第153話 加速する運命
「兵は退かぬ」
これで、何度めの拒絶なのか。相手に自分の言葉が伝わらないもどかしさを感じながら、周藍は厳しい顔をして杜陽を見据える。
奏の星読の結果を知らせて、まず、その結果よりも先に、奏に星を読ませたことを叱責された。だが、そんなことで引き下がって良い事態では無かった。
もう、馬に乗り出立の寸前であったものを、無理やりに、まだ片付け途中の天幕に連れ込んで、そこで作業をしていた兵を追い出して二人きりになり、差し向かいで、再度、進軍の中止を進言した。
だが、杜陽は頑として、首を縦に振らなかった。
「何故なのです。砂宛への侵攻そのものを止めろとは申しておりません。今は、時期が悪いのだと、そう申し上げているのです」
「良いですか?広陵軍が出て来たから、背を向けて逃げろと言っているのですよ、周藍様は。そんなことをすれば、いい笑い物だ。一戦も交えず相手の姿を見ただけで逃げるなど、河南の面子に関わります。 相手がいくら屈強な軍であろうと、これ程の兵力差があって、どうして逃げる必要があるのですかっ」
そういう事を言っているのではないのだ。なぜ分からない。
周藍は思わず声を荒げて言う。
「命が惜しければ、戦神の前には畏怖を持って膝を折れ」
「負け知らずの戦神の話など、もう昔のことでしょう。劉飛がいくら強いといっても、今の私が負ける筈がありません」
そう言い切った杜陽の体からは、薄っすらと紅炎の光が浮かび上がっている。それは杜陽が、あの大きな力を今や自在に操ることが出来るという証なのだろう。
……もう真実を告げるしか、この者を止める手立てはないのか……
「杜陽」
意を決したように、周藍がその名を敬称も付けずに呼んだ。それに対し、杜陽は軽く眉を顰める。
「劉飛は、お前の父なのだぞ」
「……?」
告げられた真実に、杜陽が呆気に取られた顔をした。
「なにを……おっしゃっているのですか」
「劉飛こそが、お前の実の父親なのだと、そう言っている」
そして、かつて赤子だった杜陽を燎宛宮から攫ったのは、他ならぬ自分だと、周藍はそう言った。
「……」
……自分こそが、お前の運命を捻じ曲げた張本人だと、周藍様はそう言われたのか……
父親が誰であったかということよりも、これまでの人生において、彼が感じた不条理の全ての根源となる原因を与えたのは、自分が師と敬愛するこの者であったという事実に、杜陽は遣り切れない思いを抱いた。
初めこそ反発をしたが、その存在にいつしか自分は父親というものを重ねていた。父のように憧れた。父のように心を許した。長年積み重ねて来たその思いが、全て崩れ去って行く。その心の拠り所が、偽りで成り立っていたのだという事実に打ちのめされた。
……結局自分には、何も無かったのかと。心に絶望が満ちて行く。
「私は、お前に実の父と殺し合いをさせる為に、剣を教えたのではない……」
絞り出す様にそう言って、自分の目の前で項垂れた周藍の姿が、やけに小さく見えた。
……何時の間に……
……何時の間に自分は、この人を追い越してしまったのだろう……
ふとそんな事を思った。
自分にとって大きな存在であった筈の師が、今や、哀れで小さな存在にしか見えない。その事実に、杜陽の心は言い様のない哀しみに侵されて行く。瞳から涙が零れ落ちた。そしてそんな動揺は心を焼く紅炎に、たちまち飲み込まれた。
「この世の中には、星見の目を持ってしても、見えぬ事がある。それが、神の領域というものだ」
杜陽の口から紡がれる女神の言葉に、周藍が失意に彩られた顔を上げる。
その顔をしばし眺めやって、赤星王が再び口を開いた。
「……お前の意図がどうだったにせよ、お前はかつてこの者の命を救ったのであったな。その分の借りは返そうか」
「赤星王様……」
「じゃが、それでも、こ奴の行く道は、血ぬられた道である事には変わりはないがな……どうする?八卦師。抗ってみるか?運命という奴に」
不敵な笑みを浮かべ、赤星王は周藍をそこに残したまま天幕を出ていく。間髪を入れず、外で馬のいななきが聞こえた。呆然としていた周藍はそこで我に返る。 それに蹄の音が続いたのを知り、周藍は慌てて天幕を飛び出した。
「待て、杜陽っ!」
杜陽を乗せた馬が、みるみると遠ざかって行く。周藍は咄嗟にそばにいた馬に飛び乗った。
「周藍様、何事ですか?」
背後で劉朋の声がした。
「杜陽を止める」
周藍は振り向く事もせずに、それだけ言い残し、杜陽を追って馬を走らせた。劉朋ならば、きっと追って来てくれる。そんな根拠のない期待を抱きながら、周藍は次第に離れていく杜陽の背中を懸命に追った。
……抗ってみるか?運命という奴に……
嘲笑する様な赤星王の声が耳に纏わりつく。
……何を……させるつもりなのか……
胸に広がる言い様のない不安に痛みを感じながら、周藍は懸命に杜陽を追った。
何もない平原を、杜陽の馬は一直線に疾走して行く。それが何か当てがあってのことなのか、それとも、何の考えもないものなのか、周藍には未だ判断が付かない。だが、赤星王の言い様からすれば、そこには何か理由はあるのか。
