第140話 高嶺に咲く花
梗之騎の屋敷を訪れた梗琳を出迎えたのは、春明だった。彼女によれば、梗之騎は早朝から、朝餉の為の魚を釣りに海岸へ出向いているという。
居間に通されて、そこで所在なく座っていると、やがて春明がお茶を入れて持って来た。
普段は如才なく愛想のいい梗琳が、今日は差し出されたお茶に軽く頭を下げるのみで、見れば、明らかにそれと分かるほど、深刻な顔をしている。顔の色もあまり良いとは言えなかった。
これは、何かがあったのだろう。直感的にそう思った春明は、別室に下がらずに、そのまま梗琳の向かいの席に腰を下ろした。
そこに、ふわりとほの甘い香が部屋に広がった。それに気付いて、梗琳が俯いていた顔を上げると、いつの間にか目の前に座っていた春明と目が合った。途端に彼女が花の様な笑顔を見せる。
「冷めたい内に、どうぞ」
「ああ……どうも」
促されて生返事を返しながら、梗琳は冷えた茶碗を手に取る。そこから伝わる冷気が、彼を少し正気付かせた。
「何かご心配事でもございましたか」
「……え?」
朗らかに問いかける春明の声に、視線を上げると、今度は、こちらをじっと見据えている彼女の瞳に完全に捕えられた。
自分を包み込む様なその瞳の光に、心が慰められる様な気がした。何を言っても、受けとめてくれそうな、そんな温かで大きな気に包まれる。それに釣られて思わず口に出かかった言葉を、梗琳は慌てて飲み込んだ。この様な話をおなごに聞かせるものではないと思う。
「梗琳さま?」
「あ……いえ……」
自分のしようとした事を誤魔化す様に、梗琳は茶碗に口を付け、良く冷やされている茶を一気に喉の奥に流し込んだ。それでぼんやりとしていた意識が、大分はっきりとした。
「大丈夫ですか?」
「ええ……大丈夫です」
問われて、今度は僅かだが笑みと共に応えを返す事が出来た。少し苦味の残るお茶の効き目なのか、気持ちが少しずつ落ち着いていく。
「城で何か、あったのですね?」
単刀直入にそう問われて、梗琳は驚いた様に春明の顔を見る。そんな梗琳を見て、春明が笑みを零す。
「……ごめんなさい。本当に、判り易くて。そういうお人柄なのですね」
「どういう意味でしょうか」
「善良なお方だと申し上げているのですわ」
「国を動かす様な仕事をする器ではないと?」
少し気分を害した様な梗琳の反応に、春明は又笑う。
「あらまあ……それは欠点ではなく、美徳だと申し上げましたのに……仕様のないお方」
「……」
柔らかい笑みと共に零れ落ちる言葉は、そのひとつひとつが眩しい様な煌めきを帯びて梗琳の中を通り過ぎていく。
このお方は、あの燎宛宮で貴妃であったお方なのだと改めて思う。下働きの様な事をしていても、何気ない所作に、そしてその言動に気品があって物怖じがない。もしかしたら……
「国の大事に関するお話を聞いて頂けましょうか……」
「まあ何でしょう?」
春明は、それで少し真面目な顔になったが、それでもそこに怯む様子は見られなかった。そんな彼女に促される様に、梗琳は城での出来事を語り始めた。
時折挟み込まれる春明の簡単な問いに導かれながら語る内に、混然としていた状況の整理が次第に付いて、何となく進むべき道の様なものが見え始めて来た事に、梗琳は自身でも驚いていた。華煌という一つの帝国を仕切っていた燎宛宮の、
「梗琳様は、宰相というお立場故に、国主である崔涼様にお仕えになっておいででしたけれど、もしそういうお立場になかったら、あなたが、真にお仕えしたいと思うお方は、どなたになるのでしょう?」
「それは……」
問われるまでもなく、自分が忠誠をもって仕えたいと思う人間は、ただ一人しかいない。
「そこが、あなたが生きるべき
……この海州と、あなたが本心からお仕えするお方の為に……
周藍の残した言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
そこへ梗之騎が帰った声がした。梗琳は胸に抱いたひとつの決意と共に、叔父との面会へと赴いた。
「それは又、大胆な所業であるな」
梗琳の報告に、梗之騎が愉快そうに笑った。
「叔父上様……」
「そして、精緻にして、狡猾でもある。周藍殿は国主の椅子を空けてくれたのだ。自ら、全ての泥を被ってな」
目の前で見ていた自分よりも、正確に、しかも瞬時にその本質を見て取った叔父に、梗琳は自らとの歴然とした器量の差を感じた。全く、自分などはまだまだだと思う。
……善良なお方だと申し上げているのですわ……
春明に言われた言葉が、やはり身に染みる。褒め言葉だと言われはしたが、善良なだけでは駄目なのだ。真っ直ぐなだけでは、物事を片側からしか見る事が出来ない。それでは駄目なのだ。本当に守りたいものを守る為には、もっと思慮深く、広い視野を持たなければ。冷静である事、それは時に冷徹にも変わるだけの強さを持つ事……
……私には、足りないものだらけだ……
梗琳は自嘲する。そこに又、春明の明るい声が響いた。
「失礼致します、宜しいですか?」
梗之騎が構わぬと言うと、戸を開いて春明が姿を見せた。一瞬、そこに光が差した様に見えて、梗琳は瞬きをする。
「お茶をお持ち致しました。難しいお話は終わりまして?」
「まあ、ぼちぼちとな。そう簡単に済む話でもない故、朝餉を先にしようか」
梗之騎がそう言うと、春明がその意を得たという風に、頷く。
「梗琳様も、朝早くから城にお出でで、朝餉はまだなのでしょう?すぐに仕度をいたしますから、ご一緒に召し上がっていらして下さいな」
「はい……ありがとうございます」
お茶を置いて、今度は少し急いだ風に出て行った春明の後ろ姿を、何となくほっとした様な面持ちで見送っていた梗琳に、その横から梗之騎の冷めた声が掛かる。
「何を見惚れておる」
「はっ?」
どうして、ここで顔が赤くなるのか、という間合いで、自分でも訳の分からない内に梗琳は赤面していた。
「あ、いえ……私は別に、そういう……積りでは……」
尻つぼみに小さくなって行く梗琳の声を梗之騎の豪快な笑い声が掻き消す。
「本当に、分かり易いな、そなたは。見事に顔に出る。全く、春明の言う通りだ」
春明と、その名を聞いただけで、何故か動悸がした。
……きっと疲れているのだ。何しろ朝早くから、あまりにも多くの事があったせいで……
梗琳は何の疑いもなく、そう信じていた。やがて朝餉の良い匂いが漂って来て、またその匂いに癒される。それを食べればきっと、すっかり元気になる筈だと。彼はそう信じて疑わなかった。
だが、その日から、梗琳は春明と顔を合わせる度に、どうも動悸が収まらなくなる様になった。
……梗琳がその原因に気付くのは、今少し、後の事になる。
海州では、急逝した崔涼の代わりに、当然と言えば当然の事として、梗之騎が国主となった。梗琳はそのまま宰相としてこれに仕えた。 記録によれば、この梗琳の補佐官として、春明という名の官吏が登用されたという。
また同じ年。後継者の居なかった梗之騎の元に梗家の遠縁の血筋から、
それから十数年の後に、この梗祥が海州国主となる時には、それに反対する声は、ひとつとして上がらなかったという。
梗家支配の元、中央での混乱を余所に、この沿海の小国は、長く繁栄の時を重ねていく事になる。
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