第73話 瞳さん
榊さんに案内されて、僕たちは奥さんが入院している病室へ行った。とても暖かな日差しの入る個室で、春には緩やかで柔らかな風を窓から運んできてくれそうな気がした。けれど、奥さんはその春を感じることができないかもしれないと考えれば、僕はまた暗い気持ちになっていった。
「こんにちは」
部屋に入ってすぐ、フミが明るく中へ声をかけた。
「あ、木嶋先生」
榊さんの奥さんは、フミの姿を認めるとベッドで笑顔を見せた。
三人でベッドのある奥へ行くと、榊さんが僕のことを紹介してくれた。
「こちら、橘淳平君。木嶋君の大切な方です」
「こんにちは。橘です」
「こんにちは。榊の妻の、瞳です」
僕は、ぺこりと頭を下げる。
「何か、うちの榊が、誤解をさせてしまったようで。本当にすみませんでした」
瞳さんは、榊さんの手を借りてベッドの背もたれに寄りかかるようにして上半身を起こすと僕に頭を下げた。
「そんな。いえ、僕の方こそ、すみませんでした」
会ってすぐに謝られてしまった僕は、思わず慌ててしまう。
「この人、見たまんまの不器用な人で、ちゃんと私の方から謝りたくて。こんなところまできていただいて、本当にごめんなさいね」
瞳さんが謝ると、榊さんは、本当にすみませんと苦笑いを浮かべていて、僕はまた、いえいえ。そんなと言いながら胸の前で手を振った。
「瞳さん、これ」
苦笑いの榊さんに助け舟を出すように、フミがさっき買った花束を差し出した。
「いつもありがとうございます。今日のお花もとても綺麗」
瞳さんは、受け取った花束にとても嬉しそうな顔をして香りを楽しんでいる。
「いい香り」
うっとりとした表情をしていると、榊さんが部屋にある洗面所に行き、花瓶の用意をする。
手馴れた様子が、とても悲しく感じてしまう。
「私、木嶋先生が来てくれる日が、本当に楽しみで」
「いやだ、瞳さん。その“先生”は、やめて下さいって」
先生と呼ばれることに、フミは困ったような顔をしている。
「あ、そうでしたね。ずっと昔からファンで、勝手に木嶋先生、なんて呼んでいたものだから、つい。ごめんなさい、史佳さん」
瞳さんは、フミと話しながら子供のように笑顔を見せて笑う。
その笑顔に、フミと会えることが本当に楽しみなんだろうなって思えた。
「そうだ、あなた」
花瓶に花を飾る榊さんに声をかけると、瞳さんは備え付けの棚に視線を送った。
「はい。わかっていますよ」
承知とばかりに榊さんは笑顔で棚を開け、中から何枚かのイラストを取り出した。
「橘さん。これ、見てください。素敵でしょう」
瞳さんがそういうと、榊さんが僕に棚から出したイラストを手渡してよこした。
僕は、近くにあったパイプ椅子に座るよう促されて腰掛けてイラストを見る。
それは、フミが榊さんに頼まれて、瞳さんのために丁寧に丁寧に描き上げたイラストたちだった。
瞳さんが微笑む顔。
榊さんとハミカミながら頬を寄せ合う姿。
病院の庭で車椅子に座り、空に手を伸ばしている瞳さん。
イラストの中の瞳さんは、どれも素敵で幸せそうな表情をしている。
瞳さんは、その三枚のイラストが私の宝物だ、とでも言うようにうっとりとした表情を浮かべる。
「橘君は、木嶋君の描くイラストの素晴らしさをよく解っていますよね。恋人ですから」
榊さんは少しばかりからかうようにして言ったけれど、僕はそれを素直に受け止めた。
「ええ。本当に素敵だと思います。フミのイラストには、あったかくて人を思い遣る心があるって思うので」
「そうね」
僕の言葉に、瞳さんが微笑を浮かべた。
「優しくて、温かくて、愛しくて。本当に、素敵」
大切なそのイラストを返しながら、僕は瞳さんの言葉に頷いた。
「橘さんが、史佳さんのイラストをちゃんと理解してくれている方でよかった。先生のこと、大切にしてくださいね」
瞳さんは、穏やかな笑顔を湛えている。
こんな場所に閉じ込められて辛い思いをしているはずなのに、瞳さんの笑顔はとても素敵なものだった。
そんな風に笑っていられる瞳さんのことを、榊さんが愛しそうに見つめていた。
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