Art work Ⅰ ― Transiency ―



       


 結局先ほどの話は、今度妹をデートに連れて行くということで無理やり終わらせた。

 痛い出費になるだろうことは確実だが、それでも妹の猛攻をしのげたことに今は祝杯を挙げたい。僕は飲める年齢ではないけれど。


 さて、閑話休題と言ったところだろうか?


 僕と妹の関係は至極健全で、そしてお互いが家族愛に満ち溢れていることは先ほどのやり取りで十分すぎるほど証明できた。

 次はもっと嫌な話題だ。語ることすら拒絶したいが、けれどもしっかりと把握して置かなければいけない話題。


「話を蒸し返して悪いんだけど『芸術作品アートワーク』の目的はわからないんだよな? 僕たちが助かった理由も」

「うーん。同族がいたから遠慮したとか? そもそも仲間って概念があるかも疑わしい存在だからにわかには信じられないね。と言うか仲間なの?」


 先程自分で巫山戯てはだけたパジャマのボタンを僕に閉じさせながら、夢衣は曖昧な表現で答えた。

 仲間かどうかなんて僕に聞かれても分かるはずがない。

 だが僕が思っている以上に〝悪夢ナイトメア〟という存在は関連性が薄いらしい。

 いまいちはっきりと分からないが、今はそういうものだと理解しておこう。


「とりあえずは助かっただけでもありがたいと思わないとな。もうあんな経験は嫌だし」

「私もだよ。私はお兄ちゃんさえ居ればいいのに。世の中理不尽だね」


 まったくだ。

 何処までも世の中は理不尽だ。

 僕はこのままで本当に幸せだったのに、それでも世界は僕に悲劇を求めてくる。

 いや……喜劇か? どちらにしろ、理不尽なことに代わりはない。


「『芸術作品アートワーク』の行為を止めることってできるのか? 話を聞くだけでもなんだか厄介な存在に思えてくるんだけど」

「無理なんじゃない? 私もそこまでは分からないし、そこまで研究されていないみたい」


 なるほどなぁ、ため息を吐く。

 僕らに出来ることはじっと身を潜めて被害に遭わないよう祈ることくらいか? まるで嵐が過ぎ去るのを待つように。

 もっとも相手は気まぐれで、いつ去ってくるとも分からない。去らないかもしれない。

 聞けば聞くほど、自分たちが置かれた状況が危険なものだと理解させられる。

 いつの間にか夢衣が用意してくれているジュースを軽く飲み、乾いた唇を湿らす。

 オレンジの清涼感ある甘さが喉を通って胃に落ちてゆき、疲れた心に癒やしをもたらす。


 ――あれ? 今の言葉、おかしくないか?

 不意な違和感は、何かとてつもなく重要な要素を持っている気がした。


「なぁ夢衣ゆい。それって何処かで聞いたのか?」

「え?」


 ぽかんとした表情は取り繕ったものではなく、自分が言った言葉の異常に気がついていない様子だった。


「だってさ、さっきから誰かに聞いたような口ぶりだったし、それに急にいろいろ教えてくれただろ?」


 違和感の正体がこれだ。

 妹は今まで〝悪夢ナイトメア〟のことなど教えてくれなかった。

 そこに何か理由があったとしても、急に今になって僕に伝えてくれる理由は見当たらない。

 もちろんそれだけじゃ少し不十分だ。だが僕が一番不思議に感じたのが……、


「それにその話、だれから聞いたんだ?」


 夢衣ゆいは言った。「〝悪夢ナイトメア〟と呼ばれている」と。

 まるですでに決定していることを誰かから伝え聞いたような表現だ。

 それだけじゃない。悪夢という表現は誰が言い出した? 誰が決めたんだ?

