追憶夢
夢を見た。
幼い頃の夢。
煉瓦作りの建物が並ぶ迷路のような街。
僕が生まれた街だ。
僕はその迷路のような街のどこに何があるかを知っていて、いつものように歩いていく。
ときに人二人並ぶのがやっとの細い道を通り、ときに水路を跨ぐ石橋を渡る。
たどり着いたのは一軒の工房。
何枚もの紙が板に張り付けられ、白く陽光を反射している。
そしてその向こう。エプロン姿の一人の男が、木枠を振るっていた。
父だ。
こちらには気付かず、どぷん、しゃらりしゃらりと水音をさせて、魔術のように紙を仕上げていく。
どぷん、しゃらりしゃらり。
どぷん、しゃらりしゃらり。
この音が、僕にとっての「父の音」だった。
紙は、木材を煮出して磨り潰し、漂白したものを
次第に手
背後からコツコツと足音が聞こえる。
振り返ると、白衣を着た眼光鋭い中年の男。マスター・マルーネイだ。
彼は僕を
しばらく父の近くには行かない方がよさそうだ。
工房の中に何か面白いものはないかと見て回る。木枠、木を煮出すための窯、出荷用にまとめられた紙束。いつも通りだ。特に目をひくものはなく、工房を後にする。
再び細い路地。
普段ならばすれ違う人もいるはずのその道には、誰の姿も見えない。
遠くに響く、狂ったように鳴く犬の声。足音。そして息遣い。
その音が、次第に近づいてくるように感じる。
何かが変だ。
怖い。
一歩後ずさり、様子をうかがう。
父達の方へ引き返そう。
そのとき、そいつは姿を現した。
目を見開き、牙を剥いた大型犬。強い苛立ちの感情が見て取れ、即座に危険だとわかる。
走った。
短い手足で懸命に。
父とマスター・マルーネイがこちらに駆け出す。
あそこにさえたどり着けば。
走る。
必死に。
とにかく必死に。
けれども、足の速さでは圧倒的に犬に分がある。
犬はこちらの動きを封じるべく、併走すると
咄嗟に近くの柱に腕を絡ませ急ブレーキをかけると、ギリギリで牙を逃れられた。前足で引っかかれた太腿は、傷になっていた。
犬は流れた体勢を瞬時に立て直す。
こちらは静止している。次の一撃はもうすぐだ。
マスター・マルーネイが詠唱を行い手を伸ばすも、犬はそれをかわし、そのまま跳ね上がって僕にのしかかろうとする。
『死』
危険の先の『死』を、強烈に意識した。
目の奥が重たくなり、周囲を流れる時間がゆっくりとなる。
僕は僅かな可能性に縋ろうと左手を伸ばし、何かを掴む。
犬はもう僕にのしかかり、あとは噛み付くだけだった。
右の前足が僕の左目を押さえつける。
生臭い息、瞳孔が開いた目、前足にかかる体重。
“何か! 何かないのか!!”
猛烈な焦燥で全身が焦げそうだ。
その焦燥のまま、右手を犬の鼻っ面に押し当て、何かを絞り出すように力を込めた。
「っ!!」
直後、まるで雷に打たれたように、激しい力が身体を駆け抜ける。
目の前が青白く光った。
肉が焦げたような臭いと、もうもうと立ち込める煙。
何が起こったのかわからない。
静寂。沈黙。
煙が晴れると、そこには炭化した犬の姿があった。
……奇跡だ。
あの状況を覆すものがあるとしたら、奇跡しかありえなかった。
ドサリ。
マスター・マルーネイが膝をつき、肩で息をしている。
僕の左手は、マスター・マルーネイの手を握っていた。
つまり、マスター・マルーネイが僕の身体を介して、魔術を使ったのだろう。
これが……魔法の力……。
初めて目の当たりにする魔法の力に
子供ながらに、『運命に抗える力』というものを感じた瞬間だった。
その奇跡を行使した、マスター・マルーネイに対して、感謝と敬愛の念が涌いてくる。
そして何より、その力に対する憧れ。
「ありがとうございます! 僕に魔法を教えてください!!」
身体の傷に構わず、すぐさまそう言って頭を下げた。
このときのマスター・マルーネイは、憔悴しきっているように見えた。
だけれど、その目だけは
「ああ、父上の許しがあれば」
そう言って同意を得るように父の方を見る。
僕も嘆願するように見る。
左目からは血が流れ、視界は赤くぼやけていた。
父はこの状況に、しばし呆然としながら、「あ、ああ」とだけ答えた。
この日受けた傷がきっかけで、僕は左目を失うこととなる。
それが僕の記憶にある、あの日の出来事だった。
追憶夢だ。
強く印象に残っている、過去にあった出来事。それが夢として再現されている。
そう自覚した瞬間、マスター・マルーネイの手が僕の手を痛いくらいに強く掴む。
「!?」
そんな出来事は記憶にない。
気付くと、やおら炭化した犬が炎を纏い、立ち上がり、身を低くする。
「マスター・マルーネイ!?」
石になったかのように硬直し、動かない。握った手も開かない。
「父さん!?」
父もまた、時間が止まったかのように動かない。
マスター・マルーネイの手を振りほどこうとするも、外れる気配がない。
“落ち着け! これは夢だ!”
意識的に深く長く呼吸をとり、目を閉じ、鼓動を落ち着かせていく。
心の騒めきが落ち着いたことを確認し、ゆっくりと目を開ける。
そこには右手に長槍、左手に生首を持った男が立っていた。
「ほう」
スッと目を細め、値踏みするようにこちらを一瞥すると、闇に溶けるように消えていく。
あれが、地獄の大総裁アウナスなのだろうか。
長槍と生首という持ち物は、伝承の通りだ。
何故僕の夢の中へ?
自称女神のアザレアが言った「陰謀」のためなのだろうか。
しかしそうだとして、先のシンボルをつけたインフュリーだったり、こうして夢の中に現れたりと、敢えてこちらの警戒心を煽るためにやっているとしか思えない。いや、ストレスを与え続けて狂気に陥らせたり、判断を誤らせたりというのも、悪魔のよく使うやり口ではあるか。
それ以上は考えようとしてみても、夢の中で磨り減った僕の精神は
明日きちんと目覚められるのだろうか。
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