第151話 奪われたもの

「華梨っ……」

 彼女の声が確かに自分の名を呼んだ。ただそれだけで、周藍の感情は押さえようもなく昂ぶった。

 華梨を強く抱きしめながら、溢れ出る涙を懸命に堪える。湧き上がる愛おしさに、気が変になりそうだった。 これしきのことで、情けない程に気持ちが揺らぐ。

 彼女を中天界の奏とすべく導くという使命が、言い様もなく重く感じられた。


……愛しているのに。

 ただ、彼女に華梨として自分の側にいて欲しい。

 昔のように。

 それだけなのに。それすらも許されない。


 それを恨めしく思う一方で、そんなことは望むべきではないのだと、懸命に気持ちを押し留めようとする自分がいる。

 華梨が奏とならなければ、この世に平穏は訪れない。理屈では分かっている。だが、止めようもなく巻き起こる激しい葛藤に、周藍の心は翻弄され続けた。





 長い長い回廊を、懸命に走っていた。

……周翼が帰って来る……

 その知らせに、浮き立つような気分を抱えながら、華梨は回廊を走って行く。もうすぐ周翼に会えるのだと思うと、思わず顔が緩む。嬉しさに、時折、舞を舞う様に、くるくると回りながら、回廊を進む。

 だが、いくら進んでも、その回廊の果ては見えず、等間隔に並ぶ柱が、彼方まで黒々とした影を落としているのに気づいて、華梨はようやく足を止めた。


……これって……何かおかしくない?……


 ここは燎宛宮の中である筈なのに、官吏のひとりにも行きあわないというのは。

 そう考えて、そう言えば、燎宛宮って、もう無くなったのじゃなかったかしらと思う。

 そんな思考を巡らしながら、ここは現実の世界ではないのだと、漠然とそう思った。


 すると、床に落ちた柱の影から、人の影がゆらりと浮かび上がった。 はっとして顔を上げると、柱の陰に、若く純朴そうな印象の女の姿があった。聡明そうな強い光をたたえた瞳に思わず魅入られる。

「誰……?」

 華梨の問いに、女は軽く哂った。

「随分と、楽しそうね」

 その声に含むものを感じて、華梨は眉根を寄せる。

「そんなに会いたいものなの?」

 女がそう訊いた。少し馬鹿にしたような口調に、反感を覚えながらも、華梨は素直に答える。

「……だって、たまにしか会えないから……」

「会えたら嬉しい?」

「そうよ。好きなんだもの。嬉しいに決まってるじゃない」

「そっか……好き、なんだ。好き……」

 女がそこで考え込むように押し黙る。

「……ねえ、それなら……好きなら……」

 そこまで言い掛けて又、女が考え込むように言葉を切った。何とも居心地の悪い沈黙が続く。

「一体、何なの?」

 自分は一刻も早く周翼に会いたいのに、どうしてこんな所で足止めされなければならないのか。その苛立ちを帯びた声で女を問い質すと、思いがけない問いを返された。

「……好きなら、彼に触れてみたいと思う?」

「何……いきなり……」

 いきなりそんなことを訊かれて、心に秘めている欲望を、目の前に引き摺りだされたような気がして、華梨は羞恥心に包まれて顔を赤らめる。そんな彼女の様子を意に介す風もなく、女が続けて言う。

