去年9月

第54話 個展初日

 九月の四週目。祝日にぶつけるようにして個展の日程が決まり、テキパキとした坂口さんの働きかけのおかげで、順調に個展の初日を迎える日がやってきていた。

 場所は、都内某所。小さいスペースだけれど、ガラスがたくさん使われたその場所は、日の光の入り具合が眩しすぎもせず、暗すぎもせず、イラストの良さを殺さない程度の明るさを醸し出している。夜には月の明かりと共に色を殺さない調度で設置したライトがフミのイラストたちを引き立てるだろう。

 前夜祭ともいうべき初日の今日は招待客のみで、小さなパーティーも開かれる。もちろん、僕も招待客のうちの一人だ。

 パーティーは夕方からだということだから、僕は仕事をなるべく急いで片付けて個展会場へ向かうことにしていた。

 ところで、個展というものにはどんな服装で行くのがベストなのだろう。

 数日前、素朴な疑問を抱えて近くにいた同僚に訊ねたら、個展なんか行ったことないから判らないと即答される。訊く相手を間違えたようだ。

 とりあえず、あまり目立つような格好は控えたほうがいいよな。仕事帰りのスーツのままじゃ、固すぎるだろうか。かと言って、僕得意のジーンズなんて、崩れすぎというものだよな。色々頭を悩ませて、結局、当日には少し明るめのチノパンとシャツを用意し、インテリチックな伊達メガネをかけてみた。

 僕って、意外とこういうのもいけてるじゃん。

 残業後、会社のトイレにある鏡の前で悦に入っていると、同僚がやってきて眼鏡なんて珍しいじゃんとなぜか鼻で笑われた。

 なんだか、バカにされている気がするのは気のせいか。まぁいい。僕は心の広い男だ、そんな瑣末なことにいちいちいきり立ったりはしない。

 インテリメガネをかけているせいか、心の広いスマートな男性像を作り上げスーっと目を細めて鏡に映る自分を見る。

 やっぱり、いけてるじゃん。

 悦に入らずにはいられない。

 会社を後にして電車に乗り込んでから、財布の中に大切にしまってある招待客用のチケットを取り出して眺めた。チケットには、弾むような足取りの少女がオリーブ畑で笑顔を見せているイラストが使われていた。

 オリーブは、平和を意味する。争うことが得意ではない、フミらしいイラストだ。

 若干残業になってしまったせいで、僕は開場時間よりも少し遅れてたどり着いた。坂口さんが手配した受付に居るアルバイトの女性にチケットを渡し、半券とパンフレットを受け取る。そのまま中に入ろうとしたら、記帳を頼まれてちょっと動揺した。

 だって、僕は字が汚いから。自分の名前を上手に書けないって、社会人にもなってなんだか恥ずかしいじゃん。けど、執拗にペンを僕に差し出してくる受付の女の子に観念して、なんともへったくそな漢字で名前を書いた。あまりの汚さに、情けなくてフミには見せられないとその記帳台帳を持ち去りたい気分になる。ペン字でも習ったほうがいいかもしれない。

 通信の資格取得でもやろうかと考えながら中に入ってみると、招待客の人数はかなり多めだった。

 坂口さんがパーティーなんていうのもおこがましいと以前笑っていたけれど、充分にパーティーといえるだけの来客数に思える。

 こんなに人が集まっているとなると、初めに尻込みしていたフミの、とても緊張している顔がありありと浮かんでくる。

 大丈夫かなぁ。

 僕が心配していると、人垣の一番奥の方では中央に用意されたスタンドマイクへ、主役のフミが挨拶へと向かうところだった。

「間に合った」

 招待客はフミの仕事関係の人が大半を閉めているようだけれど、坂口さんに招待された人も多数いるようで、フミの挨拶を聞きながらもパンフレットをひろげて内容を確認している人が目立った。

