第67話 僕の存在

 長身の榊さんが、眉根を下げて心配そうに見てから、フラフラの僕の体を支えるように手を差し伸べた。

 どうやら、フミとの話は終わったようだ。

 抵抗する気力もないまま僕は榊さんに支えられ、名前も知らない地下の喫茶店へと踏み込んだ。

 榊さんに促されて奥の席に座ると、店員がとても丁寧に水の入ったグラスとメニューを置いていった。入った喫茶店はやたらと綺麗なつくりで落ち着いていて、メニューをちらりと見ると青二才の僕が利用するには高すぎるコーヒーが提供されていた。そのせいか客層も年齢が高く、その上俗っぽい服装の奴なんて一人も居ない。

 普段ならとても居心地の悪いに違いない場所の雰囲気に萎縮するところだろうけど、目の前の人物のせいでそれどころではなかった。

 頃合を見て再び来た店員に、榊さんがブレンドのコーヒーを注文する。僕が黙っていると、冷たい物の方がいいような気がします。と一言添えて、僕のためにアイスティーを頼んだ。

「お仕事、お忙しいのでしょうか。顔色がよくありませんね」

 何も言わずに背もたれに寄りかかったままじっとしている僕を、榊さんは迷いのないまっすぐな視線のまま見つめて気遣う。

 榊さんの目は、何一つ疚しいことなどないとでも言っているように、僕のことを見つめていた。曇りのない目で見られると、僕の方がよっぽと疚しくて、罪の一つも犯しているような気にさせられる。

 後ろめたい気持ちを振り払うように、あんたのせいだ。と僕は必死に榊さんの目を見返していた。

 喫茶店の椅子に腰掛けたことで体を休めることができた僕は、気持ちを隠しつつ冷静さを取り戻していった。

「先生は、忙しくないんですか?」

「僕ですか?」

 問い返されるとは思っていなかったのか、少しだけ驚いたような顔をして表情を緩めた。

「僕は、担当のクラスも持たない、ただの美術教師ですからね」

 だから、こんなにも頻繁にフミのところへやってくるというのだろうか。

「先ほど、木嶋君とお話していたのですが――――」

「知ってる」

 かぶせるように言うと、さっきとはまた少し違った驚きの表情をした。その後、なんとなく少しだけ困ったような表情を浮かべる。

「何の話、してたの?」

 体がだるいせいもあったけれど、年上だけれど恋敵相手に敬語を使うのがしゃくで僕はタメ口を利いた。

 榊さんは、何やら少しの間逡巡したあとに口を開いた。

「……そうですね。やはり僕たちの共通する話は絵ですからね。それについて、お話をしていました。僕は、先ほども言いましたがお恥ずかしながら暇な教師ですから、長期の休暇が取れるときにはよく絵を描くための旅行へ行きます。そのときのお話などをしましたね」

 穏やかで少しのんびりとも取れる話し方は相変わらずで、こっちがキリキリとしているのがバカらしくなってくるほどだ。けど、旅行の話くらいで、あんなに真剣な眼差しをするような親密さが二人の間に漂うものだろうか。

 何かを隠している。

 僕は、咄嗟にそう感じた。

「そういえば。先日、紹介をしたいと言っていた方は、橘さんだったようですね。木嶋君から話を聞いて驚きました。偶然というものは、あるものですね」

 その偶然がまるでラッキーなことでもあるように、榊さんは笑顔を添えて話す。僕には、とてもラッキーとは思えない偶然だったけれど。

 運ばれてきたアイスティーを一気に体内へ流し込むと、クラクラとしていた脳内が少しはっきりとしてきた。そこで思い切って、訊いてみることにした。

「榊さんは、よくフミと連絡を取り合っているんですか?」

 真顔で訊ねる僕の顔を見た後、榊さんはほんの数秒だけ間を空けて話し出した。表情がほんの僅かだけ苦しげに見えたのは、僕の気のせいだろうか。

「そうですね。ふと彼女の声を聞きたくなるときがありまして。絵の話など……じっくりと聞いてくれる人は、この年になるとなかなかいませんからね。つい彼女に甘えてしまいます」

 話しながら笑いじわを作ると、ブレンドコーヒーをゆっくりと口に含み穏やかな微笑をたたえる。

 それから、無言の時間が数分流れたあと、榊さんがフミのことを話した。

「彼女、少しばかり疲れているような様子が見受けられますね。何分、慣れない状況のようですから、仕方のないことですが。今度、精力を付けにうなぎでもご馳走しようかと思っています。彼女は少し痩せすぎなところもあって心配ですからね。そうだ、橘さんもご一緒にいかがですか?」

 何も深く考えることなく発言をする榊さんに溜息が漏れた。

 一緒にと誘うのは、こっちの立場だ。あんたに誘われるなんて、おかしな話じゃないか。

 この人は、僕という存在をなんだと思っているのだろう。フミの知り合い程度にしか考えていないのだろうか。

 それとも、解っていてしらばっくれてる? だとしたら、意外と手強いな。

「いえ。僕は、いいです」

「うなぎ。お嫌いですか?」

 そうじゃなくて。あんたと三人で食事なんかしたくないって言ってんだよ。

 遠まわしな言い方じゃ、通じないのか?

 榊さんに付き合っているのが段々面倒になってきて、僕は千円札を一枚取り出してテーブルに置き席を立つ。

 榊さんがそれを手に取り僕へ返そうとするよりも先に、おごってもらう理由はないのでと早々に喫茶店をあとにした。

 出て行く背中をじっと見ているだろう、あの人の視線を振り切るように僕は外へと飛び出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る