。
「ええっと、その……」
夢衣は終始何かを言いたそうな雰囲気だったが、今の僕にはそれに答える余裕などない。
僕はただ、これから永遠に続くであろう絶望に、どのように向き合っていくかだけを考えていた
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