第35章 花散らしの代償
第150話 心に潜む憎悪
朝の気配を感じて目を覚ますと、そこは天幕の中だった。外にはまだ、人の動く気配はないから、夜が明けたばかりの頃であろう。
そんな事を思いながら、奏は身を起こすと、未だぼんやりとした状態のまま、虚空に視線をさ迷わせる。
……夢を、見ていた様な気がする。
満天の星を仰ぎ、その瞬きが瞳に落ちる度に、せつなさが込み上げて、心が締めつけられた。それでも、何時までも、星を見上げる事を止められなくて。何かに救いを求めるように、縋るように空を仰ぐ……
河南の城で、得体の知れない何かに心を浸食されてから、自分ではない誰か別のものの意志によって、奏はそうして、たびたび星下に佇んでいた。憑きものの類なのかとも思う。 しかし、そうしていると何時も、やがて言いようもない悲しみと共に、自分の心のどこかから、嘆きの声が泡のように生じ始めるのだ。
……この美しい星の光を纏うことを許されながら、その夢は叶わなかったのだ。最も信じていた者の手によって、無残にも奪い去られた。これ程に口惜しい……口惜しい事があろうか……
嘆きの泡は、生じては消え、消えては生じることを繰り返し、次第に奏の心を重たい悲しみで満たしていく。やがて、癒し様もなく深い悲しみに染め上げられた心は、止めようもなく、みるみる憎悪の結晶を生じさせる。そして、その結晶のひとつひとつから、憎悪の記憶が溢れ出て来るのだ。身の竦むような恐怖を伴って。
数多の呪いの言葉を身に纏い、ただ相手の滅びのみを望む。そんな浅ましく、醜いばかりの心に、もしかしたら、これこそが自分が失った記憶なのかと、奏は絶望し、成す術もなく項垂れるしかなかった。
周藍と出会って、彼が自分の過去に関わりがある人間だと感じ、奏は失った記憶を取り戻したいと思い始めていた。
周藍がその過去のことついて語ることはなかったが、彼と一緒にいると、奏は度々、既視感を感じた。それは決して嫌な感じではなく、むしろ嬉しい感覚であり、いつも優しく穏やかな気持ちになった。
だが、その一方で、その事を嘲笑うように、そんな幸せな気分を感じた後には必ず、心の中から、この醜い感情の泡が湧き出て来て、そこに大きな憎しみの塊が存在することを主張する。そんなものを目の当たりにすると、失った記憶が戻る事に、恐怖すら感じた。
記憶が戻れば自分は、この憎悪に飲み込まれてしまうかもしれない。だた、人を呪い、その破滅のみを願う負の感情は、奏の心を支配しようと、虎視淡々とその機会を伺っている。そんな怖れを感じるのだ。
昨晩も、そうして、奏は星下に佇んでいた。
そこで、杜陽と行き会った様な気がする。そして星王の気配を感じた。だが、覚えているのはそこまでだ。気が付けば、こうして、自分の寝所の中で眠っていた。
……どこからが夢で、どこまでが現実なのか。
杜陽に問えば、その曖昧な境目を知ることは出来るのだろう。だが、それを知ることに、たいして意味はないように思った。
自分の中に生じる憎しみが、まるきり自分とは関わりのないものだとは、奏にはどうしても思えなかったのだ。
「……どうして、あなたは……そんな憎しみを抱えているの……」
自分の中の、理解できない自分に向かって問い掛ける。無論、答えなど有る筈もなく、奏は大きくため息を付いた。
気持ちをすっきりさせたくて、奏は、朝の澄んだ空気を吸おうと、天幕の外に出た。
湖岸は白く朝靄に覆われており、どこか幻想的な景色が目の前にあった。
頭上には、雲の切れ間に、まだ明けたばかりの淡い水色の空が広がり、そこに消え残りの星が一つ輝いていた。
「指極、彩光」
明けの星に指極星を見るのは、吉兆と言われる。占術的に言えば、自らの意志による変革を成す。そんな意味になる。
その光がやがて陽光と混じり合い、水色の中に溶けて消えて行くのを、奏はじっと魅入られた様に見据えていた。
「お早いですね」
靄の向こうから声がして、周藍が姿を現した。奏は、その姿に、どこか安堵を感じている自分を意識する。
「周藍さまも……」
「ああ、私は……色々と思案しなくてはならないことが多くてね。横になってからも、あれやこれやと考え込んでしまって……気が付いたらもう、明るくなっていた」
少し自嘲ぎみにそう言いながら周藍が笑う。気のせいか少し疲れたような顔をしている。そう思ったら、考える間もなく告げていた。
「私で何か、お役に立てることがございましたら、どうぞ遠慮なくお申しつけ下さいませ」
奏の言葉に、周藍が笑顔で応じる。そんな表情にも、気持ちが安らぐのを感じた。
「ありがとうございます。奏様のお力をお貸し頂けるのであれば、それに勝るものはございません。そうおっしゃって頂けるのであれば、早速、杜陽様にお伺いを立て、その様に取り計らい……」
「周藍様」
周藍の言葉を、奏がいきなり遮った。
「私は、あなた様のお役に立ちたいと、ただそう思っただけです。それなのに、何故そこで、杜陽様云々という話になるのです。私はっ、杜陽様の所有物ではありません」
思いがけず、奏が強い口調でそう言ったことに、周藍は一瞬、驚いたような表情を見せた。
「……そうですね。申し訳ありませんでした」
相変わらず穏やかな笑みを見せながら、そう言って自分を見据える周藍の瞳に、奏はどこか落ち着かない気持ちになる。
やはり周藍は、自分のことを知っている人間なのではないか。又、そんな思いに囚われる。実を言えば、彼と言葉を交わす度に、奏の中で、その思いは強くなっていくのだ。
……だって、こんな風に、前にも……
感情を押さえ切れずに、そのまま思いをぶつけても、嫌な顔ひとつしないで、こうやって……笑って受け止めてくれる。そんな彼を、自分は……
……もうっ。同い年だっていうのに、そうやって、自分だけ大人みたいな顔をして、何でも分かった風で。それがほんとうに悔しいのよ……
幼い少女の自分が言った。
……それは仕方がないよ。実際、周翼は姉上より、ずっと大人なんだもの……
それに応えた少年の声も、自分は知っている……
不意に、記憶の底から引き摺り出されて来たその声に、奏は動揺する。
「……これも……記憶……私の……」
固く閉ざされた心に、少しずつ亀裂が走り、そこから断片的に、失った記憶が漏れ出してくる。そんな感覚が、今まで感情の波になど揺らされた事のなかった心に、次第に波風を立て始める。 それをどう受け止めればいいのか。大きくなるばかりの戸惑いに、奏は眩暈を覚えてその場に膝を付いた。
「奏様っ。大丈夫ですか」
すぐ傍で、周藍の声がする。それに縋る様に伸ばした手が、その体を捉えると、同時にふわりと温かいものに体が押し包まれた。
言いようもなく、心に懐かしさが広がった。
胸が苦しい。
そんな感覚に、ひとつの名前が、奏の記憶の表面にすっと浮かび上がった。
「周……翼……」
たったひとつ、その口から言葉が零れ落ちた。
それを合図に、奏の心にもの凄い勢いで、数多の情景が流れ込む。ひとつひとつ、判別も出来ない速さで流れ込んで、それは奏の心を容赦なく翻弄した。 喜びも、哀しみも、あらゆる感情が一度に押し寄せる。それを受け止め切れずに、奏の意識はそこで閉ざされた。
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