第55話 先生
ビールを受け取ったあと、その場でなんとなく横並びになるようにして立つ状態になり、ふと隣の長身男性へ視線を向けると、同時に向こうもこっちを見た。
「こんばんは」
長身のその人は、初めて会う僕相手に少しも躊躇せず、どちらかといえばとても親しげに柔和な表情で挨拶をしてきた。
釣られて僕も、こんばんはと挨拶を返す。
「木嶋君の、お友達ですか?」
長身の男性は、フミのことを僕にそう訊ねて来た。
“君”なんて呼び方をするのは、どういった知り合いなのだろう?
考えながらも“はい”と、肯定して頷きを返す。
正確には恋人ですがというのは、初対面でもあるし呑み込んだ。
「僕は、榊といいます。初めまして」
男性に名乗られて、慌てて自分も名前を名乗った。
「橘君ですか。よろしくお願いします」
「え、あ。こちらこそ……」
なんとなく苦笑いで挨拶をしながら、この人はなんて屈託なく人とのつながりをもてる人なのだろうと感心してしまう。僕もそれなりに人の輪へ溶け込むことに躊躇いはないほうだけれど、なんだかこの表情と話し方は、僕のそれを上回っている気がした。
「彼女のイラストは、もう観られましたか?」
「いえ。まだ」
普段から見ているわけだから観たという事になるのかもしれないけれど、こうやって個展として額縁に飾られたイラストはまだ観ていない。
「僕もこれからです。少し場が落ち着いてからにしようと思いまして」
楽しみだなぁと付け加えてから、榊さんがビールを口にする表情はとてもにこやかで、自分のことのようにこの場の状況を楽しんでいるようだった。
「彼女とは、もう随分昔に会って以来でして。イラストを観ることももちろん楽しみですが、彼女との会話もまた楽しみです」
ゆったりとそう口にする榊さんは、フミが招待客相手に挨拶をしているほうへ視線を走らせていた。
視線の先のフミは、慣れない状況に頬を赤らめながらも、足を運んでくれた招待客に満面の笑みを向けていてとても嬉しそうだった。あんなに個展を渋っていたのが、嘘のような笑顔を見せている。
「彼女は、とても繊細な人でしてね。自分のことには割りと鈍感といいますか……。いや、これは言葉が悪いですね。なんと言いますか。きっと自分のこともよく解ってはいるのでしょうが、多分相手や周囲のことを慮るほうが優先してしまい、自分のことには旨く立ち振る舞うことができないのだと思います。人によってはとっつき難く感じる人もいるようですが、実際にはとても素晴らしい女性です」
まるで自分の宝物を自慢するかのように、榊さんはフミを見つめたままそう話す。
榊さんの話し方はとても穏やかだし、柔らかな声質のせいもあるからかすっと心に進入してきて、こちらも穏やかな表情なり心なりになっていくのだけれど。ふと考えてみれば、なんだか心をぎゅっと締め付けられるような、落ち着かない心境にもさせられた。
それがどうしてなのかと考えていると、フミが笑顔に紅潮した頬を貼り付けけながら、招待客の隙間を縫ってこちらへ小走りにやってくるのが見えた。フミの笑顔に釣られて僕も自然と表情を崩す。
愛しい恋人が急ぎ足でこちらへやってくるのを見て、人目さえ気にしなくていいのなら大きく両腕を広げてこの胸に向かい入れたいくらいだった。
なのに、そんな僕の気持ちを素通りして、フミは隣に立つ長身の男性、榊さんへと駆け寄っていったんだ。
「お久しぶりですっ」
弾むようにして言うと、瞳をキラキラさせて榊さんと力強い握手を交し合った。心の中で大きく両腕を広げて待っていた僕は、肩透かしを食った気分で北風に吹かれるようにとても寒い気持ちになっていく。心の両腕を恥ずかしくもさりげなく下ろし、キラキラの瞳で現れたフミと隣の榊さんとを僕は見た。
「ご招待、ありがとうございます。お久しぶりですね。とてもお元気そうでなによりです」
「先生こそ、お元気そうで」
あまりの嬉しそうな表情に、フミは僕という存在にまったく気づいていないのかもしれないと思うほど、隣の榊さんへ満面の笑みを向けて会話をし始めた。先生と呼ばれた榊さんも同様で、フミに会えたことを心から喜んでいる様子だ。
それにしても、先生ということは、やっぱり僕が考えた通り教師ということだろうか。代議士先生という感じではとてもないし。かといって、病院の医者という雰囲気でもない。
構ってもらえない不満な心を外側に置き、僕は黙って二人の様子を観察していた。
「こんなに有名になると知っていたら、サインを貰っておけばよかったですね」
「有名だなんて。とんでもないです。あ、でもサインなら今からでも」
相手のジョークにジョークで返し、フミはまるで女子高生のように浮かれた声を上げて笑った。
フミの笑い方が下品に聞こえないのは、やっぱりフミだからだろう。
贔屓目の僕は、若干スネながらグラスにまだ残っていたビールを口にする。
「まず……」
すっかりぬるくなり炭酸の抜けたビールは、なんとも不味くて顰めっ面になった。
「今は何をなさっているのですか?」
「今も変わりませんよ。ずっと変わりません。以前と同じことを生産性もなく、僕は永遠と続けているだけです。君のように飛躍できていたら、僕の人生ももう少し華やかになれたでしょうに」
「そんな。先生はとても素晴らしいです。先生に出逢っていなかったら、私は基礎も何も解らない、どうしようもないただの悪戯書きしか描けなかったと思います」
「君には、才能がありますよ。僕との出会いなんて、ほんの僅かな影響でしかない。全ては君の実力の賜物です」
互いを褒めあい、懐かしさに頬を緩め、会話が止まる気配は微塵も感じられない。隣にぼんやりと佇む僕は、疎外感だけをヒシヒシと覚えていた。
新しいビールを貰ってこようと踵を返しても、フミは僕を呼び止めようとしない。
全く、拗ねるには充分なシチュエーションじゃないか。インテリメガネが伊達だからいけないのだろうか。もしかして、いつにもないスタイルできたから、フミは僕だっていうことに気がついていない?
気づいていたにしろ、気づいていないにしろ、スルーされているのだから同じことか。
ついついそんなことを考えてしまう、瑣末な脳内に嫌気がさす。
懐かしい者同士で弾む会話を続けている二人を尻目に、僕は新しいビールを喉に流し込んでから食べ物を物色しにその場を離れた。
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