第157話 蒼天の下で

 劉朋は、たった今起こった出来事を、まだ受け止められずにいる。奏の消滅という事実は、それを受け入れられない彼の中で、まだ現実だと認識されていなかった。呆然自失としたまま、泣く事もできず、どうすればいいのかも分からずに、ただ哀しみに打ちひしがれる周藍を見ているばかりだった。


 やがて、周藍が顔を上げた、そこにはもう、涙の痕は無かった。彼はその哀しみを、心に押し込めたのだと、そんな事を思った。

「劉朋……」

「……はい」

 名を呼ばれて応えると、手に蒼玉を持たされた。

「周藍様……?」

「……後は、頼む」

 ただ、そうとだけ言って、周藍は傍らに落ちていた宝剣を拾い上げ、立ち上がった。



 周藍は、そのまま真っすぐに劉飛の元に赴いた。

「劉飛様」

 その傍らに跪いて、耳元に声を掛けると、劉飛が目を開いた。

「詔をお受け下さい」

 そう言って、周藍は懐から詔を取り出した。劉飛はそれを見やったが、手に取ろうとはしなかった。

「劉飛様、四天皇帝の詔を、どうか受け取って下さい。これは、あなたのものです」

「……ら…………ねぇ……」

 劉飛の口から、掠れた声が漏れ出る。自分の意志では、もう指ひとつ動かすことが出来ないのか。そう考えた周藍は、自分から劉飛の手を取り、詔を握らせようとした。 ところが、劉飛は自由にならない筈の手を動かして、彼の手を振り払ってしまった。

「劉飛様……?」

 戸惑う声を上げた周藍の耳に、今度ははっきりと、劉飛の声が聞こえた。

「……んなもん……いらねぇ……って……いってんだよ……」

 吐き出すように言って、劉飛は苦しそうに咳き込む。


「何故ですか……。そんな傷を負っていて……これを受け取らなければ、あなたは死んでしまうんですよ。戦のない平和な世界をつくるのだと、そう、言ったじゃないですかっ。 これがあれば、あの時の願いが叶うのですよ……」

 周藍の台詞に、何か思い出したように、劉飛が笑う。

「ふ……そんな事もあったっけなぁ……ああ……懐かしいな。あの頃は、お前と二人なら、何でも出来る気が、してた……ホント……何も分かっていないガキだったよな……俺達……」

 その人の残された時間が、もう僅かなのだと、周藍は直感的に悟る。


……どうして、こんなところで、あなたが死ななければならない……


「お願いです。これを受け取って下さい。劉飛様……」

「いらねえ……よ……んなもん、もう、この世界には必要ない。お前だって分かってんだろうが」

「劉飛様」

 尚も懇願する周藍の手から、劉飛は詔を乱暴に引き抜いた。そして、それを顔の上にかざしながら、思い切りよく、びりびりと破る。

「劉飛様……」

 呆気に取られる周藍の眼の前で、細かい紙片になったそれを、彼は天に向かってぼいと投げ上げた。


 草地を渡る風に乗り、その紙片は空に舞い上っていく。

 信じられない思いでそれを目で追う周藍の視線の先で、その紙吹雪は、上空で陽の光を受けて小さな煌めきを発すると、儚く消えて行った。


「ったく、世話の焼ける……」

 消えた光を、なお呆然と見上げていた周藍の耳に、ぼやき混じりのそんな呟きが届いた。

「……っ」

 不意に感じた嫌な予感に、慌てて視線を戻す。そして、そこに横たわる旧友の姿を目にした途端、周藍の目から涙が溢れ出した。

「劉……っ飛……」

 確認するまでもなく、たった今、彼の人の息が絶えたことを周藍は感じ取った。劉飛の体は、一旦淡く橙色の光を帯びた後、その光は収束していく。彼を守護していた星王の光が、その体から消えて行く。それは、劉飛が橙星王との盟約を果たしたということの証なのだろう。


「……覇王になることが、あなた方が交わした盟約ではなかったのですか……」

 消えゆく橙色の光に問い掛ける。だが、それに対する応えは無かった。


 気力を失い、そこに座り込んだまま、消えゆく光を見送っていた周藍は、やがて自らの体にも変調が始まったことに気付いた。

 自分の体が藍色の光に包まれながら、空気と混じり合うように薄くなって行く。この体もまた、役割を終えて、戻るべき場所へ戻る時が来たのだと悟った。




……わたしたちは、


 この世界に、


 何かを残すことが、


 出来たのかな……


 この美しい世界に……



 見上げた空は、抜ける様な夏の蒼だった。

 陽の光を孕んで金色に輝く雲。

 そんなものを最後に瞳に焼き付けて、彼は目を閉じた。




「周藍様っ」

 劉朋がその異変に気づいて、名を呼んだ時にはもう、周藍の体は光に変じて四散していた。

「……父上……」

 託された蒼玉を握り締めて、劉朋は項垂れる。心に生じた思いがけない喪失感に苛まれて、その目から、大粒の涙が零れ落ちた。立て続けに、大地に落ちては、弾ける涙の粒を、どうしても止められない。


……どうして……こんな……


 父親だと思ったことなど無かった。憎いと思ったことさえあったのに……

「どう……してだ……」

 込み上げる感情に耐えきれず、劉朋は膝を折り、大地に伏して泣いた。

 感情を持て余し、ただ泣く事しか出来ない彼に、やがてその答えは与えられた。

「それが、血の重みというやつなのだろう」

 そう、頭の上で声がした。


……血の重み……


 後は頼むと。

 自分はその思いを託されたのではないのか。

 手の中の瑠璃の感触を確かめるように握り直す。


 すると、昂ぶっていた思いが瑠璃に吸い込まれるようにして、少しずつ収まって行く。何となく、そこに奏の存在を感じた。自分は、何もかも無くした訳では、ないのかも知れない……。 目に見えるものも、見えないものも、注意深く探して行けば。


