第4話 富士山と風邪

「ねぇ。フミ」

「ん?」

「この前の観た?」

 まるで休日に一緒にいる家族のように、僕はフミに話しかける。

 大きなテーブルに画材を広げているフミは、真っ白なままの原画用紙をさっきからずっと眺め続けていた。どんなイラストを描くのか、フミの頭の中では今物凄いスピードで構図や色なんかが巡っているに違いない。

 そんなフミのわりとそばで、僕はテーブルに肩肘を吐き、散らばっているパステルカラーのペンたちを一つ一つケースにしまっていく。

 几帳面とか潔癖とかいうんじゃないけど、フミはイラストに集中してしまうと画材道具を散らばしたままにして、いつも何がどこにあるのかを探しているから、その時間を少しでもなくしてあげたいんだ。

 窓辺から入る日差しは温かで、昼間なら密閉度の高いこのマンションの室内は陽の光だけでぽかぽかと暖かく過ごしていられる。

 片手で頬杖をつく僕と視線を合わせたフミが、原画用紙へ視線をやったまま僕の質問の意味を考えている。

 僕が話すこの前のというのは、とある雑誌の事だった。僕が関った、と言っても社員のお手伝いというか、小間使いにうろちょろと動き回っただけなのだけれど。とにかく、雑誌のとある企画に僕は関らせてもらっていた。

「ああ、うん。あれね。観たよー。富士さんにある、カレーでしょ」

 僕が今アルバイトをしている先で、つい先日富士登山をした。元々雑誌取材のために登山をしたわけなのだけれど、ついでに楽しんできなと、僕と数名のスタッフさんはデジタルの一眼レフと小型のビデオカメラを持たされ登山をしてきた。

 取材のネタを早々に撮り終えた僕たちは、登山を楽しみつつそこにある食べ物にもありついた。それがカレーだ。

 富士山にあるカレーは格別に美味しいと評判になっていたので、その映像をフミはいち早く観ていた。多分、雑誌社の人が何かのイマジネーションの種にでもなればと送ってきたんだと思う。

「あのカレー、本当に美味しいの?」

 小首を傾げ可愛らしい仕草で訊ねた内容がカレーの味についてなんて、なんだかおかしくて笑ってしまう。

 どうしてかって?

 確かに富士山のカレーは有名だけれど、それよりももっと他にフミが好きそうな花たちを撮ったり、登山客のインタビューだってしていたからだ。

 僕にしてみれば、渡されたカメラで自由に撮った花たちは、全てフミが気に入るんじゃないかと思って撮ったものばかりだった。

 なのに、フミってばカレーに食いついた。

「他に訊くことないの?」

 クククッと笑いを零しながら、僕がもう一度訊ねると顔をマジマジと見たあと、フミは色白でしなやかな細い手を僕の喉元へと伸ばしてきた。

 その行動に驚いて、ついていた頬杖を解き、フミを真っ直ぐ見つめる。

 伸びてきた手が、僕の喉に触れたと同時に心臓のやつがはしゃぎだした。

 期待しちゃいけない。

 期待しちゃいけない。

 何度も心で繰り返す。

「まだ、風邪引いてるみたいだね」

 ほら……ね。

 大きな期待なんて、直ぐに脆く崩れ去るんだ。

 それでも優しく僕の扁桃腺辺りに右手を添えてくれるフミに、心臓はリズムを緩めない。

「喉、少し腫れてる」

 触れられた首筋が、ドクンと大きく脈を打つ。愛しい人に優しく触れられた首筋が瞬時に熱を持ち頭の天辺まで熱くした。

 ぼんやりと霞む周囲の風景の中で、目の前にいるフミだけが色鮮やかで眩しい。

 強がりな僕は、風邪をひいていた事を誰にも言いはしなかった。こっそりと風邪薬やドリンク剤を飲み、喉の痛みに耐えていたんだ。

 バイト先の上司も一緒に行ったスタッフさんたちも、誰も気がつかなかったことに、フミだけが気づいてくれる。

 たったそれだけの事が、僕にとってどれほど貴重で嬉しいことか。

「平気だよ」

 強がりを言ってみても、僕はフミが気づいてくれた事に心臓を高鳴らせずにはいられない。先生に大きな花丸を貰った時のように、はしゃいでしまいたくなる。まるで子供だよな。

「淳平はすぐ喉に来るから、気をつけてね」

 僕の喉から離れていくしなやかな手を視線が追う。

 座っていた場所からフミは立ち上がり、薬箱の中から何かを手にして戻ってきた。フミの手には、小袋に納まったのど飴があった。手渡されたチェリー味ののど飴を口に含みながら、甘酸っぱさに胸が苦しくなっていく。

 どんなに優しくされても。どんなにたくさんの花丸を貰っても。フミは遠い存在だ。

 手に入れられないものの大きさに、僕は今日も溜息を吐く。

 こんなにそばにいるのに、と。

 ドクドクとリズムを刻み続ける心臓に、言い聞かせ続ける。

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