第23話 最後

 留守電のあと、フミが言うようにあの人はなんの連絡も入れることなくここへやってきた。

 とっくに食事も済ませ、フミは風呂に入り、あの人はもう来ないかもしれないと僕は帰る準備をし始めていた頃だった。

 もしかしたら、来ないんじゃないのか、そんな風に思わせるくらい遅い時間にあの人はやってきた。

 深夜という時間を慮ったようにインターホンは鳴らさず、ドアが小さくノックされた。室内の音といえば昼間から繰り返し流れ続けている深海のようなあの音楽だけで、それもヴォリュームを抑えてあったから、控えめなノックの音でさえ僕たちの耳には直ぐに入ってきた。

 ペタリと床に座り込んでいたフミが、ノックの音に僕の顔を伺い見る。

 どうやら、自分で玄関先まで出向く気はないらしい。いや、彼を出迎える勇気がないのかもしれない。

 僕は髪の毛を少しだけかき上げて立ち上がり、僅かに緊張して乱れ始めた呼吸を整えて玄関へ向った。

 第三者の僕が緊張したって仕方ないけれど、こんな状況そうそうあるものじゃない。人間、初めてのことには緊張するものだ。

 スコープを覗けば、暑そうに額の汗をハンカチで押さえ、ポロシャツの襟元を緩めるようにしているあの人が立っていた。

 一つ息をついてから僕が鍵を解除してドアを開けると、出迎えた顔を見てあの人が目を見開いた。

 当然だろう。話があると言って訊ねてきた女の部屋に、自分以外の男がいるのだから。しかも、こんな時間に顔見知りというか、自分のところのアルバイトの僕がいるのだから。

「橘君……」

 驚いたままの表情で、あの人は僕の名前を呟く。

「ども」

 クイッと小さく頭を下げて挨拶をした。

 いつもと変らない僕の挨拶を見て気を取り直したのか、驚いた表情は落ち着いたいつものあの人の顔に戻った。

「史佳、居るよね?」

 訊ねながら玄関の中に入り込み、さっさと靴を脱ぎだす。家主ではない僕に、断る必要もないということだろう。

 あの人は僕の横をすり抜け、フミの居る部屋に足を踏み込んだ。

 フミはさっきと同じように床にペタンと座ったままで、お茶の用意をするでもなくやってきたあの人をぼんやりとした眼差しで迎えた。

 普段なら、フミがお茶の準備をできない時は僕がやるのだけれど、あの人を客とは思いたくないという黒い感情が僕を動かさない。

 床に座るフミから、少しだけ離れた場所に僕は腰を下ろす。

 帰ろうとしない僕の様子をみて、あの人はこの場からはずしてほしそうな表情を浮かべているけれど、気付かないふりを装った。

 ハンカチで汗を拭ったあの人は、さっきまで仕事の道具が散らばっていたけれど、今は何も乗っていないテーブルを挟んだフミの真向かいに腰を下ろした。

「史佳……」

 早速というように話を始めようとしたあの人は、やっぱり僕がこの場所に居る事を疎んじるように、一旦言葉を止めてこちらへ目を向けてくる。

 疎ましく思われている目を平然と受け止め、僕は断固としてここから動くもんかというように、お尻に根を生えさせようとしたらフミが口を開いた。

「橘君には、わざわざ居てもらっているの」

 相変わらずの柔らかな声音だけれど、決まった事を覆させはしないという、フミの確固とした意思が感じ取れた。

 フミの言葉にあの人は小さく息をつき、僕が一緒に話を聞くことを渋々といった表情で承諾した。

「この前のことだけど……」

 この前というのがいつの事かは判らないけれど、きっとフミが奥さんの妊娠話を聞かされたときのことだろうと僕は見当をつける。

「あれは、家内の虚言だ」

 きっぱりと言いきることで、然も自分が正義だと言わしめたいような物言いだった。けれど、正義っていうやつは人それぞれで。自分の中にある正義が、他の人の正義と同じだとは限らない。寧ろ、その人の正義が相手にとっては逆の場合だって多々ある。だから、戦争なんてものだって起きているのだから。

 起こしている人たちにとってそれは正義かもしれないけれど、起こされた側がそれを正義だと感じているわけじゃない。だから、あんなにもたくさんの涙が流れているんじゃないか。