「口づけしたり、体を重ねたり、ひとつに繋がったりしたいと思うの?」

「止めてよ。そんなんじゃない」

「……違うの?」

 探るような視線を向けられて、顔が更に火照る。違わなくはないが、そういうことを口に出していうことは、まだ少女である彼女には抵抗があった。


 どうしてこの人は、こんな明け透けな質問をするのだろう。

……そもそも、何でこの人、こんな所にいるのよ……

 その疑問が浮かんだ所でようやく気付く。

……そうよ、ここ、私の記憶の中なんじゃないの……


 そう思った途端、燎宛宮の回廊は跡形もなく消え、少女の自分は今の自分へ……大人の女性へと変貌を遂げた。そして、華梨は自分の目の前に立つその女と改めて向き合った。

 ここが自分の記憶の中ならば、目の前にいるこの女は一体誰なのか。それは自分であって、自分でない存在。もう一人の自分とでも言うべき……


「あなたは誰?」

 問うてから、この女が、あの憎悪を生みだしている存在なのではないのかと、ふと思う。

「……あなたは、何をそんなに憎んでいるの?」

 夢を奪われたからだと。そんな風に言っていたか……裏切られたからだと。ならば、奪った相手を、裏切った相手を憎んでいるのか。

「……わから……ない……」

 女が頭を抱え込んで、激しく首を振る。


……だっ……て……愛していると……言ったんだ……


 言葉にならない女の思いが、直接、華梨の中に流れ込んでくる。胸が締め付けられるような苦しさを伴って。まだ恋とも呼べないような、淡い淡い思いが、憧れや尊敬や友愛の情といった思いに包まれてそこにはあった。


「そっか……好きだったんだ」

 華梨が言うと、女が驚いた様に顔を上げた。

「好き?そんな……でも、私は……」

 戸惑う様に首を振り、項垂れる。


 そんな姿を見ていれば分かる。まだ恋ではなかったけど、いずれ、その花を咲かせたであろう種が、間違いなくそこにはあったのだ。 だけど、まだ芽を出したばかりのその思いを、強引に摘み取ってしまった者がいたのだろう。

……愛しているからと……

 抑え切れない激情のままに。

 その時の恐怖が、華梨の中にも痛みと共に流れ込んでくる。それは、河南の城で感じたあの恐怖と同じ……。



 アレモ ワタシノ キオク……



……そう。

 あなたは、もうひとりの私。

 絶望を抱えたまま、自ら命を絶った。

 もうひとりの私……



鴉紗あしゃ

 その名を呼ぶと、彼女が俯いていた顔を上げた。刹那、その瞳から涙が零れ落ちる。

 もしそうだったのなら、彼女はそれによって全てを失ったのだ。恐らく、その存在の拠り所であった、八卦師の力を全て……失った。



 その力があったから。

 その者と肩を並べて、対等に口を利くことが出来た。

 その力があったから。

 その者の願いを現実のものとして、叶えてやることが出来た。

 自分を必要な存在なのだと、そう思ってくれていたのだ。その力があったからこそ……。


 四肢を切り落とされて、暗闇に放り出される。八卦師がその力を失うという事は、それ程の喪失感を生み、恐怖を感じるものなのだ。その者は、それを理解できなかったのだろう。


 その者……李燎牙は。

 覇王とまで言われた傑物でありながら。


……理解できなかったのか……


 そう思うと、口惜しさが募る。

 どうして、と。


 鴉紗だってそうだった筈だ。

 八卦師という、唯一特別であった存在から、他にいくらでも代えの利く、只の女に引き摺り下ろされたのだ。その屈辱はいかばかりのものであったか。


『愛している』


 その言葉だけでは、拭いきれない不信感と大きな絶望を、彼は彼女に与えてしまったのだ。好きだったから尚更。それが許せなかったのだろう。力を失うと分かっていて、強引に事に及んだのだとすれば、それが彼女の意志を全く無視したものだったのだとすれば到底……。


……許せない……か……


 華梨は腕を伸ばして、鴉紗の体をそっと抱き寄せた。

「ねえ……どうすれば。どうすれば、許せるようになるのかな……」

「許す?」

 鴉紗の声に拒絶の音が混じる。

「そう……だって、そうやって誰かを憎み続けているあなたは、なんだか辛そうだもの……私もそんなあなたを見ているのは辛いよ」

「……許す……許せると思うか?」

「だって、好きだったんでしょう……本当に、心から大好きだったんだよね?」

「だから、許せない」

「そっか」

 その心の痛さが伝わって来る。華梨はもう一人の自分をぎゅっと強く抱き締めた。


……どうすれば、いいのかな……


 鴉紗の体は憎しみの塊となって、そのまま華梨の体に吸い込まれるようにして消えて行く。そうして心に沈んでいく塊は、何と冷たく重いことだろう。 華梨はその苦しさに耐えきれなくなって、胸に手を当てる。

 と、その手を優しく押し包まれるのを感じた。その温もりに、心が少し楽になって、華梨はそこで覚醒した。



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