公道


 建物の中へ走り込んだとき、俺は確かに入り口のドアを押して、右にある消火器の錆びついた汚れを確認した。見知った6号棟だと、だからそのまま、階段前まで走って、上か下か、人の気配のある方へ、進めばいいと思っていたのだ。


 しかしドアを開けて、前方に捉えた景色は、いきなり公道、それも二車線の道路だった。立ちふさがるように悠々と伸びた車道には、辛うじて歩行者用の信号機が一組。広めの横断歩道は、俺の足元からまっすぐ、最短距離で描かれている。


 思い出した。その向こうに広がるのは、一面のニンジン畑だ。自分がかつて通った、小学校の校門前からの眺めは、いつもこの排気ガスと、肥料の混じった臭いと一緒だった。


『なんで…』


 幼い頃に戻りたいなんて、誰が願ったのか。俺か?と自問自答しても、懐かしいはずの人間の顔は、どれも曖昧だ。小学校で共に暮らした友人の半数は同じ中学へ、そして、その内の10人ほどは、高校も同じだった。


 S子を除いて親しい奴はいなかったが、それを淋しいと感じたことはない。だって、そんなものだろう? いまさら、算盤そろばんやリコーダーを背負って、通学路をのろのろ歩いていた頃が懐かしいなんて、あるわけない。


『やめだ、やめ』


 開け放たれた校門を見ると、余計に不快だった。空を見上げれば、不自然なほど晴れ渡った青空に、太陽が輝いている。そうだ、こんな日は反対に、気分が悪くなった。雨だとか台風だとか、天気の良くない日は、暗い顔をしていてもごまかせるのに、こんなに気持ちのいい日に、そんな顔をしていたら、目立って仕方がない。だから余計に疲れて、子ども心に、自分の表情を隠して生活する術なんて、考えたりもした。


 まぁ、そういうわけだ。楽しいことなど、戻りたい日々などここにはない。


 俺は、目前の車道に目を落とし、130㎝そこそこの伸長では大きく見えた横断歩道も、まるで頼りなく見えることに戸惑った。第一、白線が消えかかっていて、よく見えない。自宅への道は、ここを渡って、畑沿いに歩き、二番目の角を左に折れた先の、さらに先へと続く。


* *


 一人暮らしを始めて二年目。正月には一度、実家にも帰った。晩酌をする親父の傍で夕飯をとり、久しぶりに話もした。来年には二十歳だとか言って、親父が嬉しそうに笑ったもんだから、俺も気恥ずかしくて、つい「あまり飲むなよ」なんてことを、初めて言った。


 母親は知っての通り、俺が帰ると、帰らざるとにかかわらず、細かい情報を得ている分、直に会うと、あまり何も訊かない。ただやたらと食べさせようとするから、何か言わないといけないかなとは思って、「おふくろの飯は美味いな」と言って、気を遣ってみた。


 事実だし、実際そう思ったが、口にするとわざとらしく聞こえる。兄弟がいなくて、俺一人なのだから、言うべきことは言っておかねば、と思うくらいは、俺だって大人なのだ。



『なんだ、そんなこと』


幻聴のように、S子の声が、笑うように言葉を吐いた。



「逐一、大袈裟だよね。ただの親孝行じゃん」



 今度はたしかに、俺の耳と、身体に響いた。振り返ると、派手な黄色のソックスに、白く長い脚の、現在のS子が、赤茶のボブカットを揺らして、立っていた。走って来たらしく、息は上がっているし、肩もわずかに上下している。まさか俺を探して…と思えば、気分もいい。だが、S子はやっぱり、S子だった。



「はるばる人が心配して来てみたら、そんな歳で人生の感傷になんて浸ってさ。バカじゃないの」


 少し呆気にとられて、俺は睨み返す。馬鹿とはなんだ、他に言いようがあるだろ。


「余計なお世話だ。人の夢にまで文句つけるなよ」


 

S子は、唇を真一文字に結んで、ぷくっと膨れた。気に入らない時の顔だ。そして大きく息を吸い込むと、反撃にかかる。


「あんたさ、中学くらいまでは、もう少し聞き分け良かったよね。暗くて不気味だったけど、今のインテリぶった調子よりは、まだマシだった。ね、なんで。どうして変わったわけ?」


 どう解釈しても、救いの余地のない評価だなと思う。昔も今も、知ったことか。どんな俺だろうと、俺が俺である限り、気に入らないのはお前だろう、S子。


 夢の中の俺は、度胸があるのだ。言ってしまえとばかりに、俺は常日頃、思っていたことを言葉にする。



「前から思ってたけどさ、なんでお前、俺の母親みたいなこと、してくんの? 頼んでねぇのに、うざいんだよね。それで俺のこと好きとか思ってたら、正直ウケる」


 夢の中とは言え、どうして二人いっしょだった小学校の校門前で、言い争いになっているのか。俺も正直、この展開の意味が分からない。


 だが、S子はあまりにリアルで、いつもの、威張ったような腕組みの姿勢から、少し足を開いて立つ癖まで、まるで俺の望んだ感じじゃない。悲しいかな、出会った時からこんな態度のS子しか、俺は知らない。


 幼い頃は、喧嘩になろうものなら、S子の平手打ちが怖くて、俺は言い返せないことが多かった。たとえ言葉で勝っても、暴力で勝てない。男女の身体的な力の差なんて、S子と俺に関しては、無意味なことだった。



「あんたって、ほんと嫌な奴」


「どうも」


 S子だって同じだ。小学校時代、隙あらば男子に戦いを挑んでいたのが、いつのまにか、そういう絡みをすることが無くなっていた。代わりに男を虫けらでも見るような目で見るようになり、かと思えば遠方射撃のように、人の心を抉るような言葉を吐くようになった。中学からか? 


 俺は、S子を見て思った。こいつ、マジで何したいんだろう、と。そんな心の声が通じたのか、S子は急に真面目な顔をして、こう言った。



「あんたってさ、私のこと、好きなん…だよね」


 縮まらない距離感はそのままに、言葉だけが宙に浮く。浮いた言葉は、ふわふわと漂うように泳いで、俺の耳に届いた。


 俺はギシギシと、奇妙な音を立てて停止しかかる頭の回転を、必至で手動で回し、答えを出そうとする。要は素直になれと、そうなるように決断したんだと、自分に言い聞かせる。


「あぁ…そういう、そういうことね」


 俺は、"すべて了解済み" といった余裕の表情を浮かべて、首を左右に振ると、S子に言った。


「自分から告白したら負けだって、思ってるんだろ。どうだろな、お前がもう少し、人の話を聞くようになったら、ありかもしれないけど、今のままはちょっと」


 言ってやった。いや、とうとう


「なに、それ」



 さすがのS子も呆れた様子だ。俺は構わず続ける。



「いや、言った通りの意味」


「あり得ない」


「だろ?」



 何やら結論が出た。案外あっけないものだ。夢の中だから、こんな勝手な展開もありかと思いつつ、やはりバツが悪い。逃げるようにS子のいない反対方向、自分の背後に伸びた道に、気を逸らした。


 そもそも俺は、誰かを探していた気がする。それを頓挫して、こんな埒の開かない話をしているのは、果たしていかがなものか。校門を出て、自宅の反対側の道なんて、あまり知らない。それでも、それだからか、"目的地" に通じるも、見つかるかもしれない。



「じゃ俺、行くから」


 

 くるりとS子に背を向け、歩き出すのは、想像以上に、緊張した。だが、歩き出してしまえばこちらのもの。いっそ、かつてないほど清々しい気分だった。



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