第20話 粋 

 目深に帽子をかぶり、マスクをして電車に乗った。帽子を目深にかぶるのはよくあることだけれど、マスクには理由がある。フミから喉には気をつけるよう言われていたのに、風邪を引いてしまったからだ。しかも、風邪の症状が喉に一番に出た。ツバを飲み込むだけでも痛くて、時々空咳なんかもケホケホ出たりするからエチケットでマスクをしている。

 別に、こらから銀行強盗しに行くとかじゃないからね。こういうのって、モラルの問題でしょ。マスクもせずに痰が絡むような咳を思いっきりしているリーマンなんかと車内で一緒になった日には、露骨に顔を顰めたくなる。自分がそんな風に感じるくらいなのだから、他にもそう思う人はいるって事でマナーね。

 そんなこんなで、空咳を時々しながら喉の痛みに顔を顰め、窓の外の風景に目を凝らす。少しすると、フミの住むマンションのある町並みが現れた。

 あの人の奥さんが妊娠したと知ってから以降、僕には丁度別の仕事に借り出されてしまうという事態がおき、フミを訪ねることができずにいた。

 それはほんの一週間ほどのことで、普段ならそのくらい時間が空いても気にする事など全くないのだけれど、薬局の袋に入っていた睡眠薬を見てからは、フミがどうしているのか気になってしかたがなかった。

 袋に残っていた分は、僕が強引に窓からばら撒いて捨ててしまったけれど、あんなものまたいくらだって貰う事ができる。電話をして確認したところで、飲んでいないと嘘をつかれてしまえばそれまでだから、僕は自分の目で確かめるためにこうやって痛む喉を抱えて電車に揺られていた。

 僕は、自分の目で見たものしか信用しない。

 実際、噂話として流れてきたあの人の奥さんの妊娠話だって、本当のところはどうなのかなんてわかりはしない。フミがどういう経緯でその情報を耳にしたかは知らないけれど、真実かどうかなんて本人に訊くまで納得なんかできやしない。

 電車を降りて、通いなれた道を歩いた。途中のスーパーでアルコール類と、つまみになるような惣菜やスナック菓子なんかを買う。ガサガサと無造作に詰め込み、僕は俯き加減でアスファルトを踏んでいく。

 あ~、喉いてぇ……。

 時々ボソリと洩らし、途中の商店街にある一〇個入り四〇〇円のたこ焼きを一つ買った。熱々の出来立てが欲しかったけれど、おっちゃんに作りおきのを渡されて、ちょっぴり残念な気持ちと一緒にフミのマンションへ向った。

 インターホンを鳴らし、直ぐに鍵を開けて中に入る。リビングに顔を出すと、フミはキッチンでお茶を淹れていた。

「いらっしゃい」

 ふんわりした笑顔と柔らかい口調が今日も心地いい。

「たこ焼き買って来たんだ。食う?」

 していたマスクを少しずらして訊ねると、フミがクシャリと相好を崩す。

 紅茶の準備をしていたフミは、たこ焼きには緑茶がいいと判断したのか、ティーポットを急須へと変えた。茶筒からトントントンとリズムよく茶葉を出し、自分専用の湯飲み茶碗と来客用の湯飲み茶碗を準備している。

 この部屋に僕専用のマグカップとグラスは一つずつ置いてあるけれど、湯飲み茶碗はまだ用意していない。今度来る時に、商店街にあった和食器の店で買ってこようと思う。

 フミが使っている湯飲みは有田焼で、大きな桜色のハイビスカスが描かれている。一度その湯飲み茶碗の値段を訊いたけど、確か一万円以上だった。

 その時に、たっかい! と目を大きくして驚いたら、永く愛用できるものだからとフミは微笑んでいた。

 割れちゃうかもよ。なんて無粋な事は言えなくて、寧ろ、今は僕もそんな一品を一つくらい持ってみたいなと思っている。

 だって、なんかそういうのって、粋だろ?

 そういえば、ハイビスカスの花言葉って、繊細な美とか上品な美しさとかだったよな。フミにぴったりだ。

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