第143話 記憶の中の人
その日、河南国主、杜陽の元へ一人の客人が訪ねて来た。その来訪の知らせに、杜陽はまず信じられないという表情を浮かべた。そしてその表情はすぐに、嬉色を露わにしたものに変わった。
誰が止めるよりも先に、杜陽は勢い良く席を立ち、その者を出迎えるべく、足取りも軽く部屋を出て行ってしまった。
それに、やれやれという感じで、杜亮と稜鳳が続く。しかし彼らも、杜陽を咎めるという風ではなく、どことなく嬉しそうにしている。
きっと、待ち侘びていた人なのだ。
奏は彼らの様子にそんな事を思いながら、その後に従う。更にその後には、一体何事かと訝しむ面持ちの劉朋と猩葉が続いた。
重要な会議を中断してまで、杜陽が面会を優先させたその人物は、周藍と言った。
奏達が広間に着いた時にはもう、杜陽は周藍と再会を喜んで、抱擁を交わしていた。
歳の頃は、杜陽とそう変わらない様に見える。いやむしろ、少し若い様な気がした。その体の線の細さがそう思わせるのかも知れない。彼は、一目見たら忘れられない様な、整った美しい顔立ちをしていた。彼が、その見た目通りの年齢でない事は、奏にはすぐに分かった。しかし、八卦師が持つ独特の気配は感じられないのに、その本質を見極めようとしても、その内側を覗く事は出来なかった。
「周藍様とは、どういうお方なのですか?」
傍らにいた稜鳳に聞いてみる。
「ああ……河南とは、縁浅からぬお方でね。杜家で家庭教師をされていた事もあって……杜陽様には、剣術の師という事になる」
「杜陽様の師……」
そう話す彼らの目の前で、杜陽がやにわに腰の剣を抜く。それを苦笑しながら見て、周藍も又腰の剣を抜いた。
たちまちにして、その場で激しい剣の応報が始まる。二人の剣が交わる度に、奏られる澄んだ音に、思わず引き込まれる。そして、互いに呼吸を合わせた様に、打ち込む場所と受ける場所が寸分の差異がなく、ぴったりと重なり合う。その無駄のない動きは、まるで舞でも見ている様で、奏はその美しさに魅入られていた。
「……」
その目はいつしか、周藍の姿を追い掛けていた。
……前にも、こんな風に、彼を見ていた事は無かっただろうか……
そんな気持ちに囚われる。その美しさを感嘆と憧憬と共に、見ていた事はなかっただろうか。そう思った途端に、胸がぎゅっと締めつけられた。呼吸が苦しくなって、奏は胸を押さえて膝を付いた。
「奏様っ?」
その異変に気付いた劉朋の声に、一瞬気を取られたらしい杜陽の剣が弾かれて、弧を描いて床に突き刺さった。
「大丈夫か、奏?具合が悪いのなら、部屋に戻っていて構わないぞ」
杜陽が気遣う様に、奏の側に寄ってその肩に手を置く。
「申し訳ございません。私は大丈夫ですから……どうぞお気になさらずに」
そう言った奏を、それでも杜陽は自ら手を引いて椅子に誘って座らせると、しばしその様子を伺う。奏が笑顔を作って、大丈夫だと念を押す様に言ってようやく、杜陽は立ち上がった。
そして、傍でその様子を見ていた劉朋の方に向き直って、少し自慢する様に問う。
「どうだ、劉朋、私の師は?」
「……はい」
すでに、その迫力に圧倒されていた。それを的確に伝える言葉が、すぐには出て来ず、劉朋が言葉に詰まっていると、重ねて問われた。
「お前と、どっちが強い?」
「……それは……」
劉朋の目が、周藍を見る。
自分に剣を仕込んでくれた劉飛も強かった。周藍は、それと互角か……もしかしたら、それ以上か。劉飛に比べ、体格的に軽量であるこの周藍は、その体格の不利を補う動きの速さと技とを身につけている。 腕力のあるものは、無意識にその力に頼った戦い方をする。そう言う意味で、単純に技量だけを比べれば、強いのはこの者の方かも知れなかった。
