第18話 怒り

 どのくらい経っただろう。ビールは既に四缶目で、最初に見ていたお笑い番組から別の番組へとチャンネルも変っていた。

 背後でドアの開く音が聞こえた気がしたけれど、僕は構わずテレビを見続け笑っていた。

 少しして人の気配に振り向くと、フミが疲れたような顔で立っていた。

 笑い声を上げていたせいか、帰ってきたフミに直ぐに気がつかなかった僕は、彼女の姿を目にして驚いた。

「お、おかえり」

 一拍ほど間を空けて言うと、フミは、うん……と言って、その場にぺたりと座り込む。

 その姿に、何かがあったんだとすぐに解ったけれど、置き去りにされた虚しさと、あの人のことだとわかっている悔しさに、話を訊いてあげる姿勢になかなかなれない。代わりにというわけじゃないけど、まだ残っている缶ビールを冷蔵庫から取り出し、座り込むフミの目の前にかざした。

「飲む?」

 立ったままの僕から無言で缶ビールを受け取るフミは、それが可愛がっている小動物ででもあるかのように、両手で抱え込むだけでプルトップを開けようとしない。座り込んだときに床に置かれたバッグの中には、さっき持って出て行ったはずの風邪薬も冷えピタも手付かずのまま入っているのが見えた。おおかた、看病しに行ったのはいいけれど、奥さんが来ることになって居られなくなり、引き返してきたというところだろう。

「部屋に行ったら、電話が掛かってきちゃって……」

 何も訊ねようとしない僕に痺れを切らしたのか、フミのほうから話しを始めた。

「あの人、苦しそうにベッドに横になっていて。やっぱりなんにも食べてないみたいだったから、おかゆを作って食べさせてから、薬を飲ませようと思ったの」

 小動物に見立てた缶ビールと話しでもしているみたいに、フミはそれだけを見つめている。まるで、僕が聞き役じゃなくてもいいみたいだ。

「それでキッチンに行ったらお米がなくて、急いで近くのコンビニに行こうとしたら電話が鳴って。奥さんが今から来るから、私に帰って欲しいって……」

 そこで初めてフミが顔を上げ、目の前に立ったままでいる僕を見上げた。

 縋るような瞳が、僕に助けを求めるように揺れている。

「別居してても、やっぱり奥さんが一番なんだよね。私って、結局、立場は愛人なんだものね。私みたいなのがあの人の傍に居る事を奥さんは気付いているかもしれないけれど、実際そんな二人が逢うとなったら、あの人にとっては面倒なことだもんね。そうなると、私って煩わしいだけの存在なんだよね……」

 瞳から零れだしそうな雫を必死に堪えながらフミは早口で捲くし立て、自分を卑下する言葉ばかりを並べ立てていく。それを聞いていたら、僕が抱えていた朝からのイライラがまた顔を出してしまった。

 フミには、いいところがたくさんあるのに。あんなに人の心をあったかくする絵を描けて、物に対する拘りがあって、美味しいお茶だって淹れられて、笑顔を向けられればこっちまで幸せな気持ちで顔が綻ぶっていうのに。

 なんだよ、そのマイナスな言葉の数々は。そんな事言うなんて、全然フミらしくないじゃんっ。

 だいたい、そんなのは初めからわかってたことだろ。奥さんが居る離婚調停中の男と付き合うっていうのは、そのくらい覚悟の上じゃなかったのかよ。

 フミの情けない姿に、僕のイライラは怒りにかわる。

「そう思うなら、そんなやつ、さっさと別れちゃえばいいだろっ!」

 怒鳴り散らした僕にフミは驚き、堪えていた大粒の雫がぽとりと落ちた。

 頭の上から降りかかった怒声に、縋るようだった瞳が怯えたような目にかわる。

 そんな顔、するなよ……。

 泣かしたくて言ったんじゃないのに。

 そんな顔、させたいわけじゃないのに。

 ただ、僕は。

 ただ、気付いて欲しいだけなんだ……。

 そんな恋愛に、縋って欲しくないだけなんだよ。

 自分を卑下してばかりの恋愛を、続けて欲しくないだけなんだよ。

 どうせするなら、笑っていられるものにして欲しい。辛いや悲しいを溜め込むばかりの恋愛なんて、して欲しくないんだよ。

 僕は、何か間違っているのか?

 こんな事を言うのは、僕の頭がおかしいからなのか?

 もう、わけわかんねぇよ。朝からイライラしすぎて、狂いそうだ。

 今すぐ救急車を呼んで、僕を檻のある病院に閉じ込めて欲しい。フミにこんな事を言ってしまった僕を隔離して欲しい。二度とフミを傷つけるような言葉を言わないよう、猿轡でも何でもいいから僕を黙らせてくれ。

 自分の発した言葉で途方に暮れながら、目の前で怯えながら頬を濡らすフミに、このあとなんて言葉をかければいいのか思いつきもしない。

 なんなら、昼間の暑さでさっさと溶けて消えてしまえばよかった。フミを傷つける僕なんて、消えてなくなってしまえばよかったんだ。

 僕が項垂れ言葉をなくしていると、フミが俯き、ごめん……、と小さく呟いた。

「ごめん……、淳平。ごめんね……」

 なんで、フミが謝るんだよ。

 謝るなよ。

 僕に謝って欲しくなんかないよ。

 傷つけたのは、僕の方だよ。

 なんで、フミが謝るんだよ。

 だいたい、僕に謝ったからって、あの人が奥さんと直ぐにでも別れるわけじゃない。

 僕に謝ったからって、あの人がフミだけのものになるわけじゃない。

 僕に謝る必要なんか、少しもないんだよ。

 僕に謝るくらいなら、いっそあの人と別れてよ……。

 だけど、僕の想いなんか少しもフミには通じない。

「ありがと。大丈夫だから……」

 なにが……。

「私、……大丈夫だから」

 何が大丈夫なんだよっ。

 もう一度怒鳴り散らしそうな気持ちをグッと抑えつけ、僕はキリキリと奥歯を食い縛り、強く拳を握った。

 無理な笑いを貼り付けた顔を上げ、フミが大丈夫と何度も口にする。

 ちっとも大丈夫そうに見えないその頬に、いくつもの涙が流れ続ける。

 フミのことを傷つけることしかできない自分を、僕は今すぐこの世から消し去りたかった――――。

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