 仕事上仕方のないことなのかもしれないけれど、あの人の姿も目に付いた。

 久しぶりに見るあの人は相変わらずスマートな佇まいだけれど、煙草が吸えないことが我慢できないのか、左足をカタカタと落ち着きなく揺らしているのが遠くからでも窺えた。相変わらずのチェーン・アンド・ヘビースモーカーらしい。

 僕は目立たない隅の方に立ち、かなり緊張をしているフミの顔を見ながら、一生懸命に慣れない挨拶をしている姿に向かって頑張れと呟く。

 このたびは私の個展に足をお運びいただき、ありがとうございました。なんて、フミが堅っ苦しい挨拶を数分続け、たどたどしくも何とか終わりそうな頃になって一人の来客が現れた。

 僕以外にもギリギリに現われる人がいるんだなと、その人をなんとなく観察してみた。

 年は、三十代後半くらい。サラサラの髪の毛で、僕とは違いきっと本物であろう度の入ったインテリジェンスなメガネを嫌味無くかけている。急いで来たのがありありと判るほどに荒い呼吸をしている姿は、なんだか青春映画に出てくるさわやかで誠実な青年のような印象を受けた。体つきはどちらかといえば華奢で、なのにやたら身長が高いからか若干猫背気味。ピシッと背筋を伸ばしていたら、爽やかで誠実というよりも、精悍で凛々しいイメージの方が強くなった気がする。けれど、その若干猫背気味が逆に親しみ易さを醸し出していて、悪い印象ではなかった。

 職業は、なんだろう。コンピューター関係? いや、そんなキリキリとした感じでもない。

 教師? うん。理系か美術系。そんな感じの線の細さみたいなのがある。

 そこまで観察したところで周囲からの大きな拍手が沸き、視線をフミのいる正面に戻した。挨拶を頑張ったフミが、頬を紅潮させてお辞儀をしていた。

 来客たちと、主賓であるフミとの談笑の始まり。フミは、招待した相手ごとに挨拶をして回っている。

 僕は、端の方に用意されていた飲み物や食べ物が置かれているテーブルに近づき、ビールを一杯貰った。用意されていたビール樽から直接注いでもらったせいか、よく冷えていて泡もキメ細かく、とても美味しいビールだった。おかげで、すぐにもう一杯貰いただきたくなる。

 二杯目のビールに口をつけながら、そのすぐ近くにあったオードブルに手を伸ばしていると、坂口さんがにこやかな表情でやってきた。

「橘君。来てくれてありがとう」

 興奮を抑えきれないようで、坂口さんの口調は弾んでいる。

「こうやって個展を開くことができたのも、橘君が史佳を説得してくれたおかげよ。本当にありがとうね」

「いえいえ。僕は、正直に自分の気持ちをフミへ伝えただけですから」

 そう。僕は、ただ本当に、フミの個展を観てみたかったんだ。

 それがこうやって実現され、たくさんの人がフミの絵を観るために足を運んできている。みんなフミの絵を観て、きっと表情を穏やかに緩めることだろう。こんな素敵な絵を観て、笑顔にならないわけがない。

 謙遜する僕にニコリと上品な微笑を残し、じゃあまたあとで、ゆっくりしていってねと坂口さんは慌しくこの場を離れていった。

 フミも坂口さんも、招待客相手にとても忙しそうだ。

 坂口さんが居なくなったあと、僕はさっき半券と一緒に貰っていたパンフレットを開いてみてみた。中には、フミの真面目腐った紹介写真や経歴なんかが一頁目にあって、そのあとからは今まで描き溜めていたイラスト(坂口さん厳選の物)が載せられている。どれも素敵なイラストばかりで、見ているだけで自然と目じりに優しいしわができるようなものばかりだった。

 もう一杯ビールを飲んだら、飾られているイラストたちをじっくり観て回ろう。きっと額に飾られているのを観たら、新鮮な感じがするだろうな。

 僕がウキウキと又ビール樽の傍に近づいたところで、さっき遅れてやってきた人も近づいてきた。

「すみません。ビールを一杯いただけますか」

 とても穏やかで優しい口調のその人が、ビールを注文する。

 僕も続いてもう一杯貰った。

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