第5話

 『おはようございます。今日も図書館に行ってきます』

 

 アパートの前の緩やかな下り坂を、佳奈子は後輪のブレーキを小刻みにかけながら自転車を走らせた。半袖シャツの袖口から入り込んだ乾いた風が、シャツの中でちいさな渦を作り、佳奈子の体を一周して腰のあたりから後方へと抜けていく。両足をまっすぐ前に投げ出し、おでこを丸出しにした、いつになくはしゃいでいる佳奈子がいた。

 駅前のロータリーを横切り、大学へと続く平坦でまっすぐな銀杏並木を走っていく。夏休み中なので学生の数は少ない。佳奈子は自転車をぐんぐん加速していったが、それでもなぜかまわりの景色は止まっているように見えた。

 図書館でもそうだった。むせ返るような本の匂い、人もまばらな個人ブース、小声で話す受付の人たち。いつもと変わらない風景の中に身を置きながら、佳奈子は昨日までとは違う何かを感じていた。

 その日、佳奈子は早めに図書館を引き揚げた。課題のレポートをきりのいいところで終わらせ、いつものように本を読んでいたのだが、内容がちっとも頭に入ってこなかった。

 アパートにはまっすぐ帰らずに、普段はあまり行くことのない少し離れたディスカウントストアまで、佳奈子は自転車を走らせた。

 切らしていたジャスミンティーを買うつもりだったのだが、わざとらしくローズヒップやハーブを手に取り、さんざん迷ったふりをして、ジャスミンティーを買った。何度もスマホで時間を確認しながら、ゆっくりと佳奈子は買い物をした。

 アパートまでの上り坂を、佳奈子は自転車から降りてハンドルを押し出すようにゆっくりと歩いて上った。


 『今、アパートに戻りました』


 テーブルの上の時計は、まだ5時前だった。それでも佳奈子は確認せずにはいられなかった。パソコンを起ち上げた。エツの部屋はなかった。

(まだ早すぎるよね)

 8畳ほどの狭い部屋を隅々まで掃除して、夕食を済ますと6時半になった。佳奈子はジャスミンティーの入った大きなマグカップを片手に、パソコンに向かった。

 エツの部屋はなかった。

(まだ早いか)

 7時を回った。ぬるくなったジャスミンティーを飲み干すと、佳奈子は3杯目を注ぎにキッチンへ立った。2分おきに更新ボタンをクリックしてみたが、エツの部屋はなかった。

 香りのなくなったジャスミンティーを飲み終える頃には、9時になろうとしていた。

(今日もエツさんと話したかったな。やっぱりからかわれたのかな)

 佳奈子の全身から力が抜けていった。パソコンの電源を落とし、ベッドに倒れこんだ。枕を抱え、目を閉じて、エツのことを考えた。たった1日、たった1時間しか話していないのに、胸の奥のほうが少し痛かった。テーブルの上のデジタル時計が、ぼんやりと佳奈子の視界に映った。彼から電話がかかってくる時間になろうとしていた。

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