3年前12月
第2話 資格
五ヶ月ほど前から、僕はよくこの部屋を訪ねていた。
それは仕事だから、と言ってしまえば何のことはないのだけれど、それだけじゃないのが僕にとっての事実。
フミが描きあげた原画が、その辺にハラハラと散らばるこの部屋が僕は大好きだ。
床に散らばる原画には、動物や空や花や建物なんかが、フミらしい穏やかで優しさの溢れるタッチで描かれている。時間に制限がないのなら、日がな一日コーヒーを飲みながら眺めていられるくらいフミの描く絵は最高だ。
「これ、好きだな」
僕は、一枚の原画を拾い上げる。紅や桃色、紫や白など、いろんな色で咲く花のイラストだ。
優しい丸みのタッチがフミらしくて、僕の目じりは自然と下がる。
依頼された仕事からの集中が解けたのか、イラストを眺めている僕をフミが見る。
「ありがと」
クシャリと崩した相好に、僕の心は瞬時に躍った。
その笑顔を、この原画の中に閉じ込めて持ち歩きたいくらいだ。
いや、できたら携帯のカメラで撮って待ち受けに。
ん、待てよ。待ち受けだと、みんなに見られるじゃないか。それはダメだ。
今の笑顔は僕だけのものにしたいのだから、こっそり携帯の中に納めて時々眺める。うん、それがベストだ。って、こんなこと知られたら引かれるだろうな。
「その花、知ってる?」
僕の中のどん引き思考に気づくはずもないフミが、普段どおりの表情で訊ねる。その言葉に知らないと首を振った。
フミの描くイラストは大好きだけれど、描かれている植物の種類は知らないものの方が多い。そんな僕に、フミはいつも丁寧に教えてくれる。
「ペチュニアっていってね、南米の方の花なの。花言葉は、心が和む」
花言葉を聞かされて、フミのことみたいだと瞬時に笑顔になる。
フミがどう感じたのかは知らないけれど、僕の表情を見て少しだけ笑みを浮かべているのが愛らしい。
そんなフミに近づき、キスをしたい衝動に駆られて、思わず頬に手を伸ばしそうになった。
それはほんの僅かな動きで、手がピクリとした程度なのだけれど、気持ちの中でその衝動はとてつもなく大きくて食い止めるのに苦労する。
一瞬閉じたフミの瞳がもう一度開くまでの短い瞬きの間に、それをする資格があるのは僕じゃない、そう悲しくも言い聞かせるんだ。
伸ばせずに握り締められた手の行き場をどうすればいいのか、僕は判らずに意味もなくヘラヘラとした笑いを浮かべて、近くにあった夕焼け空のイラストを手に取ると、夕暮のオレンジが僕の心を更に寂しく震わせた。
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