第139話 南より来たる死神

 遠慮がちに数度、扉を叩く音がしていた。混濁した意識の中で、そう認知しながら、次に意を決して少し力を込めて叩かれた音に、周藍は床に仰臥した状態でようやく意識を取り戻した。


 目の前の床に、八卦に使う蝋燭が言い様のない形状で溶け落ちて固まっていた。恐らく、自分が倒れたはずみに、共に倒れ、その状態で溶けて崩れたのだろう。そこに窓から陽の光が差し掛かっていた。

「……私はまだ……生きているのか」

 重く感じられる頭を押さえながら、半身を起こす。昨夜の事が、夢の様に思われて、だがそこに藍星王の気配が感じられないという事実に、周藍は、それが現実であったのだと認識する。何とも言えない、心許ない感覚を覚えた。


「周藍様……」

 名を呼ばれて、再び戸が叩かれた。それは宰相の梗琳の声だった。

「どうした?この様な早くから……」

 言いながら戸を開けると、どこか落ち着かない様な気配を帯びた梗琳がそこにいた。

「ああ、周藍様。実は、崔涼様がお呼びに……」

 言い掛けて、梗琳はいつもきちっとしている周藍の着衣の乱れに気づいて、言葉を切った。

「……どうか、なさいましたか……そう言えば、お顔の色も宜しくない様な」

「いや……大丈夫だ。昨夜、少し寝苦しかっただけだから。すぐに仕度をする。崔涼様は、用向きは何と?」

「いえ特にそれとは。ただ、昨夜、崔涼様の元に、諸国を旅して歩いているという、隻腕そうわんの占術師が参りまして……」

「隻腕の……ね」

 身支度を整えていた周藍は、そこで手を止めて、とある人物の顔を思い起こす。

「巷に流布している、噂話の類を面白可笑しく話した様なのですが……その話の中に、どうも気になる事がおありになった様で」

「気になる事?」

「何でも、それが十一年前の……御父君の死に関する事の様で」

「……そうか、崔遥様の……」

 随分と対応が早い。そう思ってふと笑みを零した周藍を梗琳が怪訝そうな顔をして見ている。

「崔涼様には、すぐに参りますとお伝えしてくれ」

「あ、はい。承知致しました」

 軽く会釈をして踵を返した梗琳を見送って、着替えをしながら、周藍はこれから始まるであろう茶番の内容に思いを馳せる。


……対応が早いと言うよりも、見越していたのだろうな、白星王も……私の八卦師としての能力が、間もなく失われる事を……


 何しろ、彼女は未来見なのだから。藍星王の気配を感じなくなったという事は、周藍の八卦師としての力が弱くなった事に外ならない。もう、自分とは関係の無い所で、星が動かされ始めている。 それは、周藍もまた、彼らに動かされるべき星の一つになったという事だ。

「……さて。私には、一体どんな役が振られたのだろうな」

 姿見に映る自分に問いかけて、周藍は気持ちを落ち着かせる様に目を閉じる。どちらにしろ、湖水の連中が仕掛ける茶番だ。面倒な役である事には変わりはないのだろう。





 果たして、周藍が崔涼の御前へ行くと、そこには梗琳の他に、見忘れ様の無い人物、黒鶯が畏まって控えていた。

「お待たせ致しまして、申し訳ございません」

 周藍がそう言って、崔涼の前に片膝を付いて、国主に対する挨拶をする。

「体調が優れぬそうだな。少し休息が必要か?」

「滅相もございません。お気遣い恐れ入ります」

「早速だが、昨日、そこの占術師から興味深い話を聞いた」

「はい……」

「我が父、崔遥は八卦師によって謀殺されたのではないか、という話だ」

「八卦師に……でございますか」

「燎宛宮の星見の監視をもすり抜ける程の腕のいい八卦師。そういうものが、この世には存在しているのだそうだな」

「それも巷説こうせつの類でございましょう」


「あの時、父上は毒を飲んでの自死だと言われた。今思えば、毒死にしては、遺体がきれい過ぎた様に思うのだ。傷一つなく、苦しんだ後もなく、まるで眠る様に亡くなられたかの様な……そんなご遺体だった。 天寿だったのだと言われれば、きっとそのまま信じただろう。だが、そうではなく、わざわざ自死だと言われたのだ。それは、真実を隠す為に、燎宛宮が色々と画策を行った故なのではないのか……」

「崔涼様、すでに燎宛宮はこの世には存在せず、様々に語られる話も風聞、巷説以上のものではございません。 今更、真相など探り様もないのです。全てはすでに過ぎ去った事。それにいちいち気を散らせれて、振り回されるのは、如何なものかと存じますが」

 少し苛立ちを含んだ様な声になってしまったのは、事の成り行きを探る様な、黒鶯の視線を感じたせいだ。言ってしまってから、崔涼が、実に不本意そうな表情になった事に気づいて、周藍は唇を噛んだ。


……そういう……事か……


 崔涼は除かれる。

 それが湖水の意志なのだ。


 あれから三年の時を経ても、崔涼は未だこの海州を掌握し切れていない。梗之騎という存在を疎ましく思いながら、それを潰す事も味方に引き入れる事も出来ずに、不安定な状態のまま国主の椅子に座っている。それはそうだろう。そもそも、崔涼は国主の器ではないのだから。ただ、次期海州国主を擁立するまでの時間を稼ぐ為に、そこに座らせたに過ぎない。元々の領地であった湊都ではなく、交通の要衝だというもっともらしい理由を付けて、崔涼をこの地に引っ張り出して来たのは、他でもない周藍だ。


