第127話 巨木を倒す人びと

「全く……あなたというお方は……」

「お前には、本当に済まない事をしたと思っていた。いつか、会う事があったなら、謝りたいとずっと……」

 梗琳の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちていた。それに気付いて天祥は言葉を切る。

「本当に……よくご無事で……本当に……」

 感極まった様にそう言うと、梗琳は勢い良く天祥を抱き寄せて、その存在を確かめる様に強く抱きしめた。

「梗琳……痛いって。お互い、もういい歳をした大人なんだから、こういうのは……」

「何を言われるのです」

 天祥の抗議に、梗琳が顔を上げて、懐かしい口調で言う。

「こういう事をされるだけの事を、あなたはしでかしたのですからね」

「参ったな」

 天祥が苦笑した所で、梗之騎が何気ない風に言葉を挟んだ。


「成程。宰相閣下は中々、ツボを押さえた人選をなさる。これで、この海州を丸め込もうというお心積もりなのですかな」

「丸め……込む?」

 梗琳が、梗之騎の言葉の意味が呑み込めないという様に、聞き返した。

「例えば、この天祥がお前に何事か頼み事をして来たとしたら、お前には拒めないのだろう?宰相閣下はそれを見越して、天祥をお前の元に寄越したのだ」

「それは、どういう……」

 梗琳の視線が、戸惑う様に天祥と梗之騎の間を何度も往復する。

「つまり、天祥はお前に重大なお願い事があって、あの世から舞い戻って来た、という訳だ」

 梗之騎が、陛下の書状を梗琳に渡した。それを読み進む内に、梗琳の表情が強張って行く。

「あなたというお方は……この上……一体、何をなさろうと言うのです……」


 天祥は無言のまま立ち上がり、数歩、二人から離れる様に歩を進める。そこで踵を返すと、二人を見据え、はっきりとした声で言った。

「そこに書かれている事が全てだ。この帝国を終わらせる。それが、雷将帝陛下のご意志だ」

 お互いに、その真意を探る様に、視線を交わし合う。

「陛下のご意志、ですか」

 梗之騎が納得し切れないという様に呟く。

「それで、この私に、叛徒となり、都の皇騎兵軍を討てと?」


 今、都に残っている皇騎兵軍は、全体の半数だ。残りは、河南に留め置かれたままなのだ。水軍が上陸作戦を用いて戦うとしたら、成程、それで丁度互角という事になる。と、すれば、皇騎兵軍の分割は、この為の布石だったという事か。しかし、如何に勅命であろうとも、本来味方である筈の皇騎兵軍に刃を向け、己が手で燎宛宮を蹂躙するという事に、自らの信義が拒否反応を示す。

「……馬鹿な……例え、それが陛下のお望みなのだとしても、この私に燎宛宮に刃を向ける事など出来はせぬ」

「それでも、あなたには、やって頂かなくてはなりません。この先、戦によって奪われるであろう多くの命を救う為に……そして、この華煌の皇家の血を守る為に」

「皇家の血を……」

「あなたが守りたいのは、どちらなのです?この帝国、即ち燎宛宮ですか、それとも陛下のお命ですか?その忠誠心は、どこに捧げられたものなのですか?」

「それは……燎宛宮は最早、陛下の存在と同じものでは無くなっている、という事か」

「……もう、あの場所には、真の意味での、皇帝陛下はいらっしゃらない……あそこは空虚な入れ物に過ぎないのです。しかし、雷将帝陛下は、あの場所に殉じる事をお考えです。それが、為政者としての責務だと思っていらっしゃる。でも、私は……それでも私は、陛下をお救いしたいのです。その為になら私は、自分の愛する者たちを守る為なら……例え、どんな無茶な事でもやってみせます」

「……」

 天祥の気迫に満ちた目に、梗之騎は難しい顔をして押し黙る。その沈黙を破る様に、風に乗り、静かな声が広間に響いた。



「……天に、闇星の輝煌あり。そは、紅炎の輝きと共に、この大地の全てを焼き尽くす……」


 一同の見ている前で、床に、大きな八卦陣が浮かび上がり、その中央に光の塊を生じた。そしてその中から、人の影らしきものが浮かび上がった。そう思った時には、そこにもう、一人の八卦師が佇んでいた。

「……周翼?」

 その姿を見て、思わずそう呼んだ天祥を一瞥して、口元に笑みを浮かべると、彼は膝を折り、梗之騎に向かって一礼をした。


「お初にお目通り頂きます。私は、湊都の崔涼様にお仕えしております、周藍と申す者」

「……これは又、千客万来だな。先触れもせずに、この様な場に乗り込んで来るとは、相当に、せっかちな奴だな」

「御無礼は、重々承知の上で、火急の用件にて、こうしてまかり越しました」

「で?崔涼殿が、この私に何用だ?」

「まず、その前に」

 周藍は手のひらを返し、そこに光の占術盤を導き出した。

「これを御覧下さい」

 その占術盤の中心に、紅く綺麗な光が輝いている。

「これは?」

「これが、天の闇星と呼ばれる、赤き星。この帝国に滅びをもたらす星にございます」

「それが、この真ん中にあるという事は……?」

「はい。もう、間もなく、この帝国は滅びましょう。この赤き光に呑み込まれて」

「滅びる?この帝国がか?」

「ええ。そして我が主、崔涼様は、この機に自らの手でそれを成し遂げようとお考えになっておいでです。もう数日のうちに、湊都で、挙兵なさるお積りです」



 崔涼が、その父、崔遥の死を巡り、燎宛宮に遺恨を持っていたという話は聞いていた。しかし、それが反乱を起こす程に根深いものだったと言うのか。よもや八年もの間、恨みを抱き続け、その準備をしていたと……そう言うのか。人がその心に抱える目に見えぬ闇の深さに、梗之騎は愕然とさせられる。