「俺も驚いたんだ。一瞬、本当にそうなのかと思ったくらいだから。でも、妊娠なんかしていない。あいつは、君にわざとそんな風に言ったんだ」

 憎々しげに、そして悔しげにあの人は語った。

 奥さんの事を妻やあいつと言うあの人の言葉を、フミはどんな気持ちで聞いているのだろう。

 この人の中にある黒い部分を垣間見た僕は、幼い頃大人に感じた拒否反応みたいなものが甦ってきていた。

 いい訳ばかりの大人。

 体裁ばかりの大人。

 頭ごなしの大人。

 子供には解らないと、多くを語らずに理解させようとする大人。

 大人になんかなりたくないと思ったときの、あの悔しくて、悲しい感情に胸の奥がキュッと締め付けられていく。

 人間の大人ほど、理屈を捏ねて自分の立場を然も正しいと現実を捻じ曲げてでも言い聞かせようとする生き物はいないだろう。

 拒否反応に蕁麻疹でも出そうな気持ちのまま、僕はあの人の言葉をフミを見つめながら聞いていた。

「俺も迂闊だった。妻が感づいている事に、少しも気がつかなかったんだ。すまない……」

 謝るのは、そこなんだ。僕は、胸の裡で鼻白む。

 奥さんが気付く気付かない以前に、奥さんが居るのにフミに手を出している事を棚上げにすんな。いくら別居中だとは言え、ケジメもつけずフミとの交際を始めた事が、そもそもの間違いで謝るべきところなんじゃないのかよ。

 だいたい、そうなのかと思ったなんて言うぐらいだから、そうなるための過程があったってことだろ? フミが居るっていうのに、そういう行為をしたって事だろ? ふざけるのも大概にしろよっ。

 口を出すつもりなんか、全くなかった。フミが傍に居て欲しいみたいだから、ただこうして傍にいることに留めておこうと思っていた。

 大体、第三者が口を出す話じゃない。

 けど、なんだか段々腹が立ってきて、拳に力が入っていく。このまま黙って話を聞いてはいられないかもしれない。

 僕って、結構直ぐにカッとなるみたいだから。

「あいつには、俺の方から話をしたから。だから、もう大丈夫。また今まで通りでいられるから」

 また、奥さんの事をあいつ呼ばわりかよ。どういう経緯で結婚したか知らないけれど、一緒になったって事は、それなりにお互いの事を想っていたからだろ?

 なのに、その相手をあいつだなんて。憎憎しげにあいつだなんて。

 そんな汚い言葉を、フミに聞かせないでくれよ。

 しかも、話をしたなんて、どう話をしたんだよ。

 どうやって奥さんの事を丸め込んで、フミと今まで通りにしようってんだよ。今まで通りって事は、ずっとこのままフミには愛人でいろって事かよ。奥さんの事を丸め込んだように、フミのことも丸め込むのかよ。

 随分じゃんか。勝手すぎるじゃないか。冗談じゃないっ。

 やっぱ、黙って口を出さずになんていられない。

 僕の頭はカッカと熱くなり、このまま傍観していることが困難になってきていた。

 フミは、ずっと何も言わずに口を閉ざしたままでいる。あの人だけが、一人舞台のように話をしているんだ。

「今まで通りで、いいよな?」

 フミの顔を覗き込むようにして、あの人は当然のように猫なで声で同意を求めている。全て話したことで誤解も解け、万事納まったとばかりに少し弾んだような話し方が癪に触った。フミがその言葉に反するわけがないとでもいうような、自信のある言い方がムカツク。

 今まで通りって、なんだよ。勝手なこと言うなよ。フミがどんな気持ちでいるのかわかってんのかよっ。ふざけんなっ!

