第144話 桂花の恋
杜亮は家の自室で、持ち帰った資料の吟味をしていた。この行軍に関わる雑事はほとんど杜亮の仕事である。兵の選抜から編成、物資の調達、等々、細かい仕事が山積みになっていた。
折角、周藍が河南にいるのに、やはりそこも杜陽の独占状態で、申し訳程度に意見が貰えるだけというのが何とも溜息の出る所である。まあ、それも、周藍が赤星王番なのだと思えば、文句も言えない。
今回は、劉朋が同行するので、作戦の立案関係をそちらに丸投げ出来たのは、大いに助かった所だが、それでも忙しい事には変わりがなかった。
そんな杜亮が、山の様な書類を前に難しい顔をして考え込んでいると、琳鈴がお茶を持ってやって来た。
「一息入れられたらどうですか?」
言いながら琳鈴は、卓上に茶器を置く隙間のない事に苦笑して、杜亮にその不都合を目で訴える。
「……あ、ああ。済まない」
杜亮は、慌ててその辺の書類を脇に寄せた。
程なく、芳しい香りが辺りに立ち込めて、その香りに惹かれる様に杜亮は文字を追っていた目を上げた。
……これは……桂花か……
予想通り、渡された茶碗の中で、金色の波間に小さな星が幾つか浮かんでいた。
「……ああ、もうそんな時期なんですね」
その優美な色とほんのり甘い香りに、心がほっとする。その横で、琳鈴は卓上に広げられた書類に目を落として、顔を曇らせる。
「どうして……戦など始められるのですか」
責める様な口調ではなく、ぽつりとそう呟かれた。
「先生……」
「この河南は、こんなに平和なのに。向こうから仕掛けられたという訳でもないのに……どうして」
その問いに対する答えなら、いくらでも並べたてることは出来る。だが、何を言っても、琳鈴には詭弁に聞こえる事だろう。
「……それが、杜陽の宿命だからです」
少し考えて、杜亮は、ただそうとだけ告げた。杜陽という人間を良く知っている琳鈴には、それで十分に伝わった様だ。琳鈴は俯いて、溜息をひとつ落とす。そしてしばらくの沈黙の後で、言った。
「私は、杜陽を少しぐらい、恨めしく思っても構わないかしら……だって、あなたがいない間、私はずっと、あなたが危険な目に遭うのではないかしらって……心配で夜も眠れなくなってしまうのよ」
自分より十一も年上の琳鈴が、まるで子供の様に少し拗ねた風にそう言った。彼女のそんな様子に、杜亮は思わず笑みを零す。
「危ない事なんて、何もありませんよ、先生。杜陽と一緒なのですから。何かあれば、奴は必ず、この私の楯になってくれますしね。あれは本当に、頼りになる弟ですから」
「……私には、ただ待っている事しか……出来ないのですね」
そう言って自分を見上げる琳鈴の瞳は、憂いを帯びていた。平静を命じていた心が微かに波立った。
「ええ。待っていて下さい。我々がここに戻る為の標として、先生は、ここにいて下さい……お願いします…………」
そんな事をするつもりはなかった。この人と自分の運命は交わる事はないと知っていたのに。ただ、感情に流された。気が付けば杜亮は、琳鈴を引き寄せて、その小柄な体を抱き締めていた。
その腕の中で、囁くような声がした。
「必ず……戻って来ると……約束して下さい」
涙の色を帯びた声に、そして腕の中の温もりに、心に押し込めた思いが、こじ開けられた。答えを催促するように、自分を見上げた琳鈴の瞳に心が囚われる。
「……必ず、戻ります、ここへ」
言いながら、杜亮はそっと唇を重ねる。その触れ合った場所で、せつないばかりに漏れる吐息に引き込まれそうになりながら、しかし杜亮は、自分を戒める様に、再び心を閉ざして思いを引き剥がし、ゆっくりとその身も引き離した。
……深入りをしては……いけない……
戻っては来る。だがそれは、別離を告げる為の帰還になるのだから。
全ての片が付いたら、自分は河南を去るつもりでいる。この身に宿した巫族の宝珠のせいで、命を落とした匠師たちの為に、巫族を守護する存在となるのだと、もう、だいぶ前から、そう決めていた。だから、琳鈴が自分に向ける思いに気付いてから、出来るだけそこから遠くにいようと、努力をしていたのに。
思いを残していく事ほど、残酷な事はないから……
これ以上、距離が縮まらない様にしなければならない。
「城へ行って参ります……」
卓上に広げていた紙を手際よくまとめて、まだ何か言いたそうにしている琳鈴をそこに残したまま、杜亮は部屋を出た。
「お帰りは?いつ?」
背中から追いかけて来た琳鈴の声に、杜亮は一瞬足を止めたが、そこで振り返る事はしなかった。
「……分かりません」
そして、その気配を振り切る様に、そこから立ち去った。
幸か不幸か、出陣の慌ただしさに紛れて、それから杜亮は城に詰め切りになった。
たまに着替えを届けに来る琳鈴とも、意図的にそうした訳ではないのだが、行き違うことが多く、顔を合わせる事はなかった。自分たちは運命によって隔てられているのだから、こんなものかと、自嘲気味に思う。
結局、それから半月の後、出陣の日まで、杜亮が琳鈴の顔を見る事はなかった。
その日。出陣の隊列を見送る沿道の人々の中に、琳鈴の姿があった。
それに気付いて杜亮は、意識的に笑顔を作って手を振った。返された笑顔が、どこか寂しげ見えたのは、杜亮の気のせいだろうか。
通り過ぎてから、肩越しに振り返ってしまったのは、とうに腹を括っていると思っていた心が、実は大きく揺れ動いていたからだろうか。
その一瞬に、杜亮の瞳が捕えた残像は、彼女の瞳から零れ落ちた涙のきらめきだった。思いがけず、胸の奥深いところが、チクリと痛んだ。それに気付かないふりをして、杜亮は前に向き直ると、そのまま馬を進めた。未だどこに続くのか判然としない未来の為に、後ろに残していくものの事は、きっぱりと頭の中から追い出した。
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