「手合わせをしてみない事には」
「そうか。ならば、やってみろ」
「しかし……」
躊躇を示す劉朋に、杜陽が宣言する様に言い放つ。
「やれよ。河南の将軍の座を掛けて」
「なっ……」
「俺は、最強の将軍が欲しい。これから天下を取りに行く命掛けの戦に出ようって時に、何だかぐだぐだやってる様な奴が河南軍の頭じゃ、正直、困るんだ」
「杜陽様、私は……」
見透かされているのか……色々と。劉朋は呆然として杜陽を見返す。
「だから、わが師に勝って、お前が最強だって事を、この俺に証明してみせろ。簡単な事だろう。勝てばいい」
「……」
張り詰めた空気の中、そこに割って入ったのは、周藍の穏やかな声だった。
「杜陽様、お戯れはもうその辺で。私は、その様な心積もりで、河南へ参った訳ではございませぬ故」
「周藍様、海州の崔涼殿が亡くなられて、あなたが今、どこの主君にも仕えていないのは、存じております。そのあなたが、この様な時期に、この河南へ参られたのですよ? 高みの見物などしていられるとお思いですか。ここに来たからには、俺の役に立って頂く」
「やれやれ……参ったね」
周藍が苦笑する。だが、その愛想の良さそうな目は、一旦劉朋の方に向くと、たちまち鋭いものに変貌した。
「こういうのは、時期が悪かったって言うのかな。それとも、運が悪い?どうする?私はどちらでも構わないが、君には、人生を左右する大問題になるのだろう。 だから、どうするかは、君が決めるといい」
そう言いながらも、周藍はこちらを誘っている……そんな気がした。
「分かりました。お相手させて頂きます」
劉朋がやや強張った表情でそう答えると、周藍がふっと口元を緩めて微笑した。
「何か?」
それが、何となく気に障って、思わず問い質す様に聞いていた。
「……いや。礼儀正しいんだなと思って。そういう実直な所は、やはり師匠譲りなのか……とね」
「あなたは……」
こいつは、劉飛様を知っているのか。だが、それを確かめる暇を与えず、周藍は早々に剣を抜いた。言い掛けた言葉を飲み込んで、劉朋も剣を抜く。一呼吸あって、軽く撫でる様な一合目の後、劉朋は奔流の様な波に呑まれた。
……はや……いっ……
絶え間なく響く音を伴い、打ち込まれる剣の動きに、劉朋はたちまち圧倒される。受けるだけで精一杯だった。それに、周藍の繰り出す剣は、予想以上に重かった。 その華奢な体のどこに、そんな力があるのかと思う。少しずつ、体が後ずさる。
「本気を出さないと、怪我だけじゃ済まないぞ」
周藍の言葉に、気持ちも煽られる。
「ざ……けるな」
手なんか抜いてる余裕があるか。口に出さないまでも、そう反論した心を読まれた様に、周藍が畳みかける。
「殺す気で来いよ」
その端正な顔が言い様のない冷酷な影を帯びる。そこにあるのは、間違いなく殺気だ。周藍の剣が、かわし損ねた劉朋の腕を掠め、肉を抉った。その痛みさえも感じている余裕はなかった。
……本気で……殺す気か……
横に一閃された剣を今度は間一髪で避ける。体を捩り、渾身の力を込めて下から振り上げた剣が、続く一撃を受けとめた。力が拮抗したのか、そこで両者の動きが止まる。
しかし、交わった剣の向こうに見えた周藍の顔は、僅かだが口元に笑みを浮かべていた。
……同等だと……
屈辱的な思いに奥歯をぎゅっと噛み締める。
冗談ではない。
弄ばれているのだ、自分は。
奴は強い。
それ程に、強い。
そこには、歴然とした力の差というものが、確実に存在していた。