 黙って聞いていた僕は、ここでとうとう切れる――――、はずだった。

 息を吸って、今まさに言い返してやろうとした瞬間。フミの言葉が、僕の行動を止めた。

「今まで通りって、何?」

 フミの声はやけに落ち着いていて、まるで息子の間違いを正す母のようで、諭すような堂々とした言い方だった。

 その言葉がどこから聞えたか判らないような顔で、あの人はそれでもフミの事を見ていた。唖然としているのか、口は少し半開きで締りがない。

 そんな風に思う僕も、フミがまさかそんな事を言うなんて思いもしていなかったから、同じように唖然とはしていたけれど、あの人のように口を開けたままだとバカっぽいとすぐに気づき、キュッと口元を引き締める。

「もう、いいよ……」

 少し笑うように、フミが零した。

 いいよ、というのは、もちろん今まで通りを肯定する意味のものではなく、真逆の“いいよ”だ。

「ふみ……か」

 何を言い出すんだ。わけが解らない。苦笑いのような複雑に歪んだ顔で、あの人はフミの事を凝視している。

「責めるつもりはないし。責められるなら、私だろうし。だから、もう、いい……」

「史佳……」

 話すことは、もうないでしょ。というように、背筋を伸ばし、毅然とした態度でフミはまた口を閉ざした。

 清々しいまでの姿にあの人は二の句が告げず、今度は愕然とした表情を浮かべている。まさか自分がふられるなんて、少しも思ってはいなかったのだろう。

 ショックを隠しきれないあの人を目の当たりにすれば少しの同情が顔を出すけれど、それは間違った感情なのだからと僕はすぐに押し戻した。

 相変わらず眠くなるような曲はエンドレスで流れ続けていて、その歌声に夢の中と惑わされそうになるけれど、今起きている事は完璧に現実で、だからあの人はもうここを立ち去るより他なくなっていた。

 手にしていたハンカチをぎゅっと握り締め、あの人がゆらりと力を失くしたように立ち上がる。

「史佳……」

 もう一度フミの名前を呼んだものの、続きを言葉にできないまま哀しみの色を宿した瞳を向けた。

 座ったまま見送りにも行こうとしないフミに、精一杯の強がりなのか、大人の強さを見せつけようというのか、あの人が哀しい表情のまま口角を上げる。

「今まで、楽しかったよ。ありがとう。仕事、頑張れよ」

 哀しみを突きつけられても、そんな風に笑える大人も悪くないなと僕は初めて思った。フミがあの人に惚れたのは、こういうところなのかもしれない。

 最後にそう言ったあの人の背中を、フミはただ黙って見送っていた。


「よかったの?」

 どうしてそんな風に訊いたのか。不倫なんてフミが傷つくだけだし、別れてよかったに決まっているのに、背を向けた彼を見つめていたフミの瞳が、愛しさに滲んでいたのを僕は見逃さなかった。あんな目をしていたフミだから、そんな風に訊いてしまいたくなったんだ。

「……うん」

 フミの息遣いが微かに聞える中、僕は彼女へ視線を送る。そして、もう何度目かになるエンドレスで流れ続ける曲を聴きながら思うんだ。

 深海の底には、いったい何があるのだろうと。

 深く深くもぐった先はまったくの暗闇で、そこで手探りしてやっと手に入れたものが、大切なものなのかどうかも判断がつかない。けれど、やっとの思いで一度手にしたものを手放す怖さは、きっと計り知れないことだろう。だって、そこには闇しかなくて、確かなものは何一つないのだから。触れた何かに安心を得たことを、間違いだったとは思いたくないだろうから。

「もう、寒さに震える海にわざわざ行くのは厭だから。それに、怖い顔で淳平に薬をばら撒かれるのも、叱られるのも、たくさんだもの」

 別れた事をなんでもないかのように、面白がってフミが呟く。

「僕も、もうあんな風に怒りたくないし、薬をいちいちばらすのも結構面倒な作業だから、丁度よかったよ」

 同じように少しからかい気味に零すと、フミがありがとうと小さく呟き俯いた。フミの声は少し震えていて、一つの恋の終わりに、雫が零れだしているのがわずかに見て取れた。

 お休みという替わりに、僕は温かなバンホーテンのココアを淹れ、そのマグカップをフミに手渡してからマンションをあとにした。

 玄関先で、ごめんなさい。と呟く声に胸が締め付けられたけれど、謝罪の言葉は、きっと奥さんに対するものじゃないかって。こんなことをしてしまった自分を許して貰える訳はないと解っていても、今のフミにはそう口にするしかできなかったのだろう。

 謝り続けた先に、少しでも光があればいい。

 あの人の奥さんには、もちろん。あの人にも、フミにも。

 フミが優しいイラストたちに囲まれながら、早く元気になることを僕は望んだ――――。

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