第72話 悲しみの告白

 僕たちは、建物内にある休憩室のような場所へ行き、カップのコーヒーを買った。正確には、榊さんが三人分のコーヒーを買って、僕とフミの前においてくれた。

 テーブルを挟み、僕とフミは榊さんと対峙している。目の前には、淹れたてのコーヒーが香りと湯気を立ち上らせていた。

「木嶋君には、以前メールでお知らせしたのですが……」

 躊躇うように口にすると、フミが小さく首を横に振った。

 フミの様子は、なんだかおかしくて。けど、何がどうおかしいかって言われても、うまく説明のしようがない、ちょっと重い感じの雰囲気が漂う。

 その重さを紛らわすように、榊さんが明るめの声で話し始めた。

「僕の妻は、ずっと以前から木嶋君の大変なファンでして」

 へぇ~、フミのファンなんだ……。

「えっ、妻?!」

 ファンというところに重点が置かれているというのに、僕は別のワードに驚いた。予想もしなかった、榊さんの“僕の妻”というワードだ。

 おかげで、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 あげてしまった僕の声は、ここの雰囲気にあまりにも似つかわしくなさ過ぎて、周囲の視線が一気に集まってしまう。

「す、すみません……」

 僕は、ペコペコと榊さんと周囲に頭を下げる。

 それにしても、榊さんが既婚者だったなんて知らなかったぞ。奥さんがいるならいるって、ちゃんと言ってくれたらいいのに。

 大体、あんな風にフミのことを僕に話したら、その気があるのかと思っちゃうじゃないか。

 坂口さんも坂口さんだよ。僕をけしかけるようにあんな過去の話をして。

 ん? もしかしたら、坂口さんも榊さんが既婚者だって知らなかったのかもしれないよな。

 なんにしろ、酷い誤解じゃないか。奥さんがいるっていうのに、僕ってば焼きもちを焼いていたなんて。めちゃくちゃ恥ずかしいぞ。

 今までの自分の行動を振り返ると、顔から火が出そうになる。

 それから、ふと冷静になって考えてみた。

 ちょっと待てよ。フミには、前科がある。っていうのは、ちょっと言い過ぎだけれど、まさかまた不倫?!

 妻という言葉があまりにも衝撃的で、僕の脳みそは軽いパニックに陥っていた。

 僕のパニック状態なんて知る由もない榊さんは、話の続きを始める。

「妻は、木嶋君が僕の教え子だと知ってから、いつか会わせて欲しいといっていました。けれど、なかなか機会もないまま、数年の月日が経ってしまい……。そんな折、彼女から個展の招待状が届きましてね。妻は、とても羨ましいと僕に何度も言っていたのです」

 一度言葉を区切り、榊さんが僕たちにコーヒーを勧める。言われるままに、僕とフミは少し冷め始めたコーヒーを口に含んだ。榊さんも一口コーヒーを飲むと、ふぅっと小さく息をしてフミを見る。

 ファンだといわれて喜んでいるだろうと、僕も横にいるフミを見たけれど、その表情はさっきよりも更に悲しげになっていた。

 ……フミ?

 榊さんの話す内容とフミの表情の不釣合いさに、僕はどんな顔をすればいいのか解らなくて視線をコーヒーへと移した。

「木嶋君に、あんなことをメールで告げてしまうなんて、どうかしていました……。ただ、あの時の僕には、木嶋君の顔を見て話す余裕がありませんでした。ですから、あんな形で、申し訳ありませんでした」

「いえっ。そんなっ」

 榊さんの言葉を打ち消すように、フミが慌てて否定をする。

 僕は相変わらず何のことなのか解らず、会話の流れをただ傍観している状態だった。

 ただ、目の前の榊さんの顔が、フミと同じように悲しみの色を宿し始めているのに気づいた。それは、よくない傾向のような気がする。

 こういう顔を人がするときには、何かしらマイナス面に話が傾いていくんだ。

 僕の祖母ちゃんの時がそうだった。

 四年前に他界した、父方の祖母ちゃんとはずっと一緒に暮らしていた。

 いつも元気で、毎朝散歩にも出かけていて。僕は、よく笑う祖母ちゃんが大好きだった。

 僕がすっかり大人になっても、お父さんには内緒だよ、なんていってお小遣いをくれたりしていた。

 そんな祖母ちゃんが病気になって、もう長くないっていう話を母さんが僕に打ち明けた時と今のこの状況はおんなじ雰囲気だった。二人とも、あの時の母さんとおんなじ顔をしているんだ。

 誰が? なんていうことは考えたくなくて。ただ僕は、嫌な予感をどうにか裏切って欲しくて、縋るような気持ちでコーヒーカップを握り締めていた。

「橘君にも、いらぬ誤解をさせてしまったようで、本当にすみませんでした」

 嫌な予感に苛まれている僕に、榊さんはまた頭を下げる。

 僕は、いえいえ。なんていいながらも、やっぱり誤解だったと安堵したていいると、誤解を生んだ内容を榊さんが話し出す。

 話す声は苦しげに絞り出すようで、話させてしまったことを酷く後悔させるような内容だった。

 僕の予感は、当たってしまった。

「妻は、癌でして。既に全身へと転移があり、もう手術も難しい状態になっています。お医者様の話ですと、年を越すのは難しいとのことでした……」

 話す榊さんの瞳が揺らいでいた。

 癌……。

 さっきよりも凄い衝撃に、僕の頭の中がグワングワンと鳴り響いていて眩暈がしそうだった。何をどう考えればいいのか判らず、ふとフミの隣の空いている椅子に置かれた花束に目がいった。

 お見舞いの……花束。

 バースデイパーティーなんて、浮かれたことを考えていたさっきの僕を殴りに行きたい気分だった。

 大体、病院という大きな建物に踏み込んだ時点で感じてはいた。

 こんな場所で会って欲しい人がいるとか。聞いて欲しい話しがあるとか。どう考えたって、明るい話なんて想像できるはずがないんだ。

 まだ会ってもいない榊さんの奥さんなのに、もう治らない病気だと聞いて、僕の気持ちはどんどん暗闇に引きずり込まれるように暗く重苦しくなっていく。

 僕がどんなに暗い顔をしたり、落ち込んで考えたところで、どうにもならない現実なのはよく解っている。だけど、どんな顔をすればいいのか判らないんだ。

 どんな顔をして目の前の榊さんを見ればいいのか、ちっとも判らないんだ。

 とうとう耐え切れなくて、僕はまた逃げるように冷めてきたコーヒーに視線を移した。

 そんな僕に榊さんは、フミにイラストを描くお願いをしていたことを話した。病室にいる、妻の似顔絵を描いて欲しいとお願いしていたらしい。

 ただ、何度か通っているうちに、奥さんの方から、自分の顔じゃなく、夫婦二人の顔にしてくれないかと再度お願いをされたとか。

 そうしてフミは、ここ一ヶ月ほどを掛けて病院へ通い、丁寧にイラストを仕上げていったらしい。

「木嶋君には、本当に感謝しています」

 榊さんは、また頭を下げる。

「そんなっ。先生、顔を上げてください」

 フミは、また慌てたように先生を気遣った。

「僕は、残り僅かとなった妻の人生に、少しでも笑顔でいられる時間を作ってあげたいのです」

 よろしくお願いしますと、榊さんは涙を堪えるようにまた頭を下げる。

 僕はどんな言葉をかけたらいいのか、何も、これっぽっちも浮ばなくて、ただ黙りこくっていることしかできない。

 隣では、フミの小さなこぶしが、膝の上でぎゅっと握られていた。

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