「……一体」
そう呟いて、周藍が鐙を蹴ったところで、その訳が判明した。
「あれか……」
杜陽の向かう先、その遥か上空に、橙色の光が飛来した。杜陽もそれに気付いたらしく、手綱を引いた。急に制止を命じられた馬が、不機嫌そうに数度、その前足を高く蹴り上げる。 杜陽に追い付いた周藍も、その光を目に留めながら馬を止めた。
それはみるみる内に彼らに近づくと、細長く伸びて、少し離れた高台に落下した。一旦球状に纏まった後で、人型を成し、それからその橙の色が薄れて行くと、そこから黒鶯と、そして劉飛が姿を現した。
「ちぇ。何だよ、何もしないうちから見付かってしまうとはな。随分、間抜けな話だな、黒鶯」
高台からこちらを見下ろして、劉飛がぼやく。
「……まあ、それだけ、甘くないってことなんでしょうよ。思い切り覚醒なさってるみたいですしね、赤星王様は」
「まあ、それならそれで、構わないが……」
そんなやり取りの後で、自分たちを見上げている周藍に向かって、劉飛はにこやかに手を振ってみせた。
「よお。久しぶりだな……周翼。いや……今は周藍だっけか?」
「……」
何かを警戒するように、応えも返せずにいる周藍に、劉飛は愛想笑いを浮かべる。だが、その眼が笑っていないことに、周藍はすでに気付いている。
……何を仕掛けてくる……
「で、そっちが、杜陽とやら?」
言いながら、どこか感慨深げに、その視線は、杜陽の姿を丁寧になぞる。
「……成程。何となく、色々と。似るもんだな。面白い」
一方の杜陽は、何だか値踏みをされるように眺めまわされて、不快も露わに眉をしかめた。
……普通の親父じゃねえか……こんなんが、戦神って……
そして、意識的に大きな声で、確認するように問うた。
「お前が、劉飛か?」
「おう。俺が、広陵国主劉飛だ。で、お前は、俺を倒して、天下統一したいんだって?」
「分かっているなら、話が早い。今ここで、お相手頂こうか」
宣言する様に言い、杜陽が早々と剣を抜く。それを見て、劉飛は苦笑した。
「気の短いのは、麗妃の血かね……」
そして、こちらも当たり前のように剣を抜く。そこに周藍の声が割って入った。
「お待ち下さい、劉飛様っ」
「何?」
「その者は……あなたの子。虎翔なのですよ……赤星王を宿す者」
「分かっているさ」
劉飛が不敵な笑みを見せる。
「全て。分かっている……お前もまた星王の宿命を負う者で、この地上をどうにかしたいって思っているのもな。だがな、こんな戦を仕掛けられて、黙って見てろとかありえねぇだろうが。 こいつが俺の息子だから、手を出すな?ふざけるなよ。天の思惑なんか関係ないんだよ。俺たちには、守るべき国があって、守るべき民がいる。 帝国の再興なんて、馬鹿げた幻想を抱いてる奴に付き合ってる暇なんかねえ。神様にお墨付きを頂いた皇帝なんぞ居なくったって、この世界はちゃんと回ってる。いい加減気付け、馬鹿が。全く、智司が聞いて呆れる。いいか?我が子だろうが何だろうが、この俺の前で、愚かな戯言を吐いて狼藉を働くというなら、容赦なく斬り伏せる。お前だって同じだ」
「……劉飛様」
彼の人は、その信じる道を行く事に迷いがない。最早、どちらが正しいとか正しくないとか、そういう問題ではないのだ。これは、己の信念を貫く為の戦い。 だから、そこに退くという選択肢など始めからないのだ。
「そこをおどき下さい、周藍様」
周藍が呆然と立ち尽くしていると、杜陽が自分の盾になるように馬を進めて、彼らの間に立ちはだかった。
「杜陽様……どうか」
後ろから懇願するように声を掛けた周藍の顔を、杜陽はもう振り返らなかった。その意識は、目の前の劉飛にすべて注がれている。
……自分にはもう、この者たちを止められないのか……
そこへ後方に蹄の音がして、見れば劉朋と猩葉の馬がこちらに近づいて来る。その劉朋の馬には、奏が同乗していた。
……どうして、奏が……
奏の登場に、周藍は更に困惑した表情を浮かべた。八卦師であった自分が、こうも事態の把握の出来ない場面に遭遇する。そんな事実を認めたくは無かった。
劉飛は、そんな彼らの様子を冷めた目で見ていた。
……あれが宿命に縛られた者の姿か……哀れなことだな……
時の流れの外に取り残された二人から視線を反らすと、こちらに敵意むき出しの視線を向けている杜陽に視線を戻す。
「ま、細かい誤算はあったが、一応役者はそろったか。……黒鶯」
「はい」
「大丈夫、天運はこちらにある。きっと上手くいくよ」
そう言った劉飛に、戦神の姿を見て、黒鶯は自然と居ずまいを正す。
「そちらは任せる。打ち合わせ通りで行くぞ。奴の足は俺が止める」
「畏まりました。ご武運を」
「おう。そっちもな」
劉飛はにこやかに言って鐙を蹴った。
その姿を目で追う黒鶯の前で、劉飛の剣が太陽の光に煌めいて、勢いよく杜陽の剣とぶつかった。
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