第19話 白い錠剤

 フミの部屋でケーキをひとりで二つ食べた日から、幾日かが経っていた。

 僕があんな風に怒ったことも、あの人のことで涙を流したことも、フミは何もなかったように、いつもと変らず作業机にだけ視線を落し、イラストを描く事に集中している。フミが描き出す色々なものたちを、僕もいつもと変らず眺めていた。

 部屋の中は相変わらずで、イラストは床に散らばっているし、オレンジ色のカーテンもある。静かに流れる音楽は眠気を誘っているようで、苦いコーヒーでも飲まなければ意識を失いそうだった。

 眠気に襲われてばかりの僕とは対照的に、フミはずっと机にかじりついたままで、気がつけば夜になり、飯も食わずに描き続ける姿に声をかけずにはいられなくなる。

「原画、少し片付けておくよ」

 返事はないとわかっているけれど、一応声をかけてから僕は散らばるイラストたちを丁寧に集めていった。

 フミは、時々個展を開く。そんなに大きなものじゃなくて、どちらかといえばとても小ぢんまりとした個展だ。

 小学校からの同級生の両親が画廊をしていて、その人が毎回フミの個展に手を貸してくれているらしい。と言っても、フミ自身は特に個展を開くことに強いこだわりを持っているわけじゃなく、寧ろその同級生の坂口さんという女性が開きたがっているというものらしい。

 フミの描くあの素敵なイラストたちを、たくさんの人達に観てもらいたいのだろう。

 フミは描きあがった原画を綺麗に保存するという事をしない。処分してしまうわけではないけれど、決して丁寧に大切に保存しておこうという心意気はないみたいだ。

 自分の子供のように愛おしそうに眺めるのに、保管には頓着しないという大雑把さに苦笑いがこぼれる。

 フミの個展を開きたいと常に考えている坂口さんからしてみれば、原画を綺麗とは言えず、寧ろ粗末に近い扱いで放置しているフミに冷や冷やものらしい。

 僕はそんな坂口さんの冷や冷やを少しでも和らげようと、散らばる原画はできるだけ綺麗に保管するよう心がけていた。

 それでも、あえて床に数枚散らばっているのを放置しているのは、そんな風にフミの絵が至るところにあるこの部屋の雰囲気が好きだからだ。

 床に散らばる花は、本当にそこに咲いているようだし。子供たちの笑い顔や、猫の歩く姿には頬が緩む。空のイラストは、僕がわざわざ棚の上に立て掛けてみたりするのだけれど、そうすればいつだってそこには澄んだ青空が清々しい色でこの部屋を見守ってくれている気がするんだ。

 僕はそんな原画たちを綺麗に片付けてから、二人分のチャーハンを作った。

 でき上がったチャーハンを盛り付けた皿を掲げて、食べる? と訊ねても、案の定返事はない。一つにラップをして、ダイニングテーブルで一人静かにスプーンを口に運んだ。

 三分の一ほど食べたところで喉の渇きを覚えて、棚にあるグラスを取ろうと立ち上がる。そこで目にした白い袋に、ドクリと僕の心臓が反応した。

 開封済みの中身は半分以上がなくなっていて、その白い錠剤を手にしながら僕は集中しているフミを振り返った。

 睡眠薬。ちゃんと処方されているものだから、心配しすぎる事はないと思ったけれど、半分以上が既にフミの体内に入ってしまっているのだと思ったら僕は堪らなくなった。

「眠れないの……?」

 聞えるかどうかもわからないほどの、掠れた声が僕の喉をついて出た。聞えているのかいないのか、フミは集中を解くことなく筆を動かし続けている。まるで、現実から逃れるように、無理に絵を描く事に集中しているように見えた。

