ザードのノーム達
リングを潜るときの感覚は、前評判通りゼラチンのプールに飛び込むような感触だった。まぁ、ゼラチンのプールに飛び込んだ経験はないんだけど。これ、髪とかにこびりついたりしないのだろうか。
そのゼラチン的な感触を通り抜けると、刺激が無に近い状態となった。意識だけになった、という感じだろうか。身体感覚が失われ、見開いたはずの瞳には何も見えない。呼吸をしようとすると、呼吸できているのかどうかわからない状態。けれど苦しくはない。
このままで大丈夫だろうかと焦る気持ちが涌いてきたところで、目の前に先ほどリングが起動したときのような光の輪が現れる。ただし、光の輪の内側は闇ではなく、どこかの草原のようだった。おそらくそこが、ザードなのだろう。
足元に地面のような感覚はないため、歩いていくというわけにもいかない。
光の輪があるため、視覚で認識している距離感から、自分が暗闇の中、一箇所に静止しているようにも感じられるけれど、もし全く何もない漆黒の闇のままだったとしたら、落下し続けているかのような不安感か、あるいはどこかに閉じ込められたような閉塞感に包まれていたかもしれない。今の状態でさえ、一刻も早く通常の空間に行きたいと感じる。小舟で海の真ん中に放り出された気分だ。
やがて輪の向こうに行きたいという意思が通じたのか、自分が一本の矢にでもなったかのように、スーっと光の輪の方へと吸い込まれていく。
光。
強い眩しさに目を覆う。
暗闇を見通すために使ったベラドンナ点眼薬の効能がまだ少し残っていたのだろう。
しばらくすると、徐々にだけれどその眩しさに慣れてきた。
まともに目が見えるようになってまず驚いたのは、この空間が球体の内側だということだった。
何を言っているのかわからないかもしれないけれど、とにかくそうだった。
周囲を高い山々に囲まれた盆地にいるようにも感じるけれど、明らかに植物が伸びていく方向がおかしい。山であれば斜面なので、木々が地面に対して垂直に生えることはないはずだ。
この空間の中心と思われる場所には、太陽のような強い光を放つものがあり、その眩さで、こちらから見て天井というか、逆側の大地がどうなっているのかはわからない。地平線、といっていいかわからないけれど、光と大地との境は、凹型となっている。寝転がれば、地平線がドーナツ型に見えるだろうか。
目に飛び込んでくるのはほぼ緑。この空間における大地のほとんどは、森林なのだろう。
あまりのことに、立ち
そういえば帰るときはどうすればいいのだろうと振り返ると、そこには朽ちて中が空洞となった倒木があり、その空洞の中心が歪んで見えた。おそらく、ここに入れば戻れるのだろう。そうでなかったとしても、ノーム達の長、トンガリさんことルーフェスが僕らの世界に来る際に使うルートを使えば戻れるはずだ。
ちなみに、元居た僕らの世界のことを、僕らは「シェーナ」と呼称している。シェーナは巨大な球体で、その表面に僕らが住んでいることになる。軌道の異なる二つの月、ルナとセレネーを持ち、一つの太陽の周りを回っていることが知られている。まぁ、僕自身はその様子を外から観測したことがないので、あくまでも本や伝聞からの知識でしかないのだけれど。
この、「元居た世界」に名前がついたのは、異空間を発見してからで、それまでは単に「世界」と呼ばれていたと、学院の教科書にはある。
さて、今ぱっと見た感じでは、この空間、ザードに崩壊しそうな兆候は感じ取れない。まずは話を聞くべく、ノーム達に会う必要があるだろう。
この球の内側状になっている空間のいいところ(?)は、開けたところに立つと、僕らの世界で高いところに立ったのと同じように
見まわしてみると、一つ森を越えた先に、赤い屋根がいくつも連なり、大きな風車のある村が見える。
とりあえず、そちらへ向って歩いて行くことにした。
しばらく森の中を歩いていると、次第にこの世界にも慣れていった。植生などは元の世界と大差はなさそうだ。森は広葉樹林で葉が落ち始めている。