「馬鹿な……仇討ちなど。本気でその様な事を……そもそも、湊都の地方軍だけで、都まで辿り着けるものか」

「勿論、たったそれだけの兵力で、そんな愚行を実行に移されるというのであれば、この私がお止め致しております。しかし、ご存じですか?湖水がこの度、河南と手を結んだという事を。実は湊都は、その湖水と協力関係にあるのです。今や、この海州を除く天河以南の主だった街は全て、たった一つの目的の為に動き出しているのですよ」

「たった一つの目的……」

「そう。帝国を滅ぼすという目的の為に」


 この周藍の話が本当だとすれば、帝国を二分する程の戦が間近に迫っていると言う事だ。梗之騎は、事態の急変に戸惑いながら、周藍に問う。

「それで、そなたの主、崔涼殿は、この私にも兵を出せと?」

「可能であれば、そうして頂きたいとお考えです。しかし、やはり帝国への忠誠から兵は出せないとおっしゃるなら、ここは静観していて頂きたいと」

「静観だと?」

 天下を二分する程の戦を、ただ脇で見ていろと、そういう事か。武将としての矜持が、軽んぜられた気がした。いつもそうだ。水軍とは便利な道具ではあるが、敢えて使うまでもない。そんな風に、いつも後詰に回される。この華煌においての軍の中心は、あくまでも騎馬。皇騎兵軍なのだ。


「そこまで言われて、出さずにいられると思うか?」

 梗之騎の反応に、周藍が満足げな笑みを浮かべる。

「では……」

「兵は出そう。我が水軍の機動力、甘く見るではないぞ。都への一番乗りは、この梗之騎であると、そなたの主に伝えよ」

「しかと、承りましてございます」

 周藍が深々と頭を垂れた。

 その足元に又、八卦の陣が浮かぶ。

 その体が光に包まれて行くのを見て、天祥が思わず声を掛けた。

「……あなたは……周翼様ではないのですか?」

 天祥を見据える瞳が、一瞬、優しい光を帯びた様な気がした。


「周翼は、私の父の名です……」

 その言葉と共に、周藍の姿はその場から消え去っていた。

「父親……子供なのか?周翼様の……」

 天祥は混乱した様に呟く。言われてみれば、あれからもう二十年近くの時が経っているのだ。あの頃と同じままの姿で、周翼がここに現れる筈などありはしない。

「天祥殿」

 梗之騎に呼ばれて、天祥は気を取り直し、そちらに向き直った。

「あなたは、先程、こう言われた。この先、戦によって奪われるであろう多くの命を救う為に、この私に協力しろと」

「ええ」

「それは、こういう事だったのですか。天闇星の事は、勿論、燎宛宮とて気づいていた筈ですな?ならば、南に戦の気配がある事も、当然……」

「その通りです」

「そして陛下は、その運命に殉じようとなさっている。皇騎はその半数に減っているとはいえ、百戦錬磨の劉飛様のいる燎宛宮と、璋翔の車騎兵軍を合わせれば、そう易々と倒れはしまい。 恐らく、多くの兵の犠牲の果てに、紙一重で決着が付く様な、惨い戦になるだろうと」

「はい」

 天祥の答えに、梗之騎が何かを深く考え込む様に押し黙った。

 そして、しばしの間……


「……分かりました。この梗之騎が、誰よりも先に燎宛宮に参り、華煌という国を滅ぼして御覧にいれましょう。何よりも、この忠誠を捧げる陛下の為に」

「梗元帥……」

「最後の最後で、陛下が他の誰でもなく、この私を頼りにして下さった事が、何より嬉しいのですよ。そのご恩に報いる為に、不肖、梗之騎、全力で事に当たらせて頂きますぞ」

「有難う……ございます……」

 天祥が、思わずその目に涙を浮かべて言葉に詰まる。そして、気持ちを落ちつける様に深呼吸をして、勢い良く頭を下げた。

「宜しくお願いします」


 天祥が全てを捨てて、陛下の影となった事。そして、この天祥の姿に、梗琳は、彼がかけがえのないものを見つけ、それを命がけで守ろうとしているのだと感じた。しかし、それが何であるのか、梗琳は敢えて聞きはしなかった。

「……それでは、私は、これで……連絡役に、この翠狐を置いていきますので」

「承知した。次は燎宛宮でな」

 梗之騎が天祥の手を取り、力を込めてしっかりと握った。

「ともかく、あまり無茶をなさってはいけませんよ、天祥様。いいですね?」

 その横から、相も変わらない口調で言う梗琳に、天祥は思わず笑みを零して握手を交わす。

「ああ。分かっている。お前達が、来てくれると信じている」

「必ず、お迎えに上がります」

 光の中に消え行く天祥を見送りながら、梗琳は、その心に固く誓った。

 自分達は、あの書状に書かれていた、無謀とも言える遠大な計画を、何としても成功させるのだ、と。


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