第152話 あなたのために

「……あ」

 目の前に、思いがけず周藍の顔があって、思わず間の抜けた声を出していた。そんな自分を、訝しむような目で見て、周藍が言う。

「……大丈夫……ですか?……奏様」

 気が付けば、天幕の中に寝かされていた。今度は外で、慌ただしく兵の行き交う音がしているから、もう間もなく出立の刻限なのではないかと思う。


「ごめんなさい、私。どのぐらい気を失って……」

 慌てて身を起こした彼女を、周藍が気遣うように手を差し伸べて、その身を支える。

「大丈夫ですよ。まだ出立までには間があります。それに杜陽様には、奏様のご気分が優れない様なら、後発でも構わないとお言葉を頂いていますので……」

「そう……でしたか」

「お加減はいかがです?朝餉は食べられそうですか?」

「……ええ……と。はい、多分……」

 自分に奏として言葉を掛ける周藍に、咄嗟に適当な言葉が出て来ずに、我ながら何ともたどたどしい受け答えをしていると思う。

「では、給仕の兵に用意をさせましょう。杜陽様には、奏様の出立は少し遅らせる旨、お伝えして参ります」

「……はい」

「それでは」

 そう言って立ち上がろうとした周藍の服の裾を、気が付けば掴んでいた。

「ええと……あの」

 周藍の瞳に、自分の姿が映っている。まるで心を見透かすような、その真っすぐな視線に魅入られて、言い掛けた言葉を忘れた。そして、客観的に見て、本来の奏であれば、こんなことはしない筈という、そんな気まずさから逃れるように視線を反らす。

「いえ何でも……申し訳ありません」

 そう言って手を離したが、周藍が立ち去る気配はない。まだ自分を見据えているであろう眼を、更に間近にその息遣いを感じると、自然と心拍数が上がる。


「……華梨……か?」

 不意にその名を呼ばれて、瞬間息が止まった。

 自分の存在に気付いてくれた喜びに、心が震える。しかしすぐに、それは望んではいけないことなのだと気付いた。


 今、ここにいるのは、八卦師である奏でなければならない。覇者となる杜陽の為に、自分は華梨であってはならないのだ。奏でなければ、彼の者の荒ぶる心を宥めることは出来ないのだから。