今僕が歩いているのは、獣道のようなところだった。これまで狼のような肉食獣の気配はないけれども、危険のある動物がいたら少々厄介だ。
ここが本当に球の内側だったと仮定して、一周するのに急げば五日もあればいけるのではないだろうか。広さとしてはそのくらいのように思う。
村の他に、いくつかの山や川、池があることは確認できた。そういったところも元の世界と似ている。
更に歩いていくと、太陽のような光の位置は変わらないものの、その光が次第に橙色を帯びてくるようになった。この世界の夕方、ということだろうか。
村に近づくにつれ、人工物(ノーム工物?)が森の中に見え始める。シーソーやブランコといった遊具なのだけれども、僕ら人間のものよりも、一回り小さい。
ノームに関する僕の知識としては、学院で習った程度だ。彼らは土に由来する妖精で、よく混同されるドワーフのような無骨さはなく、陽気で明るく、機械いじりが得意で、好奇心が強いとされている。まぁそれも、一般的に言われていることに過ぎないのだけれども。
好奇心が強いため、雑多な知識が豊富で、例えば武器を作ることはドワーフに適わないけれど、楽器を作ることはドワーフよりも上手い。もちろんレンズを作ったりすることもだ。
上空(そもそも空といっていいのか?)の太陽のようなものの光は、橙色から朱色になりながら、全体の光量を落としていく。つまり、陽は真上にありながら、夕方のようになってきている。
もうそろそろ村に着くかなというあたりで、遠くから楽器を奏でる音と共に「わっほっほーぅ」と陽気な歌声が聞こえてきた。
もう少し近づいていく。
楽器の種類は何だろう。雑多な打楽器の音と、フィドルや風琴のような音が聞こえてくる。
そして歌声から
とても崩壊しそうな世界の住民の振る舞いだとは思えないのだけれども……。
いよいよ村が見えてきた。
建物は、ノームらしいというかなんというか、赤い屋根の家屋で、キノコみたいな形をしている。壁はおそらく消石灰を用いた石灰モルタル。窓や柱には木を使い、全体的に丸みを帯びた設計だ。
もうそろそろノーム達もこちらに気付く頃だろう。
楽器を抱えた数名のノームに、エプロン姿のノーム、そしてピッケルやハンマーを抱えたノーム、そこに混じって、鹿やリス、アナグマといった動物達や、フクロウやカササギといった鳥たち。
ノーム達は一様に、トンガリ帽子をかぶっていた。ああ、だから「トンガリさん」なのか。その理屈で言えば、ドクトル・ロドミーにかかるとノーム達は全員「トンガリさん」になってしまいそうだけれど。
不意に演奏が止み、視線がこちらに集まってくる。とても居心地が悪い。
「あの……」
声を発した瞬間、脱兎のごとくノームや動物達が一斉に逃げ出す。
ノーム達のほとんどが家に入りドアを閉めた。
えー。
放り出された作業道具や楽器が地面に転がる。いずれもややミニチュアサイズだ。
ふと見ると、転んで逃げそびれたのだろう、一人のノームの少女が道路に倒れていた。転んだ痛みで動けないのだろうか、突っ伏したままだ。
「大丈夫?」
歩み寄り、助け起こそうと手を伸ばすが。
「リルル!」
一軒の扉が開き、おそらく青年くらいのノームが跳び出てきたかと思うと、僕に向って突進してきた。
その突進を難なくかわすと、彼はそのまま壁に激突してのびてしまった。
「ああ、君も大丈夫?」
ノーム達が扉ごしにざわついているのがわかる。あー、これ完全に誤解される感じだ。
先ほど倒れていたリルルと呼ばれたノームが立ち上がり、振り返る。綺麗なすみれ色の髪に翡翠のような瞳をした女の子だった。女の子、といったけれども彼らの容姿から年齢を判断するのは難しい。人間だとすれば十代前半くらいに見える。実際に幼いのかもしれないけれど。
顔は恐怖のあまり強張っている。今にも泣き出しそうだ。……そんな目で見ないで欲しい。こっちまで泣きたくなる。
「黒サンタさん、私、そんなに悪い子だったでしょうか?」
黒サンタ?
