第3話

 大学2年になった今年の夏休み、佳奈子はお盆前に帰省し、1か月ほど『しげまつ』を手伝った。宿にとっては稼ぎ時であるこの時期、『しげまつ』は多くの宿泊客でにぎわい、そして多くの人たちが富岡製糸工場の見学を目的としていた。毎年夏に訪れてくれる馴染みのお客さんからは変わらず「かなちゃん」と呼ばれ、毎朝野菜を届けてくれる農家のおじさんからは、「そろそろ若女将だね」と冷やかされた。悪い気はしなかった。

 スマホを片時も手放せないという生活に変わりはなかったが、佳奈子は1日だけ休みをもらい、地元の友人に車の運転を頼んで、富岡製糸工場や周辺の観光地を見て回った。夜は時間の許す限り、父親から「経営哲学」を聞き、財務や会計に関する資料も見せてもらった。大学で学んでいることが、そのままリアルな「現場」に活かせることに佳奈子は喜びを感じた。その一方で、やるべきこと、やりたいことが多く、自分にはまだまだ知識も経験も不足していることを痛感した。

 横浜に戻った佳奈子には、またアパートと大学を往復するだけの日常が待っていた。“彼”以外の人間と、1週間以上会話がないこともめずらしくはなかった。以前はコンビニでバイトをしていたが、それも辞めてしまった。毎月振り込まれる仕送りだけでは生活は厳しかったが、2カ月に1度、実家から送られてくる地元の野菜や米、缶詰などのおかげで、食べることには困らなかった。

 後期の授業が始まる2週間ほど前の夜、佳奈子は自分で作ったカルボナーラを食べながら、赤ワインを飲んでいた。

 地元の食材を使ったイタリアンを、佳奈子は『しげまつ』のメニューに加えたいと考えていた。母親の作る和食料理も申し分なく、年配のお客様には好評だったが、若い人たちには物足りないように見えた。母親直伝の和食はまだしも、それ以外の料理はまだまだ自己流だった。就職活動をする必要のない佳奈子は、大学4年生になったら料理教室に通おうと決めていた。『しげまつ』で出されるお酒も、ありきたりなビールに日本酒、焼酎だった。二十歳になったばかりの佳奈子には、ビールはまだ苦く、日本酒も焼酎もその美味しさがわからず、かろうじてワインを舐める程度だった。

 食事の片付けを終えたあと、赤ワインの入ったコップを片手にパソコンを起ち上げ、佳奈子はネットサーフィンを始めた。無性に誰かとつながりたかった。そして、あるチャットサイトにたどり着いた。

 トップページの画面を見て、佳奈子にもこのサイトのいかがわしさがすぐにわかった。画面上に「部屋」を作って待機しているのは9割以上が男性、さらにその9割が卑猥なメッセージで女性の入室を誘っていた。

 佳奈子は待機メッセージの1つひとつを目で読んでいった。ワインのせいなのかメッセージのせいなのか、顔が熱かった。画面を上下にスクロールしながら、何度も更新ボタンを押して、メッセージの内容を慎重に吟味した。

 佳奈子は卑猥な言葉が書かれていない部屋をひとつ選んで、「入室」ボタンをクリックした。HNは「カナ」にした。本名では怖かったが、かといってまったく違う名前ではなんとなく嘘っぽくなると思った。

 優しいメッセージは、女性を部屋に導くための誘い文句でしかなかった。部屋に入るといきなり卑猥なことを書かれた。別の部屋ではいやらしい質問に答えられずにいると、強制的に「部屋」を追い出された。そんなことを繰り返していているうちに1時間が過ぎていた。佳奈子はこれで最後と決めて、更新ボタンをクリックした。

 新しい部屋が、ひとつ増えた。

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