 時が必要だった。海州という国の礎を築く為には、仮初めにも誰かを国主に立てなければならなかった。 三年前、梗之騎が今少し健在であれば問題はなかったのだが、あの時の彼は、とても国主を任せられる様な状態ではなかった。そして梗琳では、崔涼を抑え切れなかった。それで、崔涼を国主にしたのだ。



「お前は、自身が八卦師ゆえに、そういうもの言いになるのだろう」

「……」

「私は父の死の真相を知りたいのだ。その死を歪められ、どれほどの無念の内に死んで行ったのかと思うと、遣り切れぬのだ……」

「お気持ちはお察しいたしますが、しかし……過去は過去として、どうぞその胸にお収め下さい。一国の国主たる者が、その様に過去に執着されたままでは、国が進むべき方を失います」

「そなたは八卦師なのだろう」

「崔涼様」

 諌める様に呼んだ声も、その思いを止める事は出来なかった。

「そなたになら、父の死の真相を明らかにするすべがある。八卦を用いて、過去の真実を知る術を持っているのだろう」

「……知って、どうなさるのです」

「私は知りたいのだ。ただ、知りたいのだ」

「知れば、失うものもございます。それでも、と申されますか……」

「それでもだ」


 これはもう止められない。明らかに、大きな力が事態を一つの方向へ押しやっている。憤りを感じながら見た黒鶯の顔に表情は無かった。周藍は遣り切れない思いを抱きながら立ちあがった。こんな強引な方法を取らずとも、後数年も待てば、崔涼は国主を退く事になったのだろうに。……それ程に……もう時がないと言うのか。

「崔涼様。八卦など使うまでもございません」

「……?」

 言われて怪訝そうな顔をした崔涼を、正面に見据えながら周藍が静かな声で言った。

「お父上、崔遥様を殺めた八卦師は、この私にございます」

「何……だと……」

「おっしゃる通り、八卦には、傷も付けずに苦しみもなく、眠る様に死に至らしめる技というものがあるのですよ」

「……お前は一体、何を……」

「……操星術」

 周藍が右の手を開いて、それを眼の高さに掲げた。寸分を置かずそこに、青みを帯びた小さな光の塊が生じた。その美しい輝きを、崔涼は吸い込まれる様に見据えている。その眼の前で、光を包む様にして周藍の広げた指がゆっくりと閉じていく。周藍は、その光を全て包み込んだ拳を、瞬間、力を込めて握った。その指の隙間から、光が零れ落ちて、床で華やかに散り消えた。


 その光景に見入っていた梗琳は、不意に聞こえた、どさりという重たい音に、反射的にその音のした方を見た。そこに、玉座の上に、崔涼が崩れるようにして座り込んていだ。


「……知れば、失うものがあると、申しましたのに……」

 冷めた目をした周藍がそう呟いた時には、崔涼はもう、事切れていた

「崔涼様っ!」

 駆け寄った梗琳は、国主の死を知ると、信じられないという顔を周藍に向けた。

「……どうして……こんな……」

「崔涼様は、私という毒の使い方を誤ったのですよ」

「国主を手に掛けておいて、貴様はっ、その言いざまかっ!」

 その胸倉を掴んで、梗琳がありのままの感情をぶつける。有能で従順な家臣。梗琳は周藍の事を、そういう風にしか思っていなかったのだろう。 それでいきなりこんな場面に遭遇すれば、我を失っても当然だ。

「梗琳、崔涼様は、急な病で亡くなられた」

「……なっ。ふざけるな、私は……」

「あなたは、何も見ていない。そう言う事になさって下さい。この海州と、あなたが本心からお仕えするお方の為に」


……こいつは、何を言っているのか……


 梗琳の心に戸惑いが広がって行く。未だ、現実とは認められない現実の前で、冷静さなどどこかに吹き飛んでしまっていた。何が何だか分からない。ただ、混乱していた。

 周藍の言い分は、到底、認められるものではない。しかし、この状況下において、何が最善かと言われれば、確かに、それが一番良い方法であるのかも知れないという気持ちにもなる。だが、それは又、彼が罪を逃れるための詭弁であるとも感じる。


 周藍を捕え、相応の処罰を与えなければならない。宰相として、間違いなくそれが選ぶべき道であろうと思うのに、そう決断できない自分がそこにいた。呆然としたままそこに佇む梗琳に、周藍の声が届く。

「……あなたにはやはり、荷が重かった様ですね。ならば梗之騎様に、裁量を仰がれると宜しいでしょう。あのお方なら、きっと最良の選択をして下さる筈ですよ」

「叔父上様が……」

 そう呟いて梗琳が顔を上げた時にはもう、彼の他にそこに人の気配は無かった。


「……これが……八卦師というものか……」

 気が付けば、額にはびっしりと汗が噴き出していた。込み上げて来る吐き気を抑えながら、おぼつかない足取りで、梗琳は梗之騎の元へ向かった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る