記憶を掘り起こす。
確かどこかの伝承で、冬至の際に行われる祝祭のとき、良い子にはプレゼントが贈られ、悪い子は黒サンタが、担いでいる袋に入れてさらっていってしまうという話があったような。
今僕の背中には、エリザベート研に食料を分けて余裕ができた、人一人入るくらいの大きなバックパック。しかも服装は黒いうえにアイパッチ。……いやいやいや! それでも冬至まではもう少しあるだろうに。ここでは僕らの空間と
「あの、僕は黒サンタじゃなくて、ロドミー研から来た魔術師なんだけれど」
なーんだ、みたいな一瞬納得しそうな雰囲気が出たのも
「そうやって油断させてから、一気にその袋に入れるつもりなんだろ!?」
外野からの声でまた態度が硬化してしまった。
「そうだそうだ! リルルを返せ!」
子供はともかくとして、大人のノームまでマジなのは何でなの?
何とか空気だけでも変えたい。さっきまで陽気に歌っていたのになぁ。
陽気に歌っていた?
そうか、歌か。歌ならば、こちらに攻撃的な意図がないことが示せるかもしれない。
といっても、ぱっと頭に浮かんできたのは、ドクトル・ロドミーの鼻歌だった。
鼻歌では響かないので、口笛で旋律を奏でてみる。
♪~
すると、ノーム達は皆目を丸くして驚いた表情に。あれ、ノームは口笛が吹けないとか? あるいは口笛が禁忌とか?
もう少し様子を見ようとピーヒャラピーヒョロ吹いていると、年長と思しき、立派な白髭をたくわえたノームが現れた。
「おまえさん、その曲はどこで教わりなすったかの」
「教わったというか、うちのドクトルがよく鼻歌で歌っているんですよ」
黙っていたノーム達が、急にガヤガヤと騒がしくなる。
目の前の老人のノームは、腕組みしてじっと目を瞑って、何やら考え込んでいるようだ。
「もしやおまえさん、くるくるさんのとこの?」
「くるくるさん?」
「そうじゃ。髪をこうくるくると巻いて、ペンシルを突き刺してる魔術師の」
それって……。
「ドクトル・ロドミーのことですね。ということは、あなたがトンガリさん?」
「いかにも!」
と胸を張られる。
おお、なんとか目的の人に会えたようだ。
「皆の衆、彼は黒サンタではない。このザードを救ってくれる救世主だ!」
「え?」
ちょっと待って。調査しに来ただけで、解決できるかどうかは別だヨ? それに、黒サンタから救世主って、ふり幅が大き過ぎやしませんか!?
「救世主様!?」
手のひらを返したようにというかなんというか、急に希望の目で見てくる。さっきまで、悪魔を見るかのような目だったのに。もう少しでものが飛んでくるんじゃないかという雰囲気だったのに。
「まま立ち話もなんですからのぅ。狭いところですまんが、さぁさ、ワシの家の中へ」
僕でも屈まないといけないくらいの小さなドアへと案内される。
「あの、さっき転んだ彼女と突進してのびている彼、大丈夫ですか?」
そう、彼はまだグッタリしている。
「あーいやいや、そこで伸びてるティポップは頑丈ですからの。水でもかければ目を覚ますじゃろうて」
ノーム達が
「リルルも転んだくらいでは問題なかろう」
見ると、転んだ拍子に手をすりむいていたようだ。少し血が滲んでいる。
「驚かせてごめんね」
バックパックからチェロット軟膏の瓶を取り出す。これはオイルと蜜蝋を練ったもので、傷につける軟膏。血止めにもなるし、傷口を保湿しておく方が治りがよくなるため、何かあるとこれを塗っている。旅の必需品だ。
近所の子供にするように、リルルの手をとって傷に塗る。
傷に触れると痛むようで顔をしかめたが、手を振りほどかれはしなかった。
「これで大丈夫」
リルルは不思議そうに、自分の手と僕の顔を見た。
「あの、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。
村人達の印象を少しでも良くしておきたいという意図もあったのだけれど、はてさて効果はあるだろうか。
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