第125話 瀕死の鶯


 屋敷に戻った杜亮は、真っ先に、ずっと気掛かりだった黒鶯の様子を見に行った。杜亮が部屋に入ると、目を瞑っていた黒鶯が薄っすらと目を開けた。


「意識が戻ったのか?」

 傍らの冬位に聞くと、まだほとんど混濁しているのだが、時折、ほんの少しだけ正気に戻るのだという。

「大丈夫か?黒鶯」

 寝台の傍らの椅子に座りながら声を掛けると、黒鶯が薄っすらと笑った。

「……全く……とんだ失態だよな……」

「無理にしゃべらずとも良い。大丈夫だ。お前ほど性格の悪い奴が、そうそう簡単にくたばりはせん」

「……酷い……言われようだな」

 杜亮の言葉に力なく笑った黒鶯だが、それだけの事でも傷に響いたのか、たちどころに、その痛みに耐える様に、ぎゅっと目を瞑って唇を噛んだ。その痛々しい姿に、杜亮は思わず目を反らせた。

「……劉朋はどうしている……」

 黒鶯が掠れ声で言った名前を、杜亮は思わず聞き返す。

「劉朋殿?」

「ああ……あれは、こちらの駒だから……」

「……駒……?」

 少ししゃべり過ぎたのか、黒鶯の呼吸が荒くなる。

「手を……出せ……」

 黒鶯が喘ぐ様に言って、その手を震わせながら僅かに上げる。その意図を察して、杜亮は慌ててその手を取った。 そこから、黒鶯の思考が流れ込んでくる。


 湖水の風景。

 母、瑶玲の顔。


 幼い少年、縹氷の姿……

 黒鶯がこれまでに訪れた場所の記憶。


 行き会った人々の記憶。

 交わした言葉の記憶。


 そんなものが全て、混然となって、杜亮の中に流れ込んで来た。そして杜亮は、縹氷と呼ばれたその少年が、あの劉朋であると知った。


 そして…… 星導師、奏。

 その存在の事を。


「……分かった。劉朋殿は、私が説得しよう」

 杜亮がそう言うと、黒鶯は安心した様な笑みを浮かべて、そのまま又、意識を失った。





 杜亮が城へ戻ると、その空気はどこか落ち着かず騒然としていた。まるでそれは、戦の前の雰囲気の様だった。周藍の言葉を待つとは言ったものの、もし、燎宛宮が兵を出してくれば、父は、城を明け渡さずに、抵抗する積りなのだと思った。その為の準備が、あちらこちらでもう、始められているのだ。ならば、こちらも、少しでも兵力を確保しておくべきなのだろう。その為に、杜亮は、今すぐにでも劉朋に会わなければならなかった。


 杜亮は、皇騎兵軍司令官の部屋へ向かう。その部屋の前には、杜亮が付けた春位が立っていた。その少し手前の廊下に、一人の青年が腕組みをして、壁に身をもたせてかけていた。


……猩葉か……


 その姿も、黒鶯の記憶の中にあった。確か、劉朋の守者だという。言われれば、いつも劉朋の側に、影の様に付き従っていた。彼は劉朋の副官でもあるから、特にそれが不自然な事とも思わなかった。だが恐らく、蒼星王の覚醒まで、劉朋を守る為に、その護衛として湖水が用意した者なのだろう。今も、こうして何かあればすぐに駆け付けられる場所で待機している。その身を盾にしても、劉朋を守るのであろう、忠実な番犬。