 先程まで朗らかとしていた夢衣の表情がだんだんと怪訝なものになっていく。

 それは自分の発言がひどく矛盾をはらんでいることに気がついたものだ。


「あれ? なんでだろ? 私はお兄ちゃんに聞かれたらなんでもホイホイ答える子だったはずなのに……。さっきの話も……」

「仲良くなったから……とか?」

「私とお兄ちゃんの間には最初から仲良さしかないよ」


 確かにそれは無いだろう。

 夢衣の言うとおり僕と彼女は仲良しだ。彼女が妹を模した〝悪夢ナイトメア〟だとしても、そこに間違いは絶対にありえない。

 彼女が自分の出自を隠したかったから言わなかったとも考えられるが、それならば僕と一緒この事態に混乱するはずはない。

 つまりだ。

 僕の予想が正しければ。

 世界が――。


「……そう、そういうことなんだ」

「……?」


 その言葉はひどく静かで底冷えするものだった。

 この様な妹の豹変は何度か目にしているが、ここまで違和感を覚えることは今まで無かったと記憶している。

 まるで彼女を通じてどこか法則さえ違う狂気の世界に繋がっているような、

 そんな不気味な忍び寄る恐怖を感じる。


「お兄ちゃん。大切だと思う友達に連絡取ってみて、今すぐに」


 空虚な瞳で、夢衣はテーブルの上に置いてあった僕のスマートフォンを指差した。

 妹の部屋に持ってきた覚えは無いが、いつの間にかそこにある。

 気にはなったが、それよりも有無を言わせぬ夢衣の仕草に文句を言う欠片など微塵も起きず、僕は自らのスマートフォンを取ってみせた。


「今までそうじゃなかったのに、なんでこんなにいろんな情報を知っているのか少し考えていたんだ」


 滔々とうとうと語る。

 その姿に思わず身構えてしまう。

 彼女への恐怖じゃない。これから語られる言葉が、何か僕らの生活に致命的な影響をおよぼすのではないのだろうか?

 そういった恐怖だ。


「あの時『芸術作品アートワーク』は逃げたり諦めたりした訳じゃなかったんだ。別の目的ができたから敢えて引いたんだ」


 彼女の言葉に釘付けになる。

 何言ってるんだ。少し考えてみればそうだろう?

 簡単に行き着く――けれども先程まで完全に抜け落ちていた事柄にようやく気づいてしまい、カタカタと手が震え出す。手に持ったスマートフォンを落としそうになり、慌てて掴み直さなければいけない程だ。


「お兄ちゃん。〝悪夢ナイトメア〟は目的の為に世界を改変できるって言ったよね? 夢衣もそれを自分でしっかりと認識している訳じゃないんだ」

「えっと、ああ……」

「それでもしもだよ。夢衣の、夢衣とお兄ちゃんの目的に邪魔な存在が現れたとしたら?」


 夢衣の願いは僕と一緒に暮らすことだ。

 悪夢である彼女の力が目的の為に最大限発揮されるとしたら……。

 世界はその外敵を排除する為に改変される。

 それは例えば、真実を知ること、情報を得ること、


 正常な危機意識を持つこと。


「マズイ、本当にマズイ。普通考えられるはずなのに。なんで安堵したんだろ? いや、させられたのか。予想以上に賢い」


 途端に恐怖が沸き起こってくる。

 こんな簡単なこと、なんで気が付かなかったんだ?

 なんで安堵してしまった。家が無事だなんていつから思っていた?

 助かったなんて、何を根拠に判断したんだ?

