首相官邸、新北線小古瀬駅前、学校
昨日からの激しい雨がようやく収まったこの夕方。しかし記者会見室は蒸し蒸しとした熱気と雷雨のような喧騒に満たされている。来るべき重大発表に向けて、誰もが興奮を抑えられないのである。
その男、
「本日、衆議院で労働関連二法案、すなわち新労働者派遣法案及び労働給与法が再可決され、成立致しました」
彼はそう告げると一旦場内をぐるりと見渡し、誇らしげに胸を張ってみせてから続けた。
「これら新法の施行により、日本経済は活性化され、経済大国の地位を確固たるものにするでしょう」
高らかなる宣言。次の瞬間、もう我慢できぬという様子で記者席のあちこちから歓声と怒号が上がった。
「よくやった!」
「日本復活の為の御英断!」
「ハケンいじめ!ブラック企業奨励!」
「どこまで格差を広げるつもりだ!」
司会の「何かご質問は」の声に手という手が挙がる。しかし彼らは皆指名されるのを待つ気もなく、他人の質問を聞く気もなく、大声で叫んでいた。司会は苦笑して会見の打ち切りを告げ、小瓜首相は騒擾に圧される様子も無く、登場した時同様堂々と退室していった。もっとも彼は端からマスメディアの質問をまともに受け付ける気は無かったし、向こうもそれは百も承知のはずだった。本来ならこのような会見自体バカバカしいのだ。しかしやるとなったら極力威厳を保ってやらねばならない。
小瓜はマスメディアが民衆にとって無益なものであると信じていた。なんとなれば新聞社など全部潰れて、国民は押し並べて人民党機関誌を購読すれば良いのだ。人民党機関誌ならば無知蒙昧な彼らを啓く力を持っているに違いない。一国の首相たる者、国民を正しき方向に導くのは究極の使命である。
彼が退出した後も記者たちの激昂は全く収まることを知らなかった。気が狂ったように万歳を繰り返す者、無駄な試みと知りつつ大声で質問を投げ掛ける者、言葉を尽くして彼を批難する者。スタッフがようやく報道陣の全てを追い出しおおせたのはそれからおよそ一時間も経った頃だった。
「やはり社によって随分論調が違うのでございますね」
側に佇む青い羽織の車夫の青年が感想を述べる。
「そうですね。しかし大きく分ければ小瓜政権を称賛する立場か批難する立場かで、ちょうど半々と言ったところでしょうか」
「中立的な論調のものはなかなかございませんね」
「さて、どうでしょうね。そもそも君の言う中立とは、良しとも
「なるほど、仰る通りでございます。私はまだまだ浅はかです」
「いや、私が正しい保証はありませんよ」
老人は笑って手を振った。青年は黙り込んだ。赤々と燃えていた空も既にだいぶ
「お帰りになりますか」
長い沈黙の後青年はポツリと言った。
「ええ、今晩は思いの外冷えそうですね」
翌朝、時刻はまだ六時を回っていない頃。閑散とした新北線小古瀬駅前ロータリーは、ただ所々にポツポツと昨日の号外が落ちていることを除いては全くいつもの早朝の景色だった。そんなロータリーに姿を現した一人の青年がある。彼の名は
悠因は小古瀬駅からほど近いところに住んでいるから、学校まではバス停10駅分といったところである。これぐらいの距離ならば、これぐらいの時間に家を出れば普通に歩いても始業の小一時間前には着く。だから彼はゆっくりと歩くのだった。考え事をしながら、或いは単に風景を眺めながら。
特に今日は考えるべきことがあった。もちろん、ロータリーにもその余韻を響かせていた、昨日の強行採決のことである。日本の労働環境はきっと悪くなるだろうと悠因は考えた。シンプルに言えば、彼は不安だった。もう一年もすれば彼は選挙権をもっている。五六年もすれば恐らく職を探すことになる。果たして健康に生きていけるだけの収入がある職に就けるだろうか。考えれば考えるほど悠因は切迫した気持ちになった。例えば近年日本で生活習慣病患者が増加しているのは何故か。一つには食生活があるのではないか。野菜を食べた方が良い、バランス良く栄養を摂るのが良い。そんなことはきっと誰もがわかっているのだ。しかしどうだろう。そこらへんのコンビニの弁当は安いが、生活習慣病予防の観点からすればかなりよろしくないだろう。それでもそういう食生活にならざるを得ない状況というのはある。更にいえば生活習慣病—例えば糖尿病が代表的だろうか—の治療はなかなか高価なものである。要するに所得が低ければ健康を害しやすく、害しても治療を受けにくい。このようなことを考えて、いまだ未来が不確定な青年が胃を痛めないわけがあろうか。
ところが悠因は学校で友人たちとこのような話題を論ずることは無かった。彼らの口から出ることといえば、アニメやゲームの話、アイドルの話、あるいは期末ヤベーよという恒例のあまりヤバそうでないぼやき・・・将来陥るかもしれない苦境のことなど心配していない様子である。確かに悠因たちの通う高校は県内でも一二の高偏差値だ。大学はみなそこそこの難関に入るかもしれない。しかしそれは恵まれた就職をも約束するものではない。エリート気取りでいたところで、学歴は学歴でしかない。就活は—企業の都合で解禁時期がズルズルと前倒しになるというロクでもないものではあるが—まさしく戦争だ。正社員はますます狭き門になりつつある。そして昨日、派遣労働者からスタートして正社員になるという希望もいよいよ失われはてることが明らかになった。未来は、お世辞にも「明るい」という言葉では形容できない。
胸中の焦燥が反映されてしまったのだろうか、悠因は気が付いたときには早足で校門正面の横断歩道を渡っていた。校門の脇に掲げられた時計を見れば七時五分。なんと記録的な早さである。しかし開門は始業の一時間前、七時半まで待たないとならない。
「困ったな」
思わず呟いて試みに守衛所をのぞき込むと、そこにはすでに警備員の司馬さんの姿があった。悠因がしばしば一番乗りするせいで、彼と司馬さんとはちょっとした顔見知りなのだった。
「早く来すぎたのかい」
司馬さんはすぐに彼に気付き、守衛所の窓を開けて問うた。
「ええ、ちょっと失敗しました」
「よし、今そっちを開けよう」
そういって脇門を指差すと、老守衛は顔を引っ込めた。ややあって守衛所の銀色のドアが開き、彼は鍵束を手に再び現れた。爽やかな空色の真新しい本門はいかにも似つかわしい最新式の電子錠を備えているのだが、何故か脇門の方は古く錆かかったものがそのままって残っているのである。
「すみませんね、ありがとうございます」
悠因は礼を言うと、まだ静かに眠っている校舎にゆっくりと歩み寄った。何故か溜息がこぼれる。空は薄曇り、大気は肌寒い。彼は自らの肩を軽く抱いて、ピロティに置かれたベンチに腰を下ろした。
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