ふと、先刻の奏の姿が脳裏に浮かぶ。杜陽と周藍が剣を交えていた、その時。奏は、杜陽ではなく、周藍の方をその目で追っていた。まるで魅入られた様に。 その瞳が語る何かに、劉朋の心に怒りにも似た感情が沸き起こる。こいつも、自分と奏の間に立ち塞がる邪魔者なのだ。そう思った瞬間に、その感情に火が付いた。
……負けたくない……こんな奴に……
ここで負けたら、自分は奏の側にはいられなくなるのだ。ただ、その思いが彼の中から力を引き出した。
剣を握る手に力を込める。躊躇うことなく、意識をその一点に集中する。剣が淡い蒼色を帯びた。それに意表を突かれたのか、周藍の気に、一瞬綻びが生じた。すかさず劉朋は剣に圧し掛かっていた力を押し返し、そこに渾身の斬撃を叩きこんだ。刹那、鋭い金属音を伴って、周藍の剣が折れた。
「お見事……」
周藍が不敵とも見える笑みを浮かべ、そう言って寄越す。それに劉朋は、僅かに顔を顰めた。
自分は、星王の力を使って勝った。そして、その事を、こいつも知っている。剣を納めながら、屈辱的な思いが広がって行く。
……だが、そうでなければ、確実に負けていた……
「それでも、勝ちは勝ち。それで、君は、自分に大事なものを守れたのだろう?その結果は、素直に喜ぶべきだ」
周藍が握手を求める様に手を差し出す。劉朋が、不本意ながら、その手を取ると、ぐいっと力を込めて手を握られた。
そこに何もかもを見透かされている様な、居心地の悪さを感じる。それはかつて華煌京で、劉飛と共に過ごした日々に良く感じた様な、少し懐かしい様な感覚にも似た……
不意に、脳裏に幻影が浮かび上がる。
奏と、周藍と、そして劉飛。
その姿が、様々に入れ替わり……
交わり……移ろっていく。
……記憶。これは、奏の記憶か……
劉朋は思わず、繋いだ手を勢いよく振り払う。
今のは、恐らく、蒼星王が封じた、奏の記憶。それが、自分の中から零れ落ちて来た事に、劉朋は戸惑いを隠せない。そんな自分を、不審な表情で見た周藍の顔を、まじまじと見ていた。
……奏の記憶の中には、こいつがいる……
それは、どういう事だ。
その答えを導き出そうとする劉朋の思考は混乱していく。
「……お前は」
「私を赦せとは言わない。ただ、このままでは、瑠璃の輝きを取り戻す事は叶わない……願う事が同じなら、我々は手を結ぶべきではないのか、と。蒼星王に会ったらそう言ってみてくれないかな」
言うだけ言って、周藍は踵を返し、杜陽の御前に戻る。
「……」
謎めいた言づての理由は、この者が自分と同じ宿命を抱えている事を示している。問うまでもなく、声が聞こえた。
……あれは智司の藍星王の宿主、周翼。お前の父だ……
「……父……わたしの……」
それはつまり、奏の……
その隔ての長き故か、劉朋の中には父に対する怒りや嫌悪の類は浮かんでこなかった。むしろそこに現れたのは、嫉妬にも似た羨望の思い。
ただひとり、奏にあんな笑顔をさせる事が出来る者。それが彼なのだと、思い知らされる。自分ではなく、この男が……
杜陽に呼ばれて劉朋は、周藍と共にその御前に畏まる。
改めて将軍として、力を尽くせという杜陽の労いの言葉もどこか上の空で聞いていた。周藍は特に位を持たず、杜陽の護衛に加わるという事になった様だ。
……瑠璃の輝きを取り戻す為に……奏の記憶が開封される……のだとしたら……
もしかしたら、奏を母と呼べる日が、来るのだろうか。行き場のない思いに、細い光明が差し込んだ気がした。そんな未来に、劉朋はぼんやりと思いを馳せる。その為に、過去の全てを切り捨てろと言うのなら、自分は捨てられるのかも知れなかった。
奏に母として、私の名を呼んで貰えるのなら……きっと何もかも、捨てられる。
そう思った。
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