山道

 

 小学校の外周、フェンス沿いを歩きだすと、砂粒交じりの向かい風に襲われ、顔を背ける。いいじゃないか、上等だ。ちょっとやそっとの強風で動けなくなるほど、俺はヤワじゃ無いのだ。


 掲げた腕を盾に顔を背けているうちに、風が通り過ぎる。


 また、ほら、正面を向けば、見慣れた大学に戻って来ている。中央キャンパスの西口に、一番近い学外の本屋がある。その本屋の前に立っていた俺は、そこから学生専用の自転車置き場を見つめ、もう一度、人気ひとけのない現実の大学に、戻って来たのだと気付いた。


 空を見上げれば、子どもが描いたような雲が二つ、わざとらしく横に並んで浮かんでいる。首を傾げて見ても、判を押したように同じ形である。


 まるで遠くて距離感が分からない分、不気味なのだが、そればかり気にしていられないのも事実。スラックスのポケットに手を突っ込み、そこに入れたはずの重要な何かを、引っ張り出す。キーホルダーの付いた家の鍵と、薄汚れた一枚の映画の半券だった。

 

 ふと、何とも言えない笑いがこぼれた。誰かに見られたら、変だと思われるレベルだ。咳払いでごまかし、また右腰の奥にしまいこむ。鍵は、ワイシャツの胸ポケットに押し込んだ。自転車をよけて、小さな階段をかけあがると中央キャンパスに入る。



 歩きながら、俺は回想にふけった。この思い出の半券は、小学生の頃に一度観て、大学に通い始めてすぐ、リバイバル上映されると聞いて訪れた、ある恋愛映画のものである。子どもの頃にそれを観たのは、一つ年上の5年生に”デート”と称し、無理やり連れていかれた先でのこと。

 

 勿論、その相手はS子では無かったのだが、向けられているのが好意であれば、それに抗うのは申し訳ない、という律義な頃の自分の身に確かに、起きたことだ。

 

 それをていよく利用されて…ということに、過ぎなかったのかもしれない。ひどくその5年生は、俺に女性の ”エスコート術” なるものを教え込もうと、躍起になっていた。


 彼女の為にドアを開けてあげたり、腕を貸したり、飲み物を買ってきたりと、もしそんな御題目が無ければ、ただのパシリとしか言えない数々の訓練に、俺は不愉快な思いをしながらも、付き合った。


 「好きだ」と言われ、「付き合って」と言われ、ただ当惑しつつも、NOと言わなかったためにだ。結局、どこでどうなったか。


 俺は、10号館の入り口にある泥除けに、一度立ち止まって、周囲を見回す。そうだ、この映画を、最後まで観なかったことが、そんな関係に終止符を打ったのだ。白く磨かれて光る廊下を見つめながら、俺はまっすぐ、その先の階段へ足を向けた。

 

 初心な少年心に、映画中盤の濃厚なキスシーンや、抱き合う男女の姿は、あまりに刺激的過ぎた。一人でだって耐え難いのに、同じものをその彼女も、他の観客も観ているのだと思うと、恥ずかしくて死にそうだった。だから逃げた。何が悪い? 当時は、平静さを装うような余裕さえ、無かったのだ。


 階段を一段飛びで、駆け上がる。なんだか身体が軽く、気のせいか、足も伸びたような気がする。



 何事にも、歳相応というのがある。そのとき逃げたことは、俺の中で一つの ”負けこし”になったのだけれど、それをつい最近、”勝ち” に上書きすることができた。とうとう最後まで、観通すことが出来たのだ。

 

 映画の中の男主人公たちには、同情すれども共感せず、というのが正しい。彼らの放つ言葉や態度、そうした理想の恋人像のひどく甘ったるく、『どんな心境なら、そんなことが?』という疑問、苛立たしさは、尽き様がない。

 

 加えて、彼女以外の女性が、まるでこの世に存在しないかの如きである。そんな一種、神々しいまでの彼らの姿を、称賛する女性たちが多くいる。うん、それは理解できる。

 

 しかし、そんな描写を見るにつけ、なんと現実は抗しがたく、冷たいのだろうかと思うのだ。これは、子どもの頃には持ち得なかった視点である。


 そう、少年時代は、そんな理想の彼氏に、いつか自分がなるのだと思って怯え、かつ、恥じらいを覚えた。しかし、時間が経ち、周囲を見回し、同性の意見ならぬ異性の態度を見るにつけ、そんな恐怖は、どこにも存在しえないのだと気付く。

 

 いやむしろ、落胆しさえする。なぜなら、それだけの忠誠と恥じらいを持って迎えるような女性自体が、いったいどんな環境下で、生まれ育ってくるというのだろう。

 男の方に、それだけ多くを求めるからには、女性側にも、それ相応のものを求めたい。だがしかし、ただそれだけのことさえ、理不尽にも鼻で笑われる。なぜ交遊に際し、女性は夢を見てもいいのに、男はだめだというのか。


 かくして、『世の中は間違っている』と、俺は思う訳である。



***


「はぁ」


 俺は、4階まで上り切ったところで息をはき、人のいない廊下で、声を頼りに人影を探す。すると、開け放たれた中庭側の窓から、話し声がするので、軽く身を乗り出す様に、下を見下ろした。



「もう少し、機敏に対応できない?」

「いや、これでもかなり早い方です」


 頭頂部の雰囲気で分かる。何やら、連れの男に怒っているのは、S子である。怒られているのはE男。関係無いと思いたいが、不憫なことに、俺のせいだろう。2人の足元にぐにゃりと、俺のリュックが、捨て置かれているのをみれば、さっきの正体不明の中身が何であったのか、想像がつかないでもない。


 俺は二人が、隣の12号棟へ入っていくのを確認し、頭を掻いた。もしかして俺は、S子から心理的に逃げているのかもしれない。不愉快な男が一緒に行動している時点で、俺のS子に対する認識も、似たり寄ったりとは、言えないだろうか。


 夢の延長とはいえ、さっきのやり取りが響いている。『もう少し俺の言うことを…』なんて、我ながらよく言ったものだ。けれど、やはり怖い。


 俺はぶるっと身を震わせた。夢とはいえ、いや、夢でも、なのか。


 そもそも、夢と現実は、結果として違うんだ。どちらが先で、後なのか、という問題ならば、結末が夢で終わったと仮定して、現実はいったい、どれだけの価値があるというのか。


 S子のことを、正面切って、好きか嫌いかと問われて、率直に、俺の意見だけを言うならば、おおむね嫌いに近い。申し訳ないが事実、そうだ。

 

 だが、言うじゃないか。好意の反対物は無関心で、嫌悪ではないと。嫌っていながらも、関りをやめないのにはおそらく何か、純粋な好意に転ずるチャンスがあると、いうことなのではないか。


 少し落ち着いて考えようと、俺は座れる場所を探した。授業中のような音がしないのをいいことに、一番近い教室のドアを、ノックする。



「コンっ」



 返事を待つのもおかしい。俺はドアを引いて、中に入った。


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