 フミの様子がいつもと違うことに僕が気づいていなかった、といえば嘘になる。いつもと変らないなんて思おうとしていた自分がいるのは確かだから。

 あの人のことで悩んでいるフミを、僕は認めたくなかった。

 集中しているのに、どこかぼんやりとした目の奥。疲れの滲んだ目元。休むことなく動かし続ける筆。

 仕事をしていれば、食事をなかなか摂らないのも解っていたけれど、それにしたって痩せすぎというよりやつれている頬。

 あの日、あの人のところから戻ってからのフミは、いつもと変らないという洋服を巧く着こなそうと必死になっている気がする。

 あんな風に怒った僕にも変わらない態度をとり。あんな風に大丈夫と悲しく漏らしたのに、なんでもないふりを装っている。

 奥さんが来るからと追い出された以外にも、もしかしたら何かあったのかも知れない。

 だけど僕は、フミとあの人の事を訊くのが煩わしかった。

 詮索して、もしもあの時のように怒鳴り散らし傷つけてしまえば、二度とここに出入りできなくなるだろう。

 けど、こんな物を飲み続けているフミを僕は放ってはおけない。

 集中しているフミに背を向け、一錠ずつになっている白い薬を全部テーブルにプチプチと出して掌に集める。片手に握れるくらいの錠剤の塊を手に、窓辺へ行きオレンジのカーテンを勢いよく開けると、カーテンレールの立てる音が静まり返った室内に異様な雑音を響かせた。

「なに……してるの……」

 ひとたび集中すれば、僕がどんな物音を立てたって全く気付かないフミが、不安げな顔で窓辺に立つ僕を見ている。

「手にしてるの……返して……」

 ゆっくりと立ち上がり、小さな小さな声で懇願する。親に内緒で手に入れた玩具が見つかってしまった時のように、気まずくそして必死な顔だった。

「イヤだ」

 僕がきっぱりとした声で断ると、フミの瞳が揺らいだ。瞳の波間にぐらりと心が持っていかれそうになったけれど、僕は歯を食い縛るようにして、夏の暑さが入り込む嫌な風を室内に呼び込んだ。

 開け放たれた窓の向こうからは、車の通る音が時折聞こえてきて、住宅街に建つこのマンション辺りの静けさが沁み込んでくる。

「こんなもの、飲んじゃダメだよっ」

 薬を握り締めた手を、僕は窓の外へと突き出した。

「眠れないの……」

「それでもダメだよっ」

「淳平……」

 不安に揺らいだ声と瞳で、フミは今にも床にくず折れてしまいそうだった。

「眠れないなら、僕が一晩中フミの話し合い手になるよ。美味しいコーヒーを淹れて、ケーキを食べて、DVDで映画でも観て。それに飽きたら、ちょっと暑いけど、散歩に出かけたっていい。眠れないなら、逆に眠気が吹っ飛ぶくらいの暑い中に出て行けばいいんだよ。そんで、夜が明けたらまたフミの絵を描いてよ。目が離せなくなるような心揺さぶるフミの絵を僕に見せてよ。こんな薬なんかに、頼るなよっ」

 言うだけ言って、僕は握った掌を開いた。アスファルトに向って落ちていく白い粒たちは、なんの音も立てずに消えていく。掌から消えた感触が、自分の心の中に潜む本当の感情さえも道連れにしていくような気がした。

 こんなものに頼らなくちゃいけないなら、さっさとあの人と別れてしまえばいい。僕の方が、あの人よりずっとずっとフミを大切に想っている。こんなもの飲まなくてもいいように、いつだって僕がフミの傍にいる。

 僕が本当にいいたかった言葉は、薬と一緒に地面に向って届かない叫びと共に消えていく。

 フミは、何もいわず僕の開いたままの掌を見続けていた。その目の奥に潜むものに、僕は押し潰されそうになってしまう。

 それからしばらくして、噂を聞いた。離婚調停中だったあの人の奥さんが妊娠していると。相手はもちろん、まだ夫という立場にあるあの人だと。

 フミの口数が、減った――――。

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