近道

 人生の目的について書かれた本を、何冊か読んだことがある。社会的成功、地位や名誉、それに財産が伴えば、後顧の憂いも吹き飛ぶのかもしれない。けれどそれより何より、目についた言葉がある。


 “愛する人を得てはじめて、人生足る”


 この言葉を思い出すのはいつぶりだろう。

 

 開けたドアから目に飛び込んできたのは、まるで草原のような、淡いグリーンのカーテン。向かいの窓はすべて開け放たれ、大きくうねるような緑の波が、不規則に寄せては返し、そのたび抱えた風の重みを、ひらりと解き放っては、また包み込む。

 

 ここはもう、大学ではない。見上げた「2-B」の文字。数年前まで通っていた、高校の一教室である。机の配置で分かる。窓側の一番前の席が、S子の席だった。

 

 どきりと、胸が鳴った。後ろ姿で顔は見えないが、まさにその席に一人、制服姿の女子が座っている。黒い髪を長く伸ばしていた頃のS子の後姿は、誰とも、どこか違っていて、すぐに分かったものだ。隣のクラスだった俺は、このドアの縁から、彼女の背中に声を掛けることが多かった。


 “人生とは、愛である”

 あぁ、またこんな言葉が浮かぶ。


 S子の名前を呼んだうちの何回か、もしかしたら俺は、恋と呼べる感情をこめて、呼んだのかもしれない。焦がれるように切実に、期待を込めて、関係が変化することを、望んだのかもしれない。



 “愛を求めてこその、人生である”

 

 どこかでそれが正しいと、「そうだ」と、頷くことが出来ればいいのにと、思う自分がいるのだ。それはかつて、極めてひそやかな感情に生きていた頃の自分の願望なのかもしれないし、息をひそめて苦しみを糧とする、あの誘惑が、懐かしいせいかもしれない。


 本当に嫌いだったのは、実は暗くて陰険なくせに、自己主張できない自分だった。負けるのが我慢ならないくせに、そう見られるのも嫌で、自分の ”素” が露見しないように、隠し事ばかり多くなって、息苦しい毎日。


 それでも、弱いことには変わりない自分。運動も勉強も、頑張れども続かない自分。何か一つでいいから、誰かより自慢できることを、持っていたかった。



 「S子!」


 彼女の過去の背中に、今の俺が呼びかける。そのとき、どっと教室に強い風が吹き込み、カーテンの裾が、一気に跳ね上がる。正面から強烈な日光に目を射られて、俺は目を瞑った。



 ***



 「…あんたってさ、どうなりたいの? 将来の夢とか」


 「え?」


 

 放課後、進路調査票をもらって帰り支度をしていると、セーラー服姿のS子が目の前に立っていた。

 

 ピラピラと、その手に真っ白な用紙をちらつかせながら、S子は俺の答えを待っていた。いつも急なのだ。俺から声を掛けても無視をするくせに、自分から気になることがあると、こんなにも脅迫まがいで、図々しい態度でからんでくる。



「別に、俺は自分の能力くらい、知ってるし。夢とか、語る奴もいるけど、正直、ほとんど叶わねぇじゃん? 無駄なことはしないっていうか。余力を割いている暇がないっていうか」


 S子の質問に正面から答えると、馬鹿をみる。だからこんな、ひねくれた答えになる。



「ふうん、じゃあさ」


 

 そのあとにS子が言ったことに、俺は目を丸くして驚き、なんだか慌てて、その場を後にした。そう、赤面するような、何か決定的なことを言われたのだ。それが、何だったのか、俺は思い出さないといけない。


 ***



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