『歩行者のためのカリグラフィー』

ミーシャ

脇道

鼻の奥がぼおっと、熱くなり、金臭くなったかと思うと、あぁ。


「四方屋くん、鼻血かい?」

「んん」

「君、前もやったよね」


急いで尻のポケットから、のティッシュを取り出す。パチンコの宣伝が厚かましく、俺の鼻血を笑う。


「すみません」

「いいんだよ。ただ、話聞いてた? 何か興奮するような材料があったかなぁ、僕の話」

「んん、すみまぁせん。はい」

「ん…やっぱり公私混同かなぁ、四方屋くん」


今は三限目の文学Ⅳのクラスだ。「残念ながら」今学期の登録者は俺一人。

そのせいにきまっているが、M先生のけだるい話しっぷりは、俺の理解力の良さで、ますます厚かましい。顔を天井に向け、俺はひとり耳を閉ざして、考えに向き合った。


Mは(もう呼び捨てでいい)、文学で生きてきた親父だとは思えないくらいの、でっぷりとした鈍感な男だ。


大学は、不出来な人間の博物館のようなものだが、それらをまじかで鑑賞するのは、健康にも悪い。無防備に毒されていくような気がする。


大勢の大学人が顔にぶらさげている不完全な個性というやつは中毒性があって、早くも教授のクローンになってしまった奴らもいる。でもそうなったらおしまいだ。将来的には都合がよくても、人間的には最悪の人種になる。


自分の不潔さに無自覚な人間には正直なりたくない。たとえ結婚できなくても、だ。


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精神の「崇高さ」は、いったいどこからやってくるのだろう。それは一つに宇宙から、そして天国から。


今日の天気を観察し、その穏やかなるさま、また、過酷なさまを肌で感じて、受け入れるところから崇高さは生まれる。歴史に残る名教授たちの議論だって、その日の天気がそれを許したせいだ。何の加護も無しに素晴らしい芸術品も歴史もないし、人間の幸福だって無い。


五月も半ば、ゴールデン・ウィーク病にかかった我が友人たちは、たちどころに大学から姿を消した。


いったいどこで頑張らねばならないのか、自分で判断することができないからだろうか。考えるのをやめれば楽になるだろう。でもそれができないことが、苦しみの素だ。そういうときは、服を脱いで海にでも飛び込めばいい。


「馬鹿馬鹿しさ」も、ときには薬になる。あくまでそれが演技として、まじめな自分の上に纏うものならば、快楽に自分をのっとられることもない。


 自然観察は、異様な快楽と自然な状態との「境い目」を知るのにもってこいだ。


『青天著しく、眼下にはツツジの香るエメラルドグリーン、桜の木は、花こそもう遥か昔に露と消えたが、いまは、空に飛び立たんとするかのごとく、若く、透き通るような黄緑の葉を茂らせている…』


生きている限り、内からあふれてくるエネルギーを発散するには、他の生き物に自分を仮託するのがいい。人に頼ることも、アイドルに夢中になることも、本に没頭することも、自然を観察し作詞をするのも、みなそういった営為の類だ。


結局はみな、同じことをしている。どんな人間も、持てるエネルギーのやりばに苦労して、それぞれに工夫しているのだ。


『いつもは、さもしく、つまらない硝子の窓は黄緑色の喜びにあふれている。

僕の左の頬を熱く焦がすのは、まばゆいばかりの黄金の光。そして、僕の髪にかかるのは、繊細な葉の陰たちの囁きだ。命がこぼれる光の中で、落ち着かなげな影たちは、僕の目など気にはしていない。それどころか、祝いの支度に大忙しなのだ。目の前を行ったり来たりするのに云々するのは、授業中とて、やぶさかではない…!』



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「四方屋くん、どうしようかな」

「ん…どうしましょう」


Mの腹のボタンが、目に飛び込んできた。薄黄色のシャツにそろいの色のプラスティックボタン。あぁ、がっかりだ・・・何が、がっかりか?ティッシュは足りたが、人差し指と親指、中指の先は赤さび色に染まったせいだ。


「すみません、ちょっと…」

「あぁ、手を洗ってくるんだね、どうぞ」


Mは、黒く染めたばかりのあご髭を自慢げにさわりつつ、熟考中。髪を黒くしておくのは、とうにあきらめたようだが、そのせいで、あごの下に視線が集中して、まるで、岩山に住むドワーフのようだ。


Mは、背が高くなく、顔は丸いし三重顎。靴はなぜか学生並の安いスニーカーで、ひどく汚らしい。そして、さっきの話では、「Mがどうしよう」と言っていたのは、自分の妻がどうやら浮気をしているということなのだ。


Mに不似合いな、頭脳明晰で、こともあろうに同じ大学の理学部で教授をしている「妻」は、Mよりずっと知名度があり、学生にも人気である。


だいいち、Mとその妻との仲など、俺の知ったことではない。


俺はいったいなんだ? たまたま、Mの授業を取ったに過ぎない学生だ。それに、Mが妻とうまくいっていなくても、そんなこと、はじめからうまくいっているはずなどないというのが、世間の認識だった。何かの勘違いか、神の差配か、そうとうに執拗な嫌がらせに決まっている。


Mがあの美人で、もてる教授と、いったいどんなロマンスを経験したのかなんて、おぞましいにもほどがある。


いま、男子トイレにいる俺は、思考を中断させる。爪の間に赤い線が二本、取れないのを見て水をとめる。


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「四方屋、授業中だろ」


知り合いのE男が(鏡越しに見たのだが)個室から出てきて、右隣で手を洗い始めた。E男は、何かにつけて、癇に障るやつだ。


「あぁ、鼻血が出てさ」


仕方なく、相手をする。またこの話。Mとの会話でうんざりだ。空色のタイルが光って、小さなE男が写りこむ。こうなったら、逃げられまい。


「えっウソ。おれ、鼻血なんて出したことねぇよ。見せて」


鏡越しにE男は俺の鼻の辺りをしげしげと見て、「うわっ、すげ」とだけ、言った。


ホラー映画を見た後のようなうすら笑い。E男は、そのままのシタリ顔で、ドアを片手で押し開け出て行った。誰か他に言うような大した話でもないが、ああいう奴は、そんな、どうでもいいことを吹聴するのが、ことさら好きだ。


果たして何時、飽きてくれるのか。専ら、被害者になることの多い俺みたいな人種には、とうてい理解できない。


それにしても、E男のポロシャツは、糖衣チョコレートのような、テカテカとした黄緑色だった。毒を持った南米のカエルが、あんな色をしている。「俺に触るんじゃねぇ。死ぬぜ」と言っている色だ。


「きしょくわりぃ」


一言つぶやいて、俺はすっきりした。

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