回り道


「ねぇもし、一生やぶることができない約束をするとしたら、どんな約束をする?」


「え? 俺だったら…。〈死なない〉っていう約束かな」


「は? 死ぬでしょ絶対」


「いやさ。もし死んだら、それは自分のせいじゃないわけで。だからいいんだよ。自分が破ったんじゃないから」


「あんたさ。そういうところ、あるよね。なんか、生きるかとか死ぬとか、たいそうなことばかり言ってさ。でもさ、もし私が〈あんたと一生口をきかない〉っていう約束をしたら、あんた、耐えられる?」


「え。それがS子の望みなの?」


「望んでいるかどうかが問題じゃなくてさ。あんたがいつも言う、そんなでっかいことじゃなくて〈誰と口きく、きかないの〉とか、ちっさい事の方が、自由に出来ないと、しんどくない? あんたはさ、要するに幸せなわけよ。が自由に出来てるってわけ。だからよ」


「だから何?」


「あんたと私ってさ、友達? 彼女? それとも単純に幼馴染? 知り合い? そういったことをさ、あんたはいつも曖昧にするけどさ。

 そういった区別も出来ないと、なんにも手に入らないし、自分の人生だって、はじまらない。〈世界の~〉とか〈歴史上、人間は~〉とかさ、大きい話はいいよ。でもさ、あんたは? あんた個人はなんなの? 私がいなくても平気な人間なの? それともいなくてもいても、どっちでもいいわけ? 空気なのあんた?」



俺は、「あんた」を連呼する幼馴染のS子を前に、答えに窮していた。


ちょうど昼時で、大学の生協、それもいつもの窓越しの席で、俺たちはめしを食べていた。俺は小盛りのチャーハンを頼み、水の入った紙コップを手に、外を見ていた。S子は、ご飯大盛りの日替わり定食を食っていた。それも1リットルのヨーグルト飲料の紙パックを、ストローでちゅうちゅう飲みながらだ。S子は、他人から指摘されなくても「変わった女」だった。


「別に俺とお前って、そういう仲じゃないだろ…」


これは本音だ。このロマンスの欠片も無く、一方的に突っかかってくるS子とは、たしかに会うことが多いし、小さいころから見知った仲だ。けれど、それは単に時間が経って、たまたま大学も同じで学部も同じなだけなのだ。かわいくないと言えばうそになるが、S子が恋人だなんていうのは、すこし違うような気がした。


「ま、そんなところでしょうよ。ところで今日のレポート、資料見に行くんでしょ。私にも後でリスト渡して。代わりに、日本史のK先生の授業のノート貸すから」


「サンキュ」


S子は、きれいに空になった皿と一緒に、ガタゴトと大きな音をたてて席をたつ。椅子はそのままだ。後には、いつも通り、空になった紙パックが残された。


「で、これは俺が片付ける、と」


しぶしぶ、そのゴミに手をのばす。


S子はひどく無駄を嫌う女だ。食堂の出口と反対側にある、リサイクルポストが大の嫌いで、俺といっしょに食べるときは、いつもこうして置いていく。こんな世話を焼いてしまうのは、幼い頃からのよしみと、母親同士の仲がいいせいで、下手に邪険にできないのだ。


気が付くと自分の成績や、生活の細かいところまで、母親に連絡が行ってしまっている。そうして、一人暮らしの良さを多少奪われているのだけれど、おかげで、こちらから実家に電話を掛ける手間、話す手間が省けている。狙ってやっているのか、やはり、企図して動いているのだあいつは、と思う。


人間が生きている間に出合う人間の数は、こうしてマンモス大学なんてのに居ると、わんさか溢れかえるほどいるように思える。けれど、よく聞くじゃないか。晩年になって、足腰がきかなくなったとき、それでも気に掛けたり、気にかけられたりするような知り合い、もしくは友人なんて、数えるほどもいないとか。


色恋だってそうだ。ちまたでは、若ければそうした相手にも事欠かないんだろうとか、そういうことにばかり頭がいって、ろくに勉強もしないとか。そういう話。


でも、そんなのは嘘だ。現に俺は縁が無い。というか、別に男子校に通ったわけでも、まして、いまだって別に女子が近くにいない環境しか知らないとか、苦手だとか、コンプレックスがあるとか、そういうのも無い俺が、彼女欲しいとか、別に思わない事実を知れ。


