第8話 あの人

「ビール、うまっ」

 適度に効いた野菜炒めの塩味が、ビールを美味しくさせている。

 僕の、うまっ。にフミが相槌を打ったとき、丁度家電が鳴った。

 フミは缶ビールをテーブルに置く立ち上がり、壁際にあるサイドボードの上に置かれている電話の受話器を持ち上げた。

 それは、かなり珍しい事だった。フミはとても人見知りで、電話が苦手だからだ。それでも受話器を持ち上げたって事は、誰か目的の人物から掛かってくる事がわかっていたからだろう。

「もしもし」

 フミが電話に出たあと、僕は一人でビールを飲み干し、新しいビールをキッチンへと取りに行く。

 電話の相手は、多分編集さんだろう。そうじゃなかったとしたら、きっとあの人だ。もしもあの人からだったら、フミはまた少しの間、この家を空けることになるだろうな。

 僕は、ぼんやりとそんな事を思う。

 仕事の関係上、留守でも上がり込んで原画を持って行くなんてことがしょっちゅうだから、僕はこの部屋の鍵を預かっている。それをいいことに、僕はフミがいなくても、構うことなくこの部屋に上がりこむ。そうすることが二人の間では何故だか自然で、きっとフミが僕のことをただのアルバイトや男ではなく、弟としてみているからなのだろう。

 あ、それに、信用だってしてもらえているからだ。ここ重要。

 弟という立場に関しては、とても切ないことだから今は深く考えないようにしている。ただ、僕はとっても信用されている。そこにだけは、拳に力を入れていいたい。

 力を入れた拳は今は置いといて。あの人からの連絡があると、フミは幾日分かの荷物を旅行鞄に詰め、散らばる原画もそのままにして、窓辺のポトスに水をあげることもなく、少しの間僕の前から姿を消す。正確には、この部屋からだ。

 僕はこの場所が好きだから、フミが居なくてもここへやって来るわけだけれど、散らばる原画がその時だけは寂しげな色合いに映るんだ。

「編集さん?」

 詮索するのはあまり好きじゃないけれど、今日は何故か訊いてしまった。

 僕が訊ねた事に、フミは珍しいって表情に出してからコクリと頷いた。

 その頷きに、ついほっとしてしまう。

「新しい仕事、引き受けて欲しいって」

 フミは元の位置に戻って、食べかけだった野菜炒めを今度はゆっくりと咀嚼する。

「どんなの?」

 味わうようにして食べているフミに訊ねると、野菜炒めを飲み込み、ビールを一口飲んでから応えた。

「あるファッション雑誌の、コラムにつける挿絵」

「へぇ、どんな人が書いてるの?」

「三〇代の男の人。おしゃべりが得意そうだった。淳平と、そういうのは少し似てるかも」

 フミは、特に楽しくもないといった表情で淡々と語るのだけれど、おしゃべりが得意と言った部分にだけ、なんとなく棘を感じたのは気のせいだろうか。

「おしゃべり好きは、嫌い?」

 フミの淡々とした物言いが、僕の事をそのコラムの人に重ねて、遠巻きに嫌いだと言っている気がして恐くなった。

 こうやって頻繁に訪ねてきて、一緒にご飯を食べたり話をしたり。時々、不意打ちのように頬に手を伸ばしそうになったりしてハッとすることもあるし。フミが眠りにつくころまで、居座り続けもする。

 それは仕事で、原画が出来上がるのを待っているのだから仕方がないと自分に納得させているけれど。でも、そんな僕の存在を、実のところは迷惑に思っているのかもしれないって恐くなったんだ。

 迷惑だから帰って欲しい。その一言が、実は言えないだけなんじゃないかって。

「その人のことは、少し苦手って思った。自分のことばかりよくしゃべる人で、相手の話に耳を傾けられない人……。相手の話を聞いている風を装うだけで、本当は何も聞いていないどころか、人が話をしている時に、自分が次に話す事をどれだけ面白おかしく伝えられるかって考えているだけの人」

 フミの説明に、ちょっとどきりとした。僕にも、そういうところがあるからだ。フミの笑顔が見たいから、どんなことを話したら笑ってくれるのか、僕はいつだって必死だから。

 けど、僕はフミの話をちゃんと聞いてるよ。ねぇ、僕はちゃんと聞いてるよね?

 結局、おしゃべり好きの男が好きか嫌いか判らずじまいで、なんとなくその話は打ち切りになった。

「仕事、引き受けるの?」

 フミは、困ったように眉根を下げている。

 僕なら嫌いな人が書く文章に、絵なんか添えられない。良い印象がないのに、想いのこもった絵なんか絶対に描けないだろうから。

 そんな仕事、請ける必要ないよ。

 言うのは簡単だけれど、それで生計を立てているフミだから口出しはできない。大体、他社からの仕事に口を出すアルバイトなんて、聞いたことないよな。

 フミは、眉根を下げたまま答を見送った。

 僕は床に散らばる優しいイラストたちが、僕と同じような気持ちでフミを見ている気がしてならなかった。

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