第22話 フミの不安

 夕方、僕はフミの作業を床に転がって眺めながら、ビールを口にしていた。アルコール殺菌されたのか、喉の調子がここへ来たときより少しよくなっている気がする。思い過ごしかな?

 夏の太陽はすっかり沈み、窓辺に掛かるオレンジ色のカーテンは閉じられ、室内の明かりが灯される。

 相変わらず眉間に皺を寄せて構想や構成を練った後、フミは黙々と筆を動かし続けていた。

 今描いているのは、薄い青空に向って背伸びするように咲き誇る花のイラスト。丁寧な筆運びで描き出される花たちは、とても生き生きとしている。

 床に頬杖を着いた姿勢から胡坐に変えて、僕は真剣な表情のフミに話しかけた。

「それ、何の挿絵?」

 集中している時に話しかけても答が返ってこないのは解っているけれど、つい訊ねてしまった。

 だって、なんだか楽しそうな筆運びだったから。きっと、フミ好みの仕事なのだろう。

「私の好きな作家さんの、コラムにつける挿絵」

 筆を止め、フミが応えた。

 答えが返ってくるなんて思っていなかったから、思わずフミの目を驚いたままじっと見つめてしまった。

 ぽかんと口を開けた僕の目を見つめ返したあと、フミがクスクスと可笑しそうに笑って小首をかしげる。そんなに驚かなくてもいいのに、といったような笑い顔だ。

「あ、そうなんだ」

 いまだ呆けたままの僕は、訊ねておきながらそんな返答をしてしまった。

 驚いている僕を見つめていたフミは、瞼をゆっくりと一度閉じて開く。すると、さっきまで浮かべていた笑みはどこかへ消えてしまい、真剣な表情に変っていた。

「来ると思うの……」

 真剣な顔のフミからなんの脈絡もない言葉が出てきて、今度は僕が首をかしげていたら、あの人の名前が可愛らしい口元から出てきた。名前を聞いた途端、僕の心臓がドクリと一度大きく鳴った。昼間の留守電まで話が遡ったんだと、やっと理解した。

「彼、きっとここへやって来る……」

 フミの言葉の意味がどういった類のものなのか少しも図ることができず、僕はどうすればいいのか判らなかった。

 いや、いくつかは思いついたんだ。

 例えば、あの人が来るから今日はもう帰って欲しい、という半強制帰宅とか。

 あの人が来るけれど、どうすればいいのか、という助言を求められているとか。

 あの人が来るけれど、一緒にいて欲しい、という不安な気持ちとか。

 そうやっていくつか一瞬のうちに頭に思い浮かんだ内容だけれど、本当のところはフミが言ってくれなくちゃ判らない。頭の中だけで思い巡らせていても、フミじゃない僕が判るわけがないので単刀直入に訊ねることにした。

「僕に、どうして欲しい?」

「……一緒に、彼の話を聞いて下さい」

 居住まいを正したフミは、改まった物言いで僕に小さく頭を下げた。膝の上で握られた小さな拳が、少しだけ震えていた。

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