エロい想像なんて、想像力とせいぜいパソコンがあれば、本や動画をネタに、幾らでも出来る。


そういう文明の利器がなかった頃はさぞ、あれやこれやと苦労し、羞恥心を払拭するのも通過儀礼の一つで、面白味もあったろう。


だが今では、目的と手段があまりに露骨に、そして安易に個人の「必要」を満たしてしまう。しかして、スリルも半減以下だろう。


異性への興味なんて、大抵は知識不足と、それによるから持続するもので、他、運命だとか事故のようなフォーリンラヴも、日ごろから期待でもかけて周囲を見渡している物好きにしかやってこまい。


第一、スマホの3ミリの文字にやっきになっているのに、世界の何が重要に見える

ことがあるだろう。


例えば、横断歩道の向こう側に人生でただ一人の運命の女性が立っていたとして、その人に気づく機会など、一体いつ、俺たちは用意できる?


それは、永遠に無いに等しい。なぜなら、ほんの束の間も、自分の視線の先を無駄にしないし、耳の穴には、自分の選んだ曲やドラマの音声が、ぎっしり流れ込んでいる。



すべてがそうやってこれまで生きた自分の中に綴じられていくのだから、新しい何かなど、入り込む余地は無いものと思われる。



『I!』


階段を降りようとしたところで、どんと、背後から声がぶつかる。


その声の強さに、心臓が飛び上ると同時に、階下から俺を見上げ、俺の背後の人間を見定めるその男に目が奪われる。かの、I先輩だ。


『ごめんごめん』


その長い足が、階段を、ふわりと捉えて、まるで風が流れるように移動していった。と、同時に何か、清涼感のある甘い香りが、額の奥を刺激する。


頭がおかしくなりそうな魅力。そう、それが「I先輩」。単純に俺の二年上だから。別に知り合いでもなんでもない。ただ、ああいう異人種が存在することが、哲学の種になることは有意義だ。


あの人の傍には、いつも特別な誰かが存在する。それが誰の目にも明らかだから、皆、それを見守る。そしてその大事な誰かが大事にされているのを確認し、安心する。また気が付くと、その人間が他の誰かに「交替」している。でも、それが何故か、当然のように許し、見ている社会がある。彼においては、恋が「そういうもの」として認識されているのだろうか。


俺には正直、信じがたい。服を着替えるのと同じように、恋人が変わる人間なんて、どういう神経をしているんだか。


恋情なんて、もっと神聖で、侵しがたい感情なんじゃないかと思うわけだが、重すぎるだろうか。いや、恋情が軽くて、他の何が重くなれる? 


全くの他人を自身の魂や血肉と同じ価値だと認めて、生活を共にしたいと感じるそれは、戒めのようなものでなくて、何であろう。だから、簡単には落ちないモノであり、こじれれば破滅。結婚すれば腐りもすると言われるのだ。


今の自分と、これからの自分。美しい計略の上に、を浮かべのが、恋というものだと俺は思う。もし、何の変化も与えられないのなら、それは恋では無く、他の何かだ。


それで? 


S子が俺の生活に変化を与え、あらゆる判断と行動に制限を設けているかといえば、その通り、そしてそれを不快に思っていない自分。


あぁ、まずい、これは否定できない。そうだ、認めよう。自分が40になって来た道を振り返るとき、S子は、間違いなく特別であることを。単純に今は、己の若さと未熟さゆえに、それを実感できないだけだということを。


賢者であれば、彼女にすぐさま結婚の約束を取り付けに行くべきだと、言うだろう。


彼女以上に、俺のことを理解し、変化をもたらし、灰色の思考の渦にも虹色のスパイスを振り入れ、現実に立ち戻らせてくれる存在はいないと。


いやしかし、これで話を終わらせるには、今一つ、役者が足りない。可も不可もないような現段階。きっぱり振られたとしても、悔しささえ浮かぶかどうか。そんな状態では、決めたくとも、決まらないというもの。


俺は、判断を先延ばしにすることにした。まだ、何も起きていないはずだから。何一つ、面倒なことは無い。そんなことを始める前には必ず、心の準備が必要なのだ。

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