 あの時の恐怖が再度やってき、僕を暗い闇の底へと突き落とす。

 カタカタと歯が重なりあい、呼吸と鼓動が荒くなった。


「ゆ、夢衣……」



「嘗めていた」



 ゾッとする声だった。

 まるで夢衣を通じて恐ろしい何かが喋っているような、そんな感覚さえしてくる。

 ああ、認めよう。

 僕らは完全に騙されていたんだ。今日の茶番の様なやりとりも全て相手の思うつぼで、本当はすでに相手の巣穴に迷い込む哀れな獲物だったということだ。

 ここに至って確信した。

 恐怖はまだ終わっていない。

 いつの間にか日は落ちかけ、朱い日の光が窓より差し込んでくる。

 まるで血に染まったようだ。

 唐突に、そんな感想が浮かんだ。


「電話、急いで」

「あ、ああ、分かった」


 彼女に急かされて、慌ててスマートフォンの画面に目を向ける。

 震える指先で画面をタップ、スライドし、見知った名前を検索する。

 今まで友人が少ないことを感謝したことなど一度もないが、生まれて初めて知り合いが少ないということに心から感謝する。



 ――夢丘ゆめおか かなえ


「あっ、暁人あーくんどうしたの? 私もちょうど電話しようと思っていたんだ。ん? どうしたの、そんなに慌てて。私は逃げませんよ~」


 かなちゃんはいつもどおりだった。

 昨日も聞いたはずなのに、やけにその言葉に安堵する。

 同時にどっと疲れが押し寄せてくる。一番心配していたかなちゃんが無事と分かり、一気に気が抜けた気分だった。

 軽くありきたりな会話を繋げ、またねと通話を切る。




 ――熊谷くまがい 圭太郎けいたろう


「おっす梔無くちなし! ちゃんと夢衣ゆいちゃんの代わりに犠牲になったか?」


 熊谷くまがいは相変わらずだ。

 どこから聞きつけたのか、昨日の出来事を知っており、いつもの様に僕と妹の関係性をからかって来る。

 あんな出来事の後だから流石に勘弁願いたかったが、それがコイツの良い所でもあるのでまぁ許そう。

 僕と一緒にゲーセンで遊んだことがどれだけ楽しかったかを一方的に語られ、通話を切る。



 ――高市たかいち 祐介ゆうすけ


「やぁ梔無くちなしくん。なんだか大変なことになったね。校舎から飛び降りようとしたみたいだけど、大丈夫だったかい?」


 高市たかいちは流石だ。友人である僕の身を案じてくれている。

 察しの良い彼は、僕が友人の安否確認をしていることを電話口からでも感じ取ってくれたらしい。まったく彼には敵わない。小遣いは少ないが、今度ハンバーガーでもおごってやろう。

 大変だろうけど頑張れと何度も励まされ、通話を切る。




 ――繰崎くりさき 橙百合とうゆり

 電話は、繋がらなかった。




「お兄ちゃん。どうだった?」


 知る限り全員、電話での確認が終わった。

 通話の繋がらない委員長のことを思いだす。

 僕らはあの日、放課後別れるまで一緒に会話をしていた。

 その後にかなちゃんと夢衣ゆいが来て、先生が来て、そして『芸術作品アートワーク』に襲われることになったのだが、それまで委員長と話をしてたんだ。

 そういえばあれから僕は一度も彼女の安否を確認していない。

 てっきり両親に迎えられて学校から帰ったと思っていたんだが。


「委員長――繰崎くりさきさんに連絡がつかないんだ……」

「繰崎? 誰?」


 そういえば夢衣は知らなかったな。妹には一度も委員長のことを話した記憶が無いことを思いだす。


「ああ、夢衣ゆいは知らなかったな。僕のクラスで委員長やってる女の子でさ、ちょうど夢衣たちが来る前に少し話をしていたんだ。それでもしかしたら彼女も狙われたのかもしれない」


 震えが止まらない。

 あの時見た委員長の不安げな表情が思い起こされる。委員長とはそこまで仲が良いという感じでもないが、それでも会話をする程度の関係性ではある。

 特に情報収集をしていた昼休憩の時には大層世話になった。

 そういった点でも委員長には感謝していたのだが。

 もしあの時僕が彼女を急かしてでも早く帰ろうとしていれば。

 後悔が途端に押し寄せ、不安が胸中を占める。

 けれども、夢衣の反応はまた別だった。


「お兄ちゃん、スマホ貸して」

「え? なんで――おいっ!」


 妹は僕からスマートフォンを奪い取り、


「お兄ちゃんさっき電話していたよね。かなえさんと、仲の良いクラスメイト全員と、でも繋がらなかった様子なんて無かった」


 有無を言わさぬ様子で何やら操作し始める。

 ……まて、今なんて言った?


「ねぇ、お兄ちゃん。繰崎くりさきさんのスマホのアドレスはいつ交換したの?」

「いや、いつだっけ?」

「じゃあどういう経緯で交換したの? メールは良くする? 電話は?」


 矢継ぎ早に質問され、困惑する。

 なんでそんなことを聞くんだ? そんなの当たり前じゃないか。

 えっと、それは……。


 ――あれ?