「私は奏です……」

 そう告げた瞬間に、普段、感情を表に出すことの少ない周藍の顔に、見るからに落胆の色が広がった。それが奏の心にも痛みとして伝わる。

「そう……ですか……そうですよね……付かぬことを申しました。失礼致します」

 今度こそ、そう言って周藍は天幕の外に出て行った。その後ろ姿を見送ってから、奏の口から、せつなさを帯びた長い長いため息が漏れた。

「……どうしてかしら」


 どうしていつも自分たちは、こんな風にしかいられないのだろう。

 その心にも体にも。

 いつも。

 触れることが許されない。

 いつも、いつも。


「好きなのにな……大好きなのに……」

 ぽつりと呟いた言葉に、目からじわりと涙が溢れ出た。

……愛しているのに……



……愛しているから。口づけしたり、体を重ねたり、ひとつに繋がったりしたいと思うの?愛しているから?……

 心の中から、鴉紗の声が聞こえた。

「そうよ。愛しているんだもの」

……それが好きっていう気持ち?……愛しているから?……全てを……ひきかえに………しても?…………



 鴉紗の声は次第に囁くような声になって、また心の奥に消えて行く。

……全てをひきかえにしても。

 その最後の一言が、心に重く響く。


 この想いは、そこまで激しく燃え上がらせてはいけないのだと、改めて気付かされる。

……愛しているからこそ。

 その先に絶望しかないような道を選ぶべきではないのだ。愛した人には、ずっとそこに、笑顔のままでいて欲しい。そんな事は、彼にだって分かっていたのだろうに。


 それなのにどうして。

 彼は、その笑顔を永遠に失うようなことをしてしまったのだろう。

 どうしてだろう……。





 奏が朝餉を終えた頃を見計らって、周藍が再び顔を見せた。

「お加減はいかがですか?」

「はい。もうすっかり」

 奏が答えると、安堵の笑顔が返された。

「それは良かった。時に、奏様。先刻おっしゃって頂いたお言葉に甘えて、折入ってのお願いがあるのですが」

「はい、何でしょう?」

「……星を、読んでは頂けませんか」

星読ほしよみを?……この私に?」

 怪訝そうな顔をして、奏が確認するように問う。

「それは構いませんが、でも、周藍様ご自身も、八卦師でいらっしゃるのに。それも匠師なのだと伺いました。それが何故、星見の私ごときの星読など……」

「私にはもう、星を読む力はないのです」

「まさかそれは……」

 奏の心に動揺が走る。


「私にはもう、八卦の力を使うことは出来ない。すでに私は、八卦師と呼ばれる存在ではないのです」

 周藍のように、匠師と呼ばれる程、大きな力を持っていた八卦師が、その力を失うということは、もはや余命が幾ばくも無いというのに等しい。高度な技を使い続けることの代償として、術者がその命を削ってしまうことがあるという話は、奏も知っている。

「……周藍様……」

 知らされた事実の重みに、その先の言葉が出なかった。

「そんな哀しそうなお顔をなさらないで下さい」

 周藍が、少し困った様な笑みを浮かべながら言う。

「そんなことは、匠師になった時にもう、覚悟はしていたのですから……それでも、私にはまだ、やり残したことがあって、それを果たさなければ、死んでも死に切れないというか……。 だから、もし奏様がお力添えを下さるというのなら……」

「分かりました……」

 込み上げる涙を堪える為に、奏はそこで一旦呼吸を整えた。

「あなたがそう望むのであれば、星を読みましょう」

「ありがとうございます」

 周藍が深々と頭を下げた。



 その命をひきかえにしても、彼がやり遂げたかったこと。かつての自分は、それを理解することが出来なかった。彼が望んでいたのは、殺戮や破壊ではなかったのだと。そう信じることが出来なかった。


 きっと誰よりも、ここに生きる人々の平和で穏やかな暮らしを願っていたのだということを。今になってようやく知った。


 だから今、その為に自分に出来ることがあると言うのなら……。

 たった一人で戦い抜いた彼が、もう何も思い残すことのない様に。

……私は星の光を繰る。



 奏は心に広がって行く悲しみを押し込めて、両の手を大きく開いた。その手の間に、光が生じて、空間に占術盤を描き出し、数多の星がそこに輝きを落とす。

 そして……。

「これは……」

 周藍が盤上を見据えて息を飲んだ。


 燦然と輝く橙色の光が、盤上を北から南へと、間違いなく今、彼らがいるこの場所へと向かって動いている。それは、天の戦神の星だ。劉飛を守護する橙星王の光である。


「やはり……そうなのか……」

 周藍が難しい顔をして唇を噛んだ。

「杜陽様に、お知らせして来る」

 そう言い残して、周藍は足早に天幕を出て行った。


 残された奏は、その明るい……というよりも明るすぎる色に、何か言い知れぬ不安を覚えて、尚も盤上を見据えていた。

「まさかこれは……終焉の光」

 星の光は、それが消える直前に、この様に明るく華やかな光を放つ。そしてその光は、その傍らにいるものをも巻き込んで、共に滅していく。そんな光を放つものには、決して近づいてはならない。そう言われている。


 八卦の知識のある周藍ならば、当然そんなことも知っている筈。

 だから……大丈夫。


……周藍様が説得なされば、杜陽様だって、きっと。此度は兵を退くと……そう、おっしゃる筈だから……


 そうは思うものの、奏の中の不安は依然として消えない。


……なにかしら。これは予感……違うこれは、予知……


 この先には、間違いなく破滅がある。星の光がそう告げているのだ。不安にいたたまれなくなった奏は、周藍を追って、天幕を飛び出した。


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