「……手際の良い事だな」

 通り過ぎざまにそう呟いた杜亮を、猩葉はその鋭い視線で射すくめる。それを思わせぶりな笑みでかわして、杜亮は劉朋の部屋の扉を叩いた。



 黒鶯の名代で来た、と言った杜亮に、劉朋はその容態を案じる言葉を矢継ぎ早に発する。

「ご心配には及びません。今しばらく時は掛かるでしょうが、命に別条はありません。……劉朋殿は、黒鶯の幼馴染なのだそうですね?」

 そう問われて、劉朋は少し警戒する様に杜亮を見る。自分が湖水の領官と繋がりがある者だと言う事は、限られた人間にしか知られていない。

「先程も、言いましたでしょう。私は、黒鶯の意志を、あなたにお伝えする為に来たのだと」

 その言葉に、杜亮が自分の全てを知っているのだと悟った様で、劉朋は納得した様に頷いた。


「昨夜、我が愚弟の引き起こした不幸な出来事の為に、この河南は今、かつてない程の危機に見舞われています。その問題を解決する為に恐らく、遠からず戦になりましょう」

「戦だと?」

 劉朋が眉根を寄せる。

「馬鹿な、燎宛宮に楯付くというのか、河南は」

「……これは、あくまで私見ですが、私は、此度の仕儀は、あちらから仕掛けられたものだと思っています」

「まさか、燎宛宮がその様な……」

 劉朋の言い様を、杜亮が哂う。

「劉朋殿は、なかなか真っすぐなお方なのですね」

 そう言われて劉朋は、顔を顰める。全く、この駒は、素直で分かり易くていい。そんな事を思いながら、杜亮は話を続ける。

「さて、ここからが本題です。もし、この河南と燎宛宮とで戦になった場合、劉朋殿には、此方の側に立って頂きたい」

「ばっ、馬鹿を申すなっ」

 即座に、声を荒げてそう言った劉朋に、杜亮は思わず失笑する。


……本当に素直で……これではまるで、私が悪役の様な気分になって来る……


「私を誰だと思っている。私は、帝国宰相の息子なのだぞ。その私が、燎宛宮を裏切ると思うのか」

「息子、とは言っても、養子なのだとお聞きしましたが……」

「例え養子なのだとしても、この私が、劉飛様に剣を向けるなどという事は、断じてあり得ない」

「成程。育てて貰った恩とかいう奴ですか」

「恩というだけではない。仁義の問題だと言っている」

「劉朋殿、湖水は、河南との同盟に同意致しました。あなたが燎宛宮の側に立つのだとしたら、あなたは母である奏様に剣を向ける事になるのですよ」

「奏……」

 その名前に、見るからに劉朋が動揺する様が伝わってくる。弱点と知っていて尚、杜亮はその弱みを突く事を止めない。

「そう、その奏様です。あなたの実の母上でいらっしゃる」

「母上?私の、実の?黒鶯が、そう、言ったのか?」

「ええ。黒鶯がそう申しておりましたよ。だから、あなたは、必ず私たちの味方になって下さる筈だと」

「……実の……母だというのか……奏が……私の……」

 動揺のあまり放心状態の劉朋に、杜亮は、彼の存在が確実に自分たちの手の中に落ちた事を確信した。


 これで、皇騎兵軍の精鋭はこちらのものだ。それは、こちらの力を増強させるのと同時に、労せずして、相手の戦力を削いだ事に他ならない。後は、湊都の周藍様が動いて下されば、戦力差は、ほぼ互角となる。勝てぬ戦ではなくなった。

 しかし、様々な人々の思惑が絡み合う果てに動き出したこの事態は、杜亮の見通しを遥かに超えるものとなって行った。





 湊都へ向かった秋位はいつまで経っても、戻って来なかった。八卦の術を用い、夏位に連絡を取らせた所、周藍様は、あちこち忙しく飛び回っておられ、中々お目通りの機会を頂けないのだと言う。こちらの状況は伝わっているのだから、周藍からの返事を貰えないという事は、それは即ち、河南は現状維持で構わないと言う事になる。


……本当に、このままで構わないのか?……


 河南の者達が、次第に焦燥感に呑み込まれて行く中、やがて到着したのは、燎宛宮からの使者の方だった。

 その使者は、河南領官である杜狩ではなく、河南駐留軍司令官代理の劉朋宛ての書状を携えていた。




 早速、領官の執務室に劉朋が呼ばれ、杜狩、杜亮を始め、河南の主要な者たちが、固唾を飲んで、彼が書状を開くのを見守った。多くの熱い視線が注がれる中、劉朋はその書状を読み上げる。


「この度、河南領官杜狩の辞任の申し出を受け、これの退官を認め、代わって、劉朋をこの地の領官に任ず。事後の処理をつつがなく行い、生じた混乱を速やかに収束せん事を期待する。尚、駐留軍司令官は、これを新領官の兼任とする……」


 その声が途切れた後も、室内は、しんとして、口を開く者は誰もいない。今一度、書状に目を通し、その内容を確認すると、劉朋は、そこにいる者達の、状況が良く呑み込めないといった風の顔を一巡してから、徐に言った。


「辞令、ですね。これは。ごくごく事務的な」

「どう……言う事だ?」

 そこで辛うじて口を開いたのは、杜亮だった。

「つまり、この私が河南領官に任じられたという事です」

「お前が、河南領官……」

「体よく、後始末を押し付けられたという感じでしょうか」

 そう言って、劉朋が呑気そうに笑う。

「じゃあ、杜陽の件はどうなる?」

「そうですね。ここに、特に何も書かれていないという事は……不問」

「不問?」

「……という事で宜しいのではないかと」

「そんな馬鹿な話があるか。あれだけの事をしでかしておいて、不問だと?どうなってるんだ。燎宛宮は一体、何を考えている」

 どうにも納得出来ないという感じの杜亮に、劉朋が告げる。

「恐らく、星が動いているのですよ。大きく。この国に、大きな変化をもたらす星が」

「星……」

 それは、星王の意志の元、何か別の事態が動き出しているという事なのか。杜亮は何かを問う様に、劉朋の顔を見据える。そしてそこで気づく。周藍から返事が来なかった訳は、彼がこうなる事を知っていたからではないかと。もしかしたら、燎宛宮は、周藍の意志の元に動いているのか。……とも思う。


……周藍様は一体、何をしようとなさっているのか……


 未だ納得しきれない様子の杜亮を余所に、新領官となった劉朋は、早速、その権限を最大限に発揮して、杜亮を自分の補佐官に任じ、杜陽を駐留軍の司令官に任じた。この人事によって、杜狩が退いた後も、その息子たちが河南の中枢に残った形となり、河南の人々の劉朋への心証はさほど悪いものにはならなかった。

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