「いや、そんなの、ちょっとど忘れして……ってかなんだよいきなり」

「何処にも無いよ。何処にも」


 彼女が僕にみせた電話帳のアドレスには、確かにあったはずの繰崎くりさきの名前が、どこにも表示されていなかった。


「ねぇ、繰崎くりさきさんって委員長なんだよね。うちの学校、クラスの委員長なんて無いから委員会の委員長なんだよね。何の委員長なの?」

「……」


 記憶に無い。ポッカリと空いており、初めから存在しなかったような気分だ。

 僕はポカンとした表情をしていただろう、逆に答えを求めるように夢衣に顔を向け弱々しく左右に振る。

 夢衣はとても険しい表情をしていた。やがて混乱する頭にトドメを刺すかのように一言。



「ねぇ、お兄ちゃん。

   ――繰崎くりさきさんってなの?」



 それは……誰だ?

 繰崎くりさき 橙百合とうゆりとは誰のことなんだ?

 不意に頭が明瞭になり、霞がかかった意識が覚醒する。

 すると様々な違和感が怒涛のように押し寄せてきて、今まで気が付きもしなかった恐ろしい事実を否応なしに突き付けてくる。


 断言しよう。

 委員長――繰崎くりさき 橙百合とうゆりは突然現れた。あの日、殺人鬼の噂と共に、突然。


「お兄ちゃん、今すぐかなえさんの家に行くよ。準備して」

「え? なんで……」


 突然立ち上がり、タンスから着替えを取り出した妹に慌てて尋ねる。

 何故かなちゃんの家なんだ? それに今外に出るのは危険じゃないか?

 様々な憶測が思考の表面に浮上し、沈んでいく。


「凄く嫌な予感がする。本当に、本当に嫌な予感」


 その言葉に痛いほど心臓が鼓動した。

 決して認めたくない、目を背けていた不安を改めて認めさせられたからだ。


「私が考えている以上に近くに居たんだ。もう何が起こってもおかしくない。一緒にいたかなえさんが危ない」

「でも、僕が狙われているんじゃ……」


 可能性から言えば、僕が狙われているはずだ。

 悪夢『芸術作品アートワーク』にどのような目的があるかは不明だが、ソレが繰崎くりさきの姿を象っていたとしたのなら、あの惨劇の前に一番長く会話をしたのは僕だ。

 あの時語った言葉が彼女を突き動かすトリガーになったと考えるのが一番納得がいく。


「言ったでしょ? 悪夢の行動に特に理由はないんだよ」


 夢衣は僕に見られていることも気にせず、その場で下着姿になり手早く着替えている。

 普段なら注意の一つでもするだろうし、さすがの彼女も部屋から出るように僕に伝えるのでが、今はそんな余裕は微塵も無い。

 特に僕の方が一杯一杯で、今までの出来事を頭の中で整理し、理解するのに必死だった。


「それに、どう考えてもおかしいじゃない。ここからでも声、漏れてたよ?」

「え? 何がだよ」


 ギュッと、全身を棒で打ち据えられた様な感覚に襲われる。

 その口ぶりから、何か僕が気が付かない恐ろしい見落としがあると言外に夢衣が言っていることが理解できた。


「今は多分私の影響下にあるはずだし……単純に気が付かなかっただけなんだね。もう、しっかりしてよ」

「な、何が……?」



「昨日の今日で、なんで叶さんがあんなに平然としているの?」



 走馬灯のようにかなちゃんとのやり取りがリフレインされる。

 昨日のあの日、あれほど泣きじゃくっていた叶ちゃん。それが、あんなにも、元気な理由は……。


「す、少しだけまってくれ」


 夢衣によってテーブルの上に置かれていたスマホを再度つかみとり、慌てて叶ちゃんのアドレスを開き通話ボタンを押す。

 震える手で耳に宛て、何度も何度も繰り返し鳴る呼び出し音に祈りを捧げる。

 お願いだ、出てくれ。

 そんなのあんまりだ、きっと気のせいだ。勘違いだ……。

 せっかくまた楽しく三人で過ごせると思ったのに。


 祈りは届かない。


 悲劇の可能性を必死に拒絶し、無事だけを望んで彼女への繋がりを手繰り寄せようと何度も呼び出しを繰り返す。

 だが先程は簡単に繋がった通話はいつまでたっても呼び出し音がなるばかりで、あれほど一緒に居たはずの彼女の声を聞くことは出来なかった。

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