……まだ、残されたものは、ある……のか……


 劉朋がようやく顔を上げると、そこには藍星王が佇んでいた。

「少しは落ち着いたか?」

 そう問うた星王は、蒼天を仰いでいた。

 長く己と共にいた者が、最後に見た情景を心に留めるようにして。


「……ようやく……逝くことが出来たのだな……」


 誰にともなく、そう呟いたのが聞こえた。

 そして黙とうをするように、僅かの間、天を向いたまま瞳を閉じていた。





 やがて、目を開いた藍星王は、少し離れた場所に横たわる劉飛の傍らに行った。膝を付き、その体のあちこちをまるで検分する様に丁寧に触れて、それから、何かを探すように、その周囲を見渡した。

「橙星王の気配もなし、宝剣もなし、か」

 呟いて、智の司は思案顔になる。

「……謀られた、かな。これは」

 そう言って立ち上がると、藍星王が劉朋の元に戻って来た。


「おい、聞いているのだろう、さっさと顔を出せ」

 劉朋に向かって、藍星王が言うと、果たして彼の体は蒼い光に包まれて、次の瞬間にはもう、そこに蒼星王が立っていた。

「だいたい、お前と、赤星王がいて、何だって橙星王ごときに出し抜かれる」

「杜陽を覇王にするには、我らは傍観者であるべきだと、そう言ったんだよ、赤星王が」

「かわいい子には、旅をさせよ、か。馬鹿馬鹿しい……責任を取れ」

「責任?」

「宿主を失ったくせに、橙星王の奴はそのまま姿をくらました。恐らく宝剣も一緒だ。これがどういう意味だか分かるか?」

「天界に……いや、例え九星王剣を持っていても、我らには天界の門を開くことは……」

「剣さえあれば、門を開くことの出来る奴が、約一名おるであろう」

「まさか……」

「そのまさかだろうよ。橙星王は冥王と手を組んでいた……出し抜かれたのだ、我らは。だから、そなた、責任を取って、この瑠璃の依代よりしろとなれ」

 藍星王が、劉朋の手の中の瑠璃を、ひょいと掴み上げる。


「俺が、瑠璃のか……」

「そうだ、それこそ本望であろう」

「いや、しかし、それでは、劉朋は……」

 覇王となる資格を失う。結晶化した瑠璃は、まだ脆弱で、いつまた砕けてしまうかも知れない。それを守護することを第一に考えれば、藍星王の言う様に、一旦我が身に戻すのがいいのだろう。

「私なら、構いません」

 劉朋がはっきりとした口調で言った。

「そもそも、私はそのような器ではないのですから」

「我の、見立て違いと申すか」

 劉朋の言い様に、蒼星王が顔をしかめる。

「いえ。滅相もございません。ただ私は、杜陽の側にいて、これを補佐するのが、多分、分相応なのだと思うのです。それが、父や母が共に願った、この世の平穏に繋がる道になるのだろうと」

「そうか……」

「だから、どうか、瑠璃を天上にお連れ下さい。その真の輝きが戻る時こそ、この地上に本当に平穏な世が訪れるのだと。……そう信じて宜しいのですよね?」

「……ああ。そうだな」

 蒼星王が頷いて、藍星王から瑠璃の蒼玉を受け取った。蒼星王が瑠璃を自ら胸の辺りに掲げると、それはゆっくりと、彼の体の中へ沈んでいく。その光を完全に体に収めて、蒼星王が劉朋の方へ向き直った。

「劉朋……」

「はい」

「色々と世話になった」

「いえ……私の方こそ」

「息災で」

「はい……」

 劉朋は感慨深い思いを抱きながら、深々と頭を垂れた。

 空気が揺れて、大きな威圧感が不意に消えた。劉朋が頭を上げた時にはもう、二人の星王の姿はそこに無かった。





 風が草地を渡る。

 神の姿を追って振り仰いだ空には、ただ雲が流れているだけだった。

 もう、この広い大地に佇む者は、劉朋の他に誰もいなかった。




 劉朋は、周囲に横たわる躯(むくろ)の一つ一つに、短い祈りを捧げ、それから杜陽の元へと向かった。

 奏が止血の為に巻いたのであろう布が、血を吸って赤く染まっていた。だが、弱々しくはあるが、杜陽はまだ呼吸をしていた。劉朋はその傍らに寄って、杜陽が負った傷の具合を改めて確かめる。


……これは……


 出血こそ多いが、受けた傷は巧みに急所を外れていた。信じられない思いに、思わず声が漏れる。

「まさか、初めから……」

 劉飛には、杜陽を殺す意志などなかったのだ。藍星王の言う様に、橙星王が冥王と手を組んでいたのだとしたら、その死さえも、初めから計算の内だったということになるのか。自分は死んでも構わないと。劉飛はそう考えていたというのか。


……あの方は、自ら望んで冥府へ下ったというのか……


「……まさか、な」

 劉朋は考えても答えの出ない問いを心の隅に追いやると、杜陽の体を抱え上げて、馬に乗せた。そしてその手綱を引いて、重い体を引き摺るようにしながら、ゆっくりと一歩ずつ歩き出した。



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