第34章 真実を映す瞳
第145話 橙星王の願い、劉飛の願い
大陸歴二七一年、盛夏。
広陵国、西畔。
その町の中心に位置する璋家の屋敷は、人気もなく静まり返っていた。春先には見事な花を咲かせることで知られる屋敷内の梅林も、今は見る者もなく、その静寂の中で、時折そよぐ風に葉を揺らすのみである。
その梅林の奥。この家のご神木とも言うべき樹齢数百年の梅の古木に、劉飛は背を預け、ひとり抜ける様な夏の蒼天を見上げていた。
夏の暑さも、この西畔では河南ほど不快には感じない。この様な木陰にいれば、湖面で冷やされた風が心地の良い涼を運んでくれるからだ。
……矢張り、はっきりと決着を付けなければならないのだろうな……
向こうは、それを望んでいる。
向こう……杜陽は、そして赤星王は。
河南という一国の王では、到底満足出来ないのだ。そもそも、そういう宿命を負わされているのだから、放っておけば、当然の様に、覇道を突き進む。
「宿命なんぞに引き摺られやがって……馬鹿が……」
今更、何の為の天下統一か。そもそも、奴にはそれが分かっていない。宿命だから。星王に選ばれたからと。そんな取って付けた様な理由で覇王を目指す。そこに少しの疑問も抱かずに……
風が葉を揺らす度に、眩しい盛夏の日差しが緑の木漏れ日となって劉飛の顔に零れ落ちる。 蒼天を見ていた瞳はいつしか、そんな眩しい光を纏う緑に引き寄せられる。 眩い緑の光……それは今なお、彼の心に懐かしさを湧きおこす。
「……麗妃」
……私達の息子を、虎翔を頼みます。
光の中から響く声に、劉飛は改めて親の責任というものを思う。理由は多々あれど、結果として虎翔という存在を他人に任せたまま、放っぽらかしのままで今日まで来てしまったというのは、自分の責任なのだろうと思う。
約束を……忘れていた訳ではない。
だが、このままでは、間違いなく麗妃に会わせる顔が無い。
「お前との約束は守るよ……必ず」
その言葉を了解したとでも言う様に、風にそよいだ葉がまた揺れて、そこに強烈な緑の閃光を生じた。思わず目を細めた所で、劉飛は側に人の気配の現れたことに気付く。彼がそちらに目をやったのと、そちらから声を掛けられたのと、同時だった。
「……劉飛様」
「ああ、早かったな、黒鶯」
言いながら木に寄りかかっていた身を起こし、少し感傷に浸っていた心を現実の方へ引き戻す。
「いえ、朱凰様の出立には間に合いませんで、申し訳ございません」
「何だ、見送りをしたかったのなら、そう連絡を寄越せば、出立を少し待たせたのに」
「……そういう訳では」
相変わらず素直な反応を示す劉飛に、黒鶯は好意的な笑みを見せながらも苦笑する。本音を言えば、朱雀と顔を合わせるのが煩わしかったから、帰着をわざと少し遅らせたのだ。黒鶯の目論見通り、朱凰は、その前日に、砂宛へ向けて出立していた。
「……あれの花嫁姿は、なかなかのものだったぞ。おまけに、輿には乗らず、騎乗のまま行くと言い張ってなぁ。しかも、広陵軍の精鋭をぞろぞろと引き連れて。色んな意味で盛大な花嫁行列だった。鎧を着て行かなかったのが、せめてもの幸いだったという所か。あれはきっと、末代までの語り草になることだろうよ」
劉飛は、その時の様子を思い出してか、いかにも愉快そうに笑う。
「……それはまた、璋翔様のご心中をお察し致しますね」
「ああ。曇天だったのが幸いした。今日の様な天気だったら、璋翔様は、間違いなく卒倒なさっていたことだろう」
その言葉に黒鶯は、今度は失笑しかけ、慌てて口元に力を込めて、それをやり過ごした。もうすでに、第一線を退いて隠居の身となっている璋翔には、さぞかし心臓に悪いことであっただろう。当初の予定では、婚礼は秋になってからという話だったのだが、南の杜陽が動いたという知らせが届いたせいで、このような慌ただしい出立となったのだ。河南の目的は、明らかに砂宛という新興国を潰すことであり、劉飛としては、彼らの侵攻の前に、是が非でも、広陵と砂宛の同盟関係を既成事実として作っておきたかったのだ。
それは北の存在を、容易には手の出せない大きな勢力として、彼らに認識させる為でもある。勿論、今回の河南の侵攻は退ける。砂宛は守り切る。劉飛はそのつもりでいる。だが、相手があの杜陽では、万が一ということも考えない訳にはいかなかったのだ。それはつまり、戦の前に、二人に少しでも夫婦としての時間を持たせてやりたいという、劉飛の親心でもあった。自分などに関わったせいで、朱凰はだいぶ割を食った。劉飛にはそんなじくじたる思いがある。だから、今度こそ、彼女には幸せになって欲しかった。
「……それで?周翼は何と?」
「はい、説得は続けると言っておりますが……すでに八卦師としての力も失い、藍星王の力も当てに出来ずでは、さしもの周翼様でも、いささか厳しいのではないかと」
「まあ、そちらはさほど当てにはしていないがな。こちらの意向は伝えたのだろう?赤星王の件は、こちらに任せて瑠璃の方に専念するようにと」
「はい。それでも、杜陽様の件に関しては、思う所がおありの様で、出来うる限りはと」
「……自責の念という奴か」
「恐らくは」
かつて、周翼は赤子だった杜陽を河南へ連れ去った。その結果の今日であると、彼はそう考えている様だった。
「そんな事、今更、どうこう言ったって、始まらないって言ってるのにな。仕様のない奴だよ、全く。どいつもこいつも」
「生真面目なお方ですからね。後始末をあなたに押し付けるような形になってしまう事が心苦しいのでは?」
「そういうのは、融通が利かないというんだ。後始末って言うけどな、これはそもそも、こちらが片付けるべき問題だったんだろうに……相変わらず、何でも一人で抱え込みやがる。で、例の、剣のありかは確認出来たのか?」
「ええ。それは、間違いなく、あのお方のおっしゃる通りで」
「確か、猩葉と言ったか?劉朋の護衛に付けていた?」
「左様で」
頷いて黒鶯は、猩葉が、実はかつて羅刹の王であった緋燕であり、緑星王がその体に転生の刻印を施していたお陰で、地上に転生したのだという事実を付け加えた。それを聞いて、劉飛が少し考える。 緑星王の力添えがあったのだとしても、冥王がそれを認めなければ、緋燕の転生は叶わなかった筈だ。それがすんなり転生し、あまつさえ白星王の目に止まり、更に彼が、縹氷の守者となったのは、やはりそこに冥王の明確な意志があったからだと考えるべきなのだろう。
橙星王によって持ち去られた、九星王剣を取り戻す。猩葉は、その為の『鞘』として、冥王が用意した人間であったのだ。
かつて劉飛が、翠狐の力を借りて、都の屋敷にあった社に封印していた件の剣が、ある日突然、跡形もなく消失してしまった理由が、ここに来てようやく分かった。この黒鶯が、その件に関して、一枚噛んでいたのだという事も。更に、三年前、力を失った翠狐の代わりに、八卦師として自分を使ってみないかと売り込んできたのも、こういう形で、橙星王に冥王の意向を伝える為だったのだろう。
河南の北上に対し、有効な策を考えあぐねていた劉飛に、黒鶯は九星王剣の話を持ち出し、そして告げた。九星王剣は未だ地上にあり、冥王がその在り処を知っていると。九星王剣があれば、赤星王を確実に封じられる。戦を止めるのに、これ以上の手はない。多くの人の命を犠牲にせずに済むのだ。そう考えた劉飛に躊躇いはなかった。そして、黒鶯の仲介により、橙星王と冥王との対面が成った。恐らくそこで、何らかの盟約が交わされたのだろうと思う。
だが、その内容は、人が知るべき範疇にあらずという理由で、劉飛には知らされなかった。 ただ、その後で、劉飛は改めて、橙星王に問われた。
お前が今、心から願うことは何なのかと。
「そうだな……」
劉飛は少し考えてから答えた。
「やりたいと思うことは、みんな自分の力でやっちまったし。今更、神様に何かして貰いたいとか、別にないんだが……ああ、そうだ。ひとつだけ。神様にしか出来ない事があるな」
そう言って、劉飛は白い歯を見せて、子供の様な笑顔を見せた。
「もし、願いを叶えてくれるっていうんなら……」
……それが、お前の願いか……
らしいといえば、らしい。
確認するように聞き返しながら、橙星王は苦笑した。そういう事ならば、曖昧だった自分の向かうべき先も、はっきりとする。
「承知した。そういうことならば、お前の願いは、この橙星王が叶えよう。九星王剣を手に入れ、これにより赤星王を封じよ。さすれば、全ての片が付く」
そうして、劉飛は赤星王を封じる為の、九星王剣の所在を教えられた。
「成程。猩葉があの緋燕の生まれ変わりだって言うんなら、冥王が手駒として使うには、さもありなんって所か。全く、いちいち面倒くさい仕掛けを考えやがる」
「あの赤星王様を出し抜こうというのですからね。冥王様とて、慎重に成らざるを得なかったのでしょうよ」
「分かったよ。間違いはないんだな、猩葉が九星王剣の鞘であるというのは……ならば……」
「……お前は本当にそれで、構わないのか?」
何の躊躇も見せず、決断する劉飛に、黒鶯は思わず念を押していた。
「それが河南の侵攻を止める最善の策なのだとしたら、何を迷うことがある」
「それはそうだが……九星王剣を使って、赤星王を封印すれば、杜陽は命を落とす可能性があるんだぞ。杜陽の実の父親であるお前が……」
「親なればこそ、だよ」
……私達の息子を、虎翔を頼みます。
そう、思いを託されたから。
かつてこの地に華煌帝国という統一国家が生まれたのは、李燎牙という特異な才能を持った者がいればこそだ。彼と同等あるいはそれ以上の才のあるものの存在無くして、その再現はなされるべきではない。劉飛はそう思っている。力のない皇帝の存在は、かつての華煌がそうであった様に、その体勢の維持に力を使うようになり、民の暮らしは困窮する。
ようやくその無駄な枠を取り払ったというのに、今更、この地に帝国などいらないのだ。赤星王の力を差し引いて冷静に考えれば、杜陽には、李燎牙ほどの器はない。それが何故、他の者には分からないのかと思う。子が道を踏み外そうとしているのだ。親として、これを止めるのは当たり前ではないか。
……例え、刺し違えてでもだ。
信念に裏打ちされた劉飛の決意には、揺らぎが無い。冥王が、九星王剣の使い手を、初めに考えていた劉朋から劉飛へ変えたのも、あながち間違いではなかったということか。それを頼もしく思う一方で、黒鶯は、漠然とした不安も感じていた。
劉飛には、そもそも覇王になる意思がない。赤星王が封じられて、杜陽が倒され、その上で劉飛が覇王にならないのだとしたら、橙星王も詔を受け取ることは出来ず、天界の状況は膠着したままということになりかねないのではないか。 冥王と橙星王の間には、一体どんな盟約が交わされたのだろうかと思う。 そしてそれは、本当にこの事態を収束する鍵となり得るものなのか…… 考えれば考える程、不安は増すばかりだった。そういう風に導いた立場で、今更そんな事を言うべきではないのだろうが、本当に、劉飛にやらせていいのか。黒鶯の心には迷いが生じる。が……
「行くぞ」
劉飛のきっぱりとした声に、思考が遮られて黒鶯は、はっとして顔を上げた。そして自分の目の前に佇む男の顔を、思わずまじまじと見る。そこに悲壮な影など微塵もなかった。むしろ、どこか楽しげでさえある。
……どうして……
そして気付く。劉飛は間違いなく、この先に明確な未来を描いている。そこにあるのは絶望などではなく、間違いなく希望なのだと。彼はそう信じているのだ。だから、そこには迷いも、悲壮感もない。
「行くぞ?」
再度、促されるように声を掛けられた。
「あ、ああ……」
黒鶯は、懐から黒の宝玉を取り出すと、それを両手で包み、そこに意識を集中させる。
「飛空術……」
二人の足元に光が方位陣を描く。やがて、そこに二人の体に絡み付くような風が巻き起こり、その風に揺らされた木の葉が、眩しい夏の光を弾いた所で、彼らの姿はそこから消えた。後にはただ、静